3-4. Lento con gran espressione(ゆっくりと、とても感情を込めて)/篠崎 寧々
ピアノの音が聴こえる。
この格技室に接する体育館からではない。もう少し、遠くから。
それに気付いたのは、授業が終わって、道着に着替えた後の格技室でのことで、周りでは、みんなが「ソイヤッ! ソイヤッ! ソイヤッ! ソイヤッ!」と私を囃し立てていた。
これは、恋バナをする時に行われる、この剣道部独特の作法みたいなものだ。ワケが分からないけど、そういうルールなのだ。
現実的な問題として、呉島くんは、お腹がはち切れるくらいスイーツをご馳走してくれたり、良い竹刀をプレゼントしてくれたり、実際かなりのお金を使っているはずで、私はお年玉とお小遣いの貯金から、何かお返しをしなければならないと思っていた。
ところが、何をあげれば呉島くんが喜ぶのか全然想像がつかなくて、マユに相談したところ、あっという間に部員のみんなに広まってしまい、これは当然のように恋バナとして扱われて、「ソイヤッ! ソイヤッ!」となってしまったのだ。
マユは、こういうところが本当に変わってると思うけれど、彼女が呉島くんを狙っていることも部内では周知の事実で、同じ男を取り合うライバルとして私を巻き込み、その戦いの様子をさながらエンターテイメントのように周囲に知らせることで、一層自分の闘志に薪を焚べているみたいだった。
多分、彼女は観客のいるリングで戦うことが大好きな、根っからのファイターなのだ。その点、目立つことが苦手で、人前に立つと顔が真っ赤になってしまう私とは対照的だった。
と、まあ、そんなことより気になるのは、何となく、第六感的に、このピアノが、呉島くんのものだと思えることだ。
ピアノの響きから弾き手を聴き分ける能力なんて私にあるわけがないし、格技室に接している体育館以外にピアノがあるのは、私の知る限り音楽室だけで、そこは吹奏楽部が使っているはずだから、論理的に言えば音楽室に呉島くんがいるとは考えにくい。
けれど、根拠のない確信があった。このピアノは、呉島くんだ。
そう思い始めると、何かお腹の底の方から、ぐわぁっと、熱いものがこみ上げてきて、たまらない気持ちになった。
私は一直線に部長の前に出ると、「すみません、今日、お休みさせて下さい!」と申し出た。
この剣道部の部長といえば、個人戦では2年から全国大会に出場し、当然のように三段を取得する腕前もさることながら、相当な美人で、「彼女が顔を隠す競技をしているのは、地球上の美の総量を減らす暴挙だ」などと大袈裟なことを言う人までいるそうだ。しかもすごく頭が良いらしい。
「恋のやつかね?」部長は言った。
「分かりません! けど、ピアノが聴こえるんです!」
私がそう言うと、部長は少し考え込むようにしてから言った。
「我々女子高生にとって、恋は、命と同等に重い。だが、やれ彼氏とデートだ、気になる人が横切った、そんな理由でみんなが稽古を休んだら、部は成り立たん」
「おっしゃる通りです」
全くの正論だ。
「なら、もっとまともな理由が必要だとは思わんかね。冠婚葬祭レベルの、あるいは、プロポーズなんかでも、仕事を休む人はいるかもな。さて、君はどうだ?」
「私は! 彼を! 食事に誘います!」
私が叫ぶと、格技室に喝采があがった。
「足らんな。まるで足らん」
部長は私の鼻先に人差し指を突き出す。
「罰走だ! 4階音楽室まで階段ダッシュ! 今日はもう、ここに帰ってくるな!」
「ハイ!」と私は声を上げて、更衣室で鞄を引っ掴むと、そのまま駆け出した。
その背中に、「ソイヤーッ!」と声が上がった。部長とマユの声だ。部員たちが呼応する。
「ソイヤッ! ソイヤッ! ソイヤッ! ソイヤッ!」
袴のすそをたくし上げ、渡り廊下を抜け、階段を駆け上がる。途中で「速っ!」とか「デカっ!」とか声が聴こえたが、構うもんか。
太ももの筋肉が熱を帯びるにつれて、ピアノの音に近づいているのが分かる。
音楽室の分厚い防音扉の前まで来ると、その途端に緊張を感じて、私は呼吸を整えた。それから、そっとレバーを掴み、息を殺すように、開いた。
ドアの隙間から、ゆっくりとした、もの悲しいメロディが、指の間を零れ落ちるように溢れた。
✳︎
窓から夕陽が射して、夜を塗りたくったみたいに真っ黒なピアノに、不思議な陰影をつくっていた。
彼は背筋を真っ直ぐに伸ばして、そこに座っている。
時折り、その痛々しいくらいに感傷的なメロディに合わせて、彼の身体がかすかに揺らいだ。
その巨大な楽器と一体になって、彼は、完成されていた。
なんて、美しい人だろう……──
私は、音を立てないように、ゆっくりと、彼に近付いていった。
鍵盤の上を滑っていく、彼の細く長い指が視界に入った時、メロディは、何か大事な思い出が頭をよぎっていくような淡い色彩をにじませて、私にはそのことが余計に、悲しく、心細く感じられた。
彼の両親は、彼にピアノの才能を発見すると、3歳の彼を、音楽の分かる誰かに売った。あの夜、彼はそう断言した。
「売ったらしい」でも「売ったそうだ」でもなく、「売った」と。
『一度聴いた曲を完全に再現することができる』という彼の才能は、いくつかの要素に細分化できるはずだ。
一度に鳴る複数の音を聴き分ける能力、聴き取った音と対応する鍵盤を特定する能力、鍵盤や自分の手を中心に、空間を精密に把握する能力……そして、一度聴いた音楽や、見た楽譜を、正確に“記憶”する能力。
彼は、憶えているのだ。両親が、自分を売った日のことを。そして、きっと、自分が売られる前のことも。
きつく握った手のひらに爪が食い込んで、噛みしめた奥歯が軋んだ。
思い出はふっと消えて、また、最初のメロディに戻ったと思うと、悲しみがこみ上げて溢れるように、高音へ駆け上がり、それきり、また同じことを何度も呟くみたいに、静かに、同じ音型を繰り返す。
まぶたから、涙のこぼれる感触があった。
傷ついた人が見せる悲しい笑顔みたいな、切ない和音が静かに響いて、呉島くんの指が鍵盤から離れたとき、私は、背中から覆いかぶさるように、彼を抱きしめていた。
「どこにも、行かないで」
開け放った窓から不意に入り込んだ風にのって、かすかに拍手の音が聞こえた。
呉島くんは、私の腕の中で、小さく身じろぎをした。
「別に、どこにも行かねえよ。しばらくの間は」
「しばらくじゃ駄目」
「10月には、ワルシャワだ」
「どれくらいの間?」
「一月か、そこら」
「絶対、帰って来て」
「どうした、お前?」
私は言葉をつまらせた。鼻の奥が、ツンと痛い。
「だって、このまま、ふっと消えてしまいそうだった……」
「だとしたら、ショパンがそう書いたんだ」と彼は言った。
「すごく綺麗。だけど、とても、悲しい。なんていう曲?」
「夜想曲20番『Lento con gran espressione』」