3-5.悪寒/呉島 勇吾
背中に、温もりが残っている。
剣道着のごわごわした感触や、吐息の温度、シャンプーか、洗濯洗剤の匂い、震えるような彼女の声まで。
俺はそのことに戸惑っていた。
夜、自宅の地下、潰れたピアノ・バーのグランドピアノに指を滑らしながら、俺はうなるような声をあげる。
ロベルト・シューマン『クライスレリアーナ』Op.16
30分と少し、全8曲の幻想曲集を弾き終えたところで、俺は自分の手を見つめた。
「ワケが分からねえ……」
放課後、篠崎は俺を後ろから抱きしめた。
阿久津が俺のピアノを聴きたがったので、リストの『ラ・カンパネラ』と、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番『月光』、そして最後に、ショパンのノクターン20番を弾き終えた時だ。
──「どこにも、行かないで」──
彼女はそう言った。
あれは何だ? 何を意味している? 俺は、この出来事を、どう解釈したらいい?
ちょうどその時、スマホが鳴って、俺は電話に出た。事務所の社長からだ。
「ユーゴ! 聞いてるよ。調子いいんだって?」電話越しに、快活な声が響いて俺はスマホを耳から遠ざける。
「相変わらず、適当ばっか言ってんな。誰から何をどう聞いたらそうなんだよ」
俺が顔をしかめてそう言うと、電話を耳から離しているのを見越したように、社長は大声で笑った。
「全校集会で『マゼッパ』を弾いたって? ショパン・コンクールの予選通過報告なのに。
実力を見せつけるなら、同じリストでも、『ラ・カンパネラ』の初版だったはずだ。そういうのは、分かっちゃうんだよなぁ。年の功ってヤツさ。
つまり、君が『マゼッパ』を選んだことには意味があった。何か、その曲にメッセージを込めて、伝えたい相手がいたんだろ?」
「まずな、声がデケェんだよ」
「おじさん、聞きたいなー! 若者の恋の話とかをさぁ! えぇ? あのやんちゃ坊主が、顔を赤らめるところを見たいわけ! さぁ! 言ってごらん! これで、おじさん、結構経験豊富よ? 君らみたいな歳ごろの恋愛問題なんて、立ちどころに解決しちゃうわけ! なんなら──」
俺は通話を切った。
「やべぇな、あのオヤジ……」
50も過ぎたいいオヤジが、とんでもなく興奮している。俺が篠崎に竹刀を渡したことについて、今朝、酒井は「思春期だから」気になると言っていたが、社長の興奮度合いはそれを遥かにしのいでいた。あのオヤジはいったい、何期なんだ?
しかし、「恋の話」という社長の言葉は、妙に耳に残った。
これが、そうなのか?
俺が篠崎に竹刀を渡したのは、彼女が俺と同じ、戦い続ける意志を持った『仲間』だと思ったからだ。彼氏とか、彼女とか、そういうヤツとは多分違う。
しかし、手の甲に刻まれた古傷に目を凝らせば、まだあの日彼女がその傷をなぞった指先の感触が思い出せる。
そして、その感触が、俺のピアノに意図しない音色の変化をもたらしていた。
このことは、俺に一種の焦りを感じさせた。
俺の演奏は、ひとえに、そして完全に、俺のコントロール下になければならない。俺にはそれが可能だった。そしてそれこそが、俺が他のどんなピアニストよりも優れた点であったはずだ。
俺は身震いした。
この完全性が失われた時、俺に残されるものは一体何だ? 果たして、そんなものがあるのか?
ピアノの側に置いたサイドテーブルから、コーラのペットボトルを掴んで一口にあおる。
篠崎はあの後、俺に抱きついたことを詫びて、それから「週末、ご飯を食べに行きましょう。ご馳走しますので」と、なぜか変にへりくだってそう言った。
アイツは、俺のことをどう思って、そういうことを言ったのだろうか。俺のことが好きなのか? 好きなヤツとは、飯が食いたいものなのか? なぜ……?
俺はピアノを離れ、雑に並んだソファの1つに座った。そして、目をつむった。
俺は阿久津に聴かせるつもりでピアノを弾いたが、思えばその選曲も、自分で上手く説明することが出来ない。
まず、俺はリストの『ラ・カンパネラ』を弾いた。これは、分かる。俺がどの程度ピアノを弾くか他人に分からせるには、これが手っ取り早い。
次にベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番『月光』。ここから、もう、何となく、こういうものが、合うような気がしたとしか言いようがない。
そして最後にショパンのノクターンを弾いた。『月光』もそうだが、ノクターンはもっと、俺が自分でコンサートを開くとしたら、絶対に候補に入らないと断言出来る。
好き嫌いとか、得意不得意の問題ではない。俺はそういうタイプではないのだ。
ただ、あの時、俺は阿久津と話して、アイツがそういう気分だったんじゃないかと想像した。俺は阿久津と話した印象を、自分の中に消化して、それをああいった形で出力したのだ。
俺は自分が、他人にない才能を持っていることを知っている。そして、他人の持っているものを、ほとんど持っていないことも。
親、友人、恋人、そして、そういう近しい他者から授けられるべき、共感性だとか何だとか。だから、諸々の感情を知覚する能力が、多分乏しい。
自分について、そう思っていた。
だが、篠崎に『マゼッパ』を聴かせた時、そして阿久津にノクターンを聴かせた時、俺は確かに、他者の感情に働きかけようとしたのだ。
そして、阿久津に聴かせたつもりだったノクターンは、篠崎に何らかの感情を呼び起こし、結果、彼女は俺に抱きついた。
俺が大勢の前でノクターンを弾いたら、みんなが俺に抱きつくのか? どうも、そうはならないように思える。
篠崎に会ったら、「お前はどういうつもりで俺に抱きついたんだ?」と聞いてみるべきか、俺は30分ほど真剣に悩んだが、とりあえずは、やめておくことにした。
何となく、そういうことではないような気がした。
そうする間、社長からの着信が何度かあったが、徹底して無視を決め込む。
俺は篠崎の声を思い出しながら、彼女の言葉を反芻した。
「どこにも、行かないで」
あれは、どういう意味だったのだろう。
──「私たちにとっても、それは断腸の想いです。しかし、この子の将来を思えば……」──
と言いながら、両親はピアノの大先生というのに俺を売った。しっかり300万の金と引き換えに。
そしてそのピアノの大先生は、ピアノを触り続けていないと癇癪を起こす俺を持て余した。
──「今、世界で最も音楽教育の発達した国はハンガリーだ。君はそこで才能を伸ばすべきだ」──
──「日本だか中国だか知らないけど、自分の国に帰れよ猿」──
そう言った同級生をボコボコにブチのめして、俺はその親からも手痛く罵られた。
──「コンクールを受けなさい。出来るだけたくさんの。世界中を飛び回って、あなたの実力を示して来るといいわ」──
音楽学校の先生がそう言ったのも、実のところ、ていのいい厄介払いだったことはガキの俺にも明らかだった。
それからも、「あそこへ行って、これを弾け」と言われた事はあっても、「ここにいろ、どこにも行くな」と言われたことは、俺にはなかったように思える。
「結局、俺は、どこにいればいいんだ……?」
薄暗いフロアの中で一人、そう口にした途端、背筋にゾワゾワと悪寒が走った。
「うわっ……怖え……」
俺は別のソファに乱雑にかけてあった毛布をひったくるように掴み、肩から羽織ると、また、ピアノに向かった。
音もなく体温を奪っていく霧雨みたいな悪寒の中、俺は鍵盤を叩いた。
俺は、“これ”との戦いには慣れている。