2-9.戦士の理論/篠崎 寧々
校舎裏、倉庫の陰。格技室の勝手口から出ると、すぐそこの物陰で、私は泣いた。
暗くなった通りを心許なく照らす街灯が、倉庫の陰に淡いオレンジ色の光を落とす。
中学の部活を引退してから半年間、私は苦しみ続けた。
病気や怪我、貧困や紛争、あるいは呉島くんのように、不遇な生まれや極端な才能によって苦しんでいる人たちが世界中にいるのと比べれば、たった半年間の、私の悩みなど、どれほどちっぽけなものだろう。
だが私は、事実として、身が引き裂かれるように苦しかったのだ。それが永遠に続くように思われたのだ。
今日、私は戦った。そしてその戦いの、いくつかに、勝った。
団体メンバーの選抜試合、私は結局、Bチームの中堅に落ち着いた。付け焼き刃の上段など、3年生の先輩方にはほとんど通用しなかったし、やはりいくつかの試合では、足が震えて思うように戦えなかった。
それでも私は戦い抜いた。
一方マユは、Aチームの先鋒に抜擢された。トータルの勝ち数が、私よりずっと上だったのだ。
自分が戦えたことに対する喜びと、お腹の底に煮えくり変えるような悔しさがぐちゃぐちゃになって、叫び出しそうだった。
私は、倉庫入り口の階段に腰を下ろして背を丸め、次から次から込み上げてくる嗚咽を噛み殺した。
部員たちの談笑が、倉庫に隔てられたすぐ向こうから聴こえる。
「お疲れ様でした。私、寄るところがあるので」
マユの声が聞こえると、それに続いてまるで無遠慮な足音が近付いてきて、私は身構えた。
伏せた顔を上げた時、彼女はもう、目の前にいた。
「マユちゃん……」
「その『ちゃん』っていうの、やめてよね。今さら」マユは呆れたようにため息をつく。「負けたわ。片手突きだの、上段だの、飛び道具ばっか使いやがってさぁ」
「ごめん……」
「はあ? 何謝ってんだよ。ぶっ殺すぞ」
「ご……ごめん」
「だから、謝るなっつーの。勝つためにやったことだろ。アンタは、私に勝つために、自分に出来ることを全部やった。私だってそうだ。その結果、アンタが勝って、私が負けたんだ。
まあ、トータルの勝ち数は、私の圧勝だから、ほんと、そこんとこだけは、しっかり押さえといてもらわないと」
「うん……」
「ケガのこと、怖かったんでしょ?」とマユは言った。
私は、答えに窮した。
「いいよ。別に。私だって、アンタの胸の内なんか聞きたいわけじゃない。どうせ、アンタのことだから、期待を裏切るのが怖いとか、そんなことでしょ」
私はびっくりして、彼女の目を見つめた。
「どうして……分かるの?」
「何回戦ったと思ってんだよ。まだ自分で面紐も結べない小学生のころからさぁ。どうせ自分のケガで負けたチームのこととか、いまだに引きずってんでしょ。
アンタが全中の地区予選でケガした時、私は決勝でアンタと戦うのを待ってた。正直、残念だったよ。ケガなんかしてんじゃねえよと思ったよ。アンタのチームメイトはなおさらだろうね。だけど、それが何?『文句あんならかかって来い』ってなもんだろうがよ。
大将戦でケガしたアンタが悪いんじゃない。アンタより弱かった連中が悪いんだ。負けたくねえなら副将までに勝負付けりゃいいんだ。そして、私は何も悪くない」
「うん。マユは、何も悪くない」
私は、それがずっと引っかかっていた。これは私の問題だった。常に上を上をと目指している彼女にとって、私はライバルだった。私はそのライバルの期待を裏切っていたのだ。
彼女が腹を立てるのも当然だ。それなのに、私は自分を勇気付け、奮い立たせるためだけに、彼女を敵視して、暴言まで吐いて……。
「アンタ、また謝ろうとしてるだろ」マユはまた、私の思考を、ぴしゃりと言い当てた。
「だって……マユは……何も悪くなんかないのに……」
「当たり前だろ。私は、アンタに謝ることなんか何もない。じゃあ、アンタはどうなのさ。何を謝るつもりなワケ? 今日の試合、私とアンタは敵だった。闘志剥き出しで当たり前だろ。アンタ、私が仲良しグループみたいに接してもらいたがってるとでも思ってんの?」
