1-2.敗北の余韻/篠崎 寧々
パジャマを脱ぎ、制服のシャツとブレザーに袖を通す。
お母さんに頼み込んで、柔軟剤を少し高いやつに替えてもらったので、とてもいい匂いがする。
しかし、それでも私の気持ちはあまり晴れやかとは言えなかった。
昨日の放課後に会った男の子、事情があって、4月も下旬に入る昨日、初めて学校に来た彼は、校舎裏で5人を相手にケンカをしたのだという。
世界的な天才ピアニストが、同じ学校に入学すると聞いた時には、ふーん、としか思わなかった。
だって私は、世界的に有名なピアニストを一人も知らないし、クラシックはもちろん、流行りの音楽だって、周りと話を合わせるために少し聞くくらいのものだ。
けれど、実物を目にした時、『天才ピアニスト』のイメージとあまりにかけ離れた彼の姿に、私は驚いた。
深い山奥に住む、獰猛で孤独な肉食獣みたいな目をした人だった。
とても音楽で人を感動させたり、リラックスさせたりしようとしているふうには見えない。彼を見ると、私は『音楽』という言葉を、間違って認識しているのではないかと疑わしい気持ちになった。
「寧々! ご飯! 早く食べちゃってよ!」階段の方からお母さんの声が聞こえる。
「うん! 今行く!」と答えると、右脚を曲げたり伸ばしたりして、調子を確認する。
違和感はない。
階段を降り、リビングで朝ごはんを食べ終わると、洗面台でお姉ちゃんと鉢合わせる。
「寧々、あんた何回歯磨くのよ」とお姉ちゃんはほとんど毎朝私にそうやって文句を言う。
動線が長いのよ。朝起きて、下に降りて歯を磨いて、顔を洗って、上に行って着替えて、また降りてきてご飯食べて、また歯を磨いて、上に行って鞄取って、また降りてきて髪とかして……効率が悪いわ。とか、そんなふうに。
「だってね、お姉ちゃん、口の中の雑菌は寝起きが一番多いらしくて、そのままご飯食べたら、雑菌を一緒に飲み込んじゃうんだよ。私、そんなのイヤだし、でもご飯食べた後に歯を磨かないのもイヤだから、面倒だけど、2回磨くしかないって思うの」
「分かったから」自分で聞いてきたくせに、お姉ちゃんは面倒くさそうにため息をつく。それから、私の髪をついでにとかしてくれる。実は、私の狙いはこれだ。
「お姉ちゃん、好き」と言うと、お姉ちゃんは、私の髪に、美容室で買った、いい匂いのするちょっと高いワックスをつけてくれるのだ。妹に甘い姉だ。
お母さんが、お姉ちゃんを呼んで、「遅刻するよ」と急かす。
お姉ちゃんは慌てて、私の髪に付けてくれたワックスの容器の蓋を閉めて、手を洗うと、「じゃあね、デカくて可愛い私の妹。姉ちゃんはもう出ます」と言って、身長を気にしている私の抗議から逃げるように、そそくさと玄関まで走り去ってしまう。
玄関が閉まる音を聞くと、私はまた、膝を曲げたり伸ばしたりする。違和感はない。
「あんた、脚、大丈夫なの?」とお母さんに声をかけられ、私は少しギクッとした。
「うん。全然、大丈夫」と答えて、軽くジャンプして見せる。本当に、もう全然大丈夫なのだ。大丈夫なことが、苦しいのだ。お母さんには内緒だけど。
私はそそくさとカバンを肩にかけ、竹刀袋を抱えると、玄関を出た。お母さんは出がけに、「あんた、無理しないでよ。剣道だけが人生じゃないんだからさ」と言う。
分かってる、と声に出たのか、出なかったのか、自分でもよく分からなかった。
✳︎
朝の空はいやに高く、すっきり晴れ渡っていて、まるでウジウジと悩み事をしてはいけないみたいだった。
私が本格的に剣道を始めたのは小学校に入学してからだったが、幼稚園の頃からお姉ちゃんの道場について行き、先生が子ども用の竹刀をさらに切り詰めて作ってくれた、二尺六寸の竹刀を振っていたのだという。
赤ちゃんのころから、母乳も粉ミルクもガブガブ飲んでいたという私は、常に周りの子よりちょっと大きいくらいだったが、小学校高学年くらいになると、他の追随を許さないほど身長が伸び始め、それに伴って、私の面打ちを防ぎ切る選手は、少なくとも県内の同学年にはいなくなった。
私は身体が大きいわりにのんびり屋で、中学に入ると、懐に素早く入り込んでの小手や、手元が上がった瞬間を捉えての胴打ちに苦戦し、さすがに面打ち一本で勝ち切るのも難しくはなっていったが、学年を重ねるにつれ、面を警戒させての小手や逆胴を磨くと、3年のころには、県内ではほぼ無敵だった。
ところが、中学生最後の団体戦、そこで私は怪我をした。
準決勝、先鋒から副将までのスコアは1勝1敗2引分け、大将の私が勝てば決勝進出という場面で、私の膝の靭帯は悲鳴をあげたのだ。
結果、大将戦は不戦敗、チームはそこで敗北した。
『膝前十字靭帯損傷』というのが私に下った診断だった。
整形外科の先生によれば、私の靭帯は切れてはいなかった。急な衝撃で伸びてしまったらしい。
靭帯が切れていた場合、再建手術を行うことになるが、悪くすると競技復帰はおろか、日常生活にさえ支障を残すケースもあるのだという。
私の怪我がそこまでのものでなかったことを、親や顧問の先生は喜んでくれた。
しかし、あの時の仲間はどう思っているのだろう。私は、未だにそのことが怖くて聞けずにいる。
はぁ、と、ため息をつくと、ふと、昨日のことが思い出された。
──「俺は負けてねえ。『参った』とは一言も言ってねえからな」──
短気で獰猛な天才ピアニスト、呉島 勇吾くんは、そう言った。彼は客観的に見てコテンパンだった。けれど、確かに、負けてなんかいないのかもしれない。
自分が負けを宣言しなければ、彼の敗北を決定付ける根拠が、そもそも存在しないのだから。
私も言ってないよ。「参った」なんて、一言も言ってない。
でも、あの日、大将戦は不戦敗になった。ケンカと違って、ルールがあるから。
あの時私が感じたのは、「膝が痛い」でもなければ「負けて悔しい」でもなかった。ただただ、怖かったのだ。敵でもない、怪我でもない、大事な準決の勝敗を決する大将戦を、戦わずに負けた私を、じっと見つめる仲間の目が。
私は負けた。何より、仲間に対する恐怖に負けた。そして今も、負け続けているのだ。
電車を降りて、駅から5分、校門の前までたどり着いた時、折から流れてきた雲が、太陽を覆って薄い影を落とした。
私は安堵のため息をついた。