3-1.思春期だから/呉島 勇吾
その日、俺が教室に入ると、酒井が喜色満面声をかけてきて、俺はその勢いに押されるようにして席まで辿りついた。
「ちょっと、もう、色々聞きたいことが多すぎてアレなんだけどさぁ……」
本当に、酒井には聞きたいことが多そうだった。手には雑誌を抱えていて、その表紙には俺の写真がでかでかと載っていた。
『月刊クラシックの友』
「お前、そんな雑誌、読むの?」
俺は逆に、そのことが気になった。
「本屋でたまたま見つけて、思わず買ったよね。ユーゴさぁ、もう、情報量が多すぎるんだわ。で、何、お前は消えてたの?」と酒井は雑誌の表紙を指す。
──消えた【神童】呉島 勇吾 ショパン・コンクールにて復活──
それには、俺がワルシャワでショパン・コンクールの予備審査を終えた日、真樹に連れられるまま受けたインタビューが載っているようだった。
「俺の視点から言えば、別に消えてねえけどな」
「いや、そりゃそうでしょうよ」
俺はこの数年、公式のコンサートを開いたり、コンクールに出場したりといった活動はなかった。もちろん、ピアノは弾き続けたし、それを人に聴かせもしたが、そのことをどう説明すべきかが難しかった。
要するに、俺の収入源は複数あって、それが自分のコンサートを開くより、よほど金になったということだ。
例えば、作曲コンクールの審査演奏であったり、予定の詰まった映像作品の収録だとかいった現場にとって、譜面を渡せばその場で何曲でも完璧に弾きこなす俺は、他のプロより倍の金額を取ったとしても、作業時間や依頼人数を減らすことによって、トータルのコスト削減になるというので重宝された。(こうした仕事は、匿名で受けた。金にはなるが、『格』が下がると事務所が判断したためだ)
そういう場所では、俺は演奏家というより技術屋として高く評価されたが、一方で、音楽家としての俺をより高く評価し、より俺を儲けさせたのは、金持ちの道楽に付き合うことだった。
俺には何人かのパトロンがいて、ソイツらの家でピアノを弾いてやったり、主催する音楽会に出たりといった仕事は、俺の預金通帳の冊数をやたらと増やしていった。
質の良いオーディオに飽きたクラシック・ファンの大金持ちが、ピアニストそのものを囲うという贅沢を思いついて、目玉が飛び出るような大金が飛び交ったということらしい。デカいホールを借りて、チケット代からペイすることを考えると、比較にならない利益率なんだそうだ。
──本物の『上質』を知る者だけに味わうことができる、『最上の音楽』──
とかいう触れ込みで、富裕層の購買意欲をあおったらしいが、俺はそこで、こう呼ばれた。
──「かつて『伝説の名手』ニコロ・パガニーニの魂を買った『音楽の悪魔』が、次に選んだ子ども」──
俺はこうした事情をかいつまんで、「メディアに出なくても、ピアノを弾いたら金をくれるヤツってのは、案外、世の中にはたくさんいる」と説明したが、酒井や周りのクラスメイトは、あまりピンときていないようだった。
「まあ、いいや。多分、聞けば聞くほど分からない系の話でしょ?」
「そうかもな。俺も、ほとんど事務所に言われるままピアノ弾いて回っただけだ。あちこち飛んで回ったが、ホテルとスタジオとステージにしか出歩かねえから、今自分がどこの国にいるのかさえ、よく分からねえことが多々あった。俺はピアノが弾けりゃ他のことはどうでも良かったしな」
「そんなことより、俺はアレが聞きたいんだよ。女の子に竹刀渡したヤツ!」と酒井は言う。
日本の高校生のほとんどが、クラシックのピアニストには興味がないという話は聞いていたが、そのわりに登校初日から色眼鏡で見られていたことを居心地悪く感じていた俺は、自分が詳しく説明しなかったにせよ、その経歴を「そんなこと」で済まされたことに一種の衝撃を覚えた。
