2-8.大衆/呉島 勇吾
勝負は一瞬だった。
それまで、お互い右足を前にして、左拳をヘソの前に浮かし、竹刀の先を相手の喉元につけて構えていたが、審判の「勝負!」という合図と共に、篠崎はそこから左足を踏み出し、両手を高く頭上に掲げた。
そして、野生の気高い獣のように、遠く、強く、長い咆哮をあげた。
相手は一瞬、少し躊躇うような素振りを見せたが、やがて剣先を篠崎の左拳に向けた。
(con fuoco……)
脳裏にそんな言葉がよぎった時、俺は篠崎の両腕が、その肩から外れてどこかへ吹っ飛んでしまったんじゃないかと思った。
3人の審判が、ほとんど同時に白い旗を挙げた。
白い襷が、篠崎の背中で翻った。彼女がとんでもない速さで竹刀を振り下ろし、相手の頭を打ったのだと気付くと、俺は言葉を失った。
会場がどよめくまでに、少し時間がかかった。この感じを、俺はよく知っている。
ホールに残る残響の後、俺が客席に礼をするまでの間、惚けたような顔をしていた客が、ふと我に返って拍手をするまでの、あの間だ。
「左諸手上段構……」
俺の隣にいたおっさんが、不意にそう言った。
「あの、両手を上げる構えのことか? あれ、カッコいいな」と言うと、反対隣にいた真樹が、俺の脇腹を小突いて睨むので、「ボクは、そう思います」と付け足した。
「ああ、うちの娘を、ずっと応援してくれてたね。ありがとう。しかし、あの子が、あんなふうに戦うなんて、思いもしなかった」
ウチのムスメ? 俺はその言葉を解釈するのに少し時間を要した。「篠崎の、父か!」
俺が声を上げると、真樹が口をはさむ。「コラ、『お父さん』と言いなさい」
まるで常識のあるヤツが常識のないヤツに言うような態度で、俺は不満に思ったが、篠崎の父は、そんな様子はお構いなしに、誰にともなく呟く。
「しかも、上段用の竹刀まで。いつの間に買ったのか」
「あの竹刀はな、俺があげたんだ。まさか、あんなに力いっぱい人の頭を叩くとは思わなかったが」
「まあ、そういう競技だからね……」と言ってから、篠崎の父は俺の言葉を咀嚼するような間を開けて、「ところで、娘とは、どういったご関係で?」と尋ねてきた。
「仲間だ」と俺は答える。
すると、安心したような、疑うような、複雑な顔をする篠崎の父に、なぜか真樹がジャケットの内ポケットから名刺を取り出しながら割って入った。
「申し遅れました。彼は、弊社所属のピアニストで、呉島 勇吾、私、そのマネージャーで柴田と申します。彼は母国での活動に際して日本の文化を学ばせるために、このほど、こちらの高校に通わせて頂いております」
「ピアニスト……」と篠崎の父は声をあげた。「これは、不勉強で失礼しました」
俺は、彼が急に態度を改めたことに興味を持ったが、それについて尋ねようとすると、真樹が遮った。
「こちらこそ、何せ彼は海外生活が長いものですから、日本式の礼儀といいますか、特に敬語というものに慣れませんで……」ベラベラと説明を並べながら、ワルシャワの街並みがどうだの、このところの天気がどうだのという世間話さえ混ぜ込んでまくし立てた。
「そうでしたか……」
篠崎の父が、真樹の勢いに気圧されるように、彼女の息つぎの隙間を縫って、辛うじてそう言うと、真樹は、わざとらしく腕時計に目をやって、「ああ、いけない。次の予定があるものですから、私共は、これで失礼いたします」と変に恭しく頭を下げて、俺の腕を掴んだ。
「なあ、俺は、篠崎の父と話したいんだが……」と言ったが、真樹にはそれを聞き入れるつもりはなさそうだった。一層の力を込めて俺の腕を握る。
「では、呉島さん、今度改めて、お食事でも。竹刀のお礼もありますし。娘を通してご連絡差し上げますので」と篠崎の父は俺の背中に投げかけるようにそう言った。
真樹は何か言おうか言うまいか、悩むような素振りを見せてから、小さく会釈をして、強引に俺を連れ出した。