「だって……私は……マユちゃんのことが、本当は、大好きだからぁ……!」そこまで言うと、私は喉元で押さえ込んでいた嗚咽がいよいよ堪えきれなくなった。
マユは私の首に腕を回して抱きついた。
「分かってんだよ、そんなこと!」
「なんで分かるの? 全部……」
「アンタ、私にタンカきってる間も、ずっと泣きそうな顔してんだよ。クソが。私だって、アンタがかわいくて仕方ないんだよ!」
私の頬に、彼女の柔らかい頬っぺたが触れ合ったとき、そこには濡れた感触があって驚いた。
「マユちゃん……」
「だから、ちゃん付けやめろって。デカい図体してさ」
「ヒドい。デカいって言わないで」
それから私たちは、少しの間、2人で抱き合いながら、ワケも分からず泣いた。
春の、涼しい夜の匂いがした。
✳︎
それから、私たちは、駅までの道を一緒に歩いた。
「じゃあ、呉島くんにちょっかい出したのも、私を挑発するため?」
私がそう聞くと、マユはピシャリと否定した。
「んなワケあるか。大体、私の方が先に目ぇつけてたから。アンタ、竹刀プレゼントされて一歩リードとか思ってっかもしんないけどさ、私が思うに、アレ、逆に脈なしだかんね。だって、竹刀だよ。アンタ自分が男だったら、好きな女に武器渡す?」
「薄々、勘付いていたことを……」
「絶対、『仲間』的な、『友情』的なヤツじゃん。道のりは長いと見たね。その点、私は異性としての関心をガンガン発信してるからさ」
「確かに……」私は先日のマユの猛攻を思い出して身震いした。
「ただ、その前に、『共通の敵』がいるワケじゃん」とマユは言う。
それだ、と私は強く何度もうなずいた。「マネージャー」
「あの、フェロモンだだ漏れ肉食通い妻を何とかしないと」
「フェロモンだだ漏れ肉食通い妻……」
なんだか、ものすごい言葉だ。ただ、マユの言うことにも一理ある。あの人は、女の私から見ても息を飲むような美人だし、身体つきとか、顔つきとか、そういうのが、何というか……エッチだ。
しかも、呉島くんとかなり長い時間を一緒に過ごしている強力な対抗馬だ。
「話してて分かったけど、ユーゴくんって、意外に女慣れしてないっていうか、結構、純粋じゃん。まだ、手は付いてないと見た。でも、あの女の感じ、あれは、完璧狙ってるね。多分、彼が18歳になるまで、自分好みに育てるつもりだ」
「猶予は、呉島くんが、18歳になるまで……」
「あくまで、あの女が、青少年保護育成条例を守るつもりがあればね。私が逆の立場なら、そんなのこっそり上手いことやるよ。隙さえあれば。アンタだったら?」
私はそれを想像すると、思わず「逆に……そっちの方が……」と口の端から漏れた。
「ひゃ〜! エロい! でも正直そうだ。私だって、そういう、禁断の関係の方がはるかに興奮するわ。要するに、あの女がそのダイナマイト・ボディで、いつユーゴくんの理性を爆破してもおかしくないっていう、一触即発なワケ」
なんだか、すごい話になってきた……と私は生唾を飲む。「それで……どうすれば……」
「ここは、共同戦線を張るしかない。フェロモンだだ漏れ肉食通い妻の熟れた肢体よりも、同世代の若い女の子の方が良いって思わせるんだよ。競合2人が競い合う前に、まずは彼の関心をこっちの市場に引っ張る」
「じゃあ、2人で、呉島くんをユウワクする……?」
「アンタまた、エロい言い方すんね」とマユが言うので、私は否定しようとしたが、マユはそれを待たずに続ける。「まあ、でもそういうことだね。とにかく2人でアピールして、選択肢を限定するんだ。私とアンタの二択にして、彼の意識からフェロモンだだ漏れ肉食通い妻を締め出すワケ」
マユはそこまで言うと、どう思う? と私に意見を求めた。
「絶対、マユの方がエッチだと思う」
本当に、これだけは言っておかねばならない。