酒井は興奮気味に続ける。「いや、実際、演奏に度肝抜かれたのもあって聞きそびれたけどさぁ、昨日、この雑誌買った時、会ったんだよ。あの大きい女の子。何? 付き合ってんの? 俺はそれが一番気になるわけ! なぜかというと、思春期だから!」
「そうか。お前は、思春期なのか」
そう俺が言うと、酒井は一層興奮したように声をあげた。
「お前もだよ!」
「まあ、確かに。よく分からないんだが、『付き合う』ってのは、彼氏とか、彼女とか、そういうヤツか? つまり、恋愛対象として」
「そうそう。そういうヤツ。で、どうなのさ」
俺はそれについて、少し考えた。
『恋愛』というものについて、俺は詳しくない。多分人並みの性欲は持っていると思うが、具体的にこの女とああなりたいだとか、あの女とこうしたいだとかという気持ちを、誰かに対して抱いたことはないと思う。
だが、篠崎と尋常でない量のスイーツを食った帰りの夜、公園で彼女と話した俺の中に、これまで俺の中になかった感情が確かに生まれた自覚があって、俺は、名前をつけることもできないその感情を、ただ持て余していた。
その感情は、俺を武道具屋に運んで竹刀を買わせ、全校集会でリストを弾かせた。
うーん……と、うなってから、口を開こうとした時、
「まあまあ、そういうの、あんまグイグイ聞くなって」と剣道部の平坂 マユが割って入った。折に触れてはすごい勢いで話しかけてくる女だ。
「ユーゴくん、今まで、同じ歳の子ばっかり集まってる学校って、通ったことないんでしょ?」
「いや、ハンガリーにいたころは、まあ、同じくらいの歳の連中と一緒だったな。その後は、大人の中にポツンとガキが1人って感じだったが」
俺がそう答えると、マユは微笑んだが、その眼光は獲物を捕らえようとする猛禽類のように鋭かった。
「こうやって、同じ高校に来て、出会いがあったんだからさ、これから、友だちが出来たり、彼女が出来たり、楽しいことがいっぱいあるよ。日本のこととか、学校のこととか、知らないことは全部、アタシが教えてあげる」
「そうか。お前、いいヤツだな」と俺は率直な感想を言ったが、マユは一瞬、危機を察知するように目尻を動かした。
「違う違う。『いいヤツ』じゃなくて、『いいオンナ』でしょ? ほら、言ってみて。『マユはいいオンナ』」
「マユはいいオンナ……」
俺は彼女の言う通りに繰り返した。これにはどういう意味があるのだろうか。
その時、不意に教室の入り口の方がざわついて、そちらに目を向けた酒井の顔色が、目に見えて蒼ざめていった。
「阿久津……」
「え、何?」酒井の視線の先を辿る。
大柄な男だった。髪を肩にかかるくらい伸ばして、毛先にゆるくパーマがかかっている。表情は穏やかだったが、ブレザーのまくった袖から見える太い腕には、隠しがたい暴力の気配がにじんでいた。襟についた学年章は、彼が3年生であることを示している。
「呉島 勇吾っつーのは?」と男は言った。
「俺だけど」
俺が立ち上がると、酒井が引き留めようと俺の袖を掴んで、小声で呟く。
「あの人は、ヤバい……」
3年の男は遠慮する様子もなく、教室にずかずか入ると、俺の顔を値踏みするように見た。
「誰だ? アンタ」俺はその3年を見上げて言った。
酒井が俺の袖を引っ張って首を横に振る。
「お前、ウチの学年5人にヤられたろ」と男は俺を見下ろしながら言った。
「ヤられてねえよ。勝ったかどうかは見方によるが、負けてねえのは断言できる。で、何だ? 今度はお前が相手かよ。得意の校舎裏か? 連れてけよ。いつでもやってやる」
男は笑った。
「お前、マジ狂犬だな。勝てそうとか、負けそうとか考えねえのかよ」
「関係ねえんだよ」と睨む。
が、男の反応は意外なものだった。
「お前、昼飯、弁当?」
急に何を聞くんだと俺は戸惑ったが、「いや、適当に買うけど」と答えた。
「じゃあ、昼休みに購買来いよ。おごってやる」
「あ? 要らねえよ別に」
「遠慮すんな。校舎裏より全然いい所があんだよ」
俺が良いとも悪いとも返事をする前に、男は「じゃあ、昼にまた来るわ」と勝手に話を進めて去って行った。