ギャラリーを出る一瞬、辛うじて見下ろした体育館の隅に、面を抱えた篠崎(娘)と目が合った。
俺は拳を突き出した。遠くて表情は読み取れなかったが、彼女は小脇に抱えていた自分の面を掴んで、大将首を掲げるように、それを突き上げた。
✳︎
「なあ、話くらいしたっていいだろ」
俺は校舎を出ると、真樹に抗議した。彼女が、俺と篠崎の父との会話を妨害していたのは明らかだ。
真樹がそれに答えたのは、来客用の駐車場に停めたレクサスに乗り込んでからのことだった。
「ダメだな。お前はまず、礼儀ってもんを全く知らねえ。それが原因で起きたトラブルを、今まで誰が、何回始末してきたと思う?」
「さあ、数えてねえな」
「アタシもだよ。だがそれでも、今までのトラブルは解決すりゃあ金にはなった。
相手が共演者だの、ホールの支配人だの、あくまで興行に関わることなら、まあコトの起こりがお前の無作法だったとしても、仕事と思えば割り切れる。お互いにな。
お前みてえなガキは、金が絡むと物事が薄汚く見えるのかもしれねえが、アタシに言わせりゃ、こっちの方がよほどサッパリしたもんだ」
そう言うと、真樹は運転席でエンジンもかけず、バッグからスマホを取り出すと、画面をいじって俺に寄越した。
『【神業!】呉島 勇吾 高校の体育館でピアノ演奏!』
画面に映されているのは、動画投稿サイトで、ピアノの前に座っているのは、俺だった。同じようなサムネイルが、3つ4つ、並んでいる。
「これは、さっきの……?」
「観客の中に──あえて、そう言う。ヤツらは聴衆じゃねえ。観客だ──お前にスマホを向けてるヤツが、何人いたか分かるか?」
「そんなもん、いちいち数えてねえよ」
「だろうな。コメントを見てみろ」
真樹がそう言うので、俺は1つの動画を開いて、画面をスクロールする。
──15件のコメント──
「もう、こんな付いてんのか。早えな……」
ズブの素人もいれば、多少かじってるヤツもいるだろう。おおむね好意的な感想が並んでいる。が、俺はその中の1つに目を留めた。
「あ?『音色悪過ぎ。ピアノの響きが全然出せてない。ただ弾いてるだけの一発芸』……コイツ、バカじゃねえの?」
「ああ。体育館で弾いたピアノをスマホで録りゃ、音質なんてそんなもんだろうよ。ただの一発芸でリストが弾けてたまるかってんだ。
だがな、ネットっつうとこには、こういう知ったかぶりのアホが一定数湧く。
いいか? この国の大衆を相手にするってのはな、こういうことなんだよ。
金の絡む話なら、必ずどこかでオチはつく。ソイツぁ結局利害の話だからな。だが、大衆はそうじゃねえ。気分さえ乗りゃどこまでも貼り付いてきやがるぞ」
俺は首をかしげた。「そういうアホに気を使ってやる意味はあるのか?」
「視点や立場が変われば、物事の本質ってのも変わるんだよ。お前にとっちゃ、そんなアホは取るに足らねえザコだろう。アタシにとってもおおむねそうだ。
だがな、プロデュースやマネジメントって視点で見れば、コイツみてえに、他人の足を引っ張ることを、人生最大の目的にしてるようなヤツは、脅威なのさ。アタシの仕事の一つは、お前がこういうクズに餌をやらねえようにすることだ」
そう言うと、真樹はレクサスのエンジンをかけ、アクセルを踏む。
「篠崎の父も、そうなのか?」
「そうは言わねえさ。だが、どこで、誰がどういうふうにつながってるか分からねえ。お前があのオヤジの不興をかった時に、それがどういうふうに広まるか、誰も予測は出来ねえのさ。
アタシはな、お前の音楽に、そういうつまらねえケチがつくのは我慢ならねえ」
「そうか……」と俺はつぶやいて、それから、「いつも、ありがとう」と言った。
「何だよ! お前、いきなりよー!」真樹は、なぜか慌てたように、狭い車内に不釣り合いな声をあげた。