2-7.闘志について/篠崎 寧々
体育館の端で正座をすると、私は大きく息を吸って、頭に手拭いを巻く。
よりによって、第一試合の組み合わせはこうだ。
『平坂 マユ ー 篠塚 寧々』
視線を上げると、私立高校だけあって、この体育館にはギャラリーがある。部内試合にも関わらず、結構人が入っていた。私はその中に、お父さんの姿を見つけて、少しほっとする。
目をつむって、口の中に唱えた。「戦って、勝て。俺はそうする」
それから、彼のピアノを思い出す。
呉島くんが、ピアニストだということを、私は知っていた。それなのに、彼がピアノを弾き始めた途端、私は、もうただただ驚いてしまって、演奏を終えた彼に、声をかけることさえできなかった。
人間に、こんなことが可能なのだろうか?
指の動きが速いとか、それなのに、小さな鍵盤を正確に押さえていくだとか、そういうことじゃない。私が驚いたのは、その音を通じて、彼にも私にも、きっと言葉に出来ない何かが、確かに伝わったということだ。
彼は、子どものころから、戦い続けてきた。小さいころから天才と祭り上げられ、誰にも理解されない苦悩を抱えて、それでも強い言葉を吐き続けながら。
彼のそういう歴史の中で、戦い続けるために必要だった何かを、彼は私に伝えようとしたのだ。
面をかぶって、紐を結ぶ。
彼は、その強い言葉を、いくつも私にくれた。甘い物をたくさん食べさせてくれて、竹刀をプレゼントしてくれて、彼の凄まじい執念と、闘志と、熱を、そのピアノで伝えてくれた。
震えてる場合じゃない。ここまでしてもらって、おめおめと負けて帰るなんて、そんなことでは、女がすたるじゃあないか。
「第一試合、平坂 マユ」と先生が呼ぶ。
「はい」と低く答えた重々しい声には、マユの煮えたぎるような敵意と闘志がにじみ出るようだった。
私は立ち上がって、小さく3回ジャンプした。膝の調子は良い。
「篠崎 寧々」
先生の声に答える。
「はい!」
今まで生きてきた中で、一番大きな声が出たんじゃないかと自分でも驚いたが、恥ずかしくも、後ろめたくも、怖くもない。
かかって来い。マユ。ブチのめしてやるから。
✳︎
「始め!」
主審の先生が声をかけてから、試合の立ち上がりは静かなものだった。
制限時間4分、二本先取の三本勝負。
相手を誘うように、互いに剣先を上下させたり、押さえ込んだりしながら、徐々に間合いを詰めていく。
試合が動き出したのは、互いの剣先が、かち、かち、かちと3回触れた直後だった。
一瞬、マユが消えたと思った瞬間に、右肘に痛みが走った。
副審の1人が旗を挙げるが、主審ともう1人の副審が、腰の下で両手に持った旗を振る。有効打突を否定する合図だ。
マユの厄介なところはこれだ。打突が速く、打ち終わった後の残心が美しい。仮に有効打突部位を多少外れても、旗が挙がるのだ。剣道では、選手に抗議の権利はない。
肉薄して鍔迫り合いになると、私は彼女の手元を押し下げて、素早く後ろに引きながら面を振り下ろす。
マユは小さく首を傾けてそれをかわす。アクビが出るぜ、とでも言わんばかりだ。
このわずか数合のやりとりで、マユは方針を決めたらしい。ほんの少し腰を落として、剣先を下げる。
私の面なら、小手や胴を合わせて勝てると踏んだのだ。
やってやるよ。と息巻いた端から、マユの剣先が動く。小手だ、と思った瞬間に、その軌道がいつもと違うことに気付いた私は、慌てて竹刀を振り上げた。小手を匂わせた面だ。
かろうじてこれを柄で受けると、マユの体当たりを受け止めた。面金の間から、その燃えるような瞳が見えた。微かに、彼女の唇が動く。
「のぼせ上がって、付け焼き刃の古刀型なんか使ってんじゃねえよ」
「試合中に、しゃべるなよ」と私は短くそう返した。
マユを力一杯押し返すと、そのまま面を浴びせるが、彼女はこれも難なくかわして距離を取った。
実際、この試合が始まる直前まで、使い慣れた竹刀を使うべきか、私は迷っていた。
呉島くんのくれた竹刀は古刀型、竹刀の重心が先にあるタイプで、打ちに重さや伸びが出て、相手の打突を打ち落とすような場面では有利だけど、素早い打突は難しくなる。また、柄の長さも今まで使っていたものとは違う。
付け焼き刃と言えば、確かにそうだろう。だが、マユはまだ、気付いていない。彼女がなぜ、初太刀の小手を外したのか。
互いの剣先が触れ合う程度、触刃の間合いで、マユが少し私の剣先を牽制し、自分の剣先を下げた瞬間に、私は大きく足を出して攻め入った。
警戒したマユが、後ろに退がる。ここだ。
右手を放して腰を入れ、右足の踏み込みと同時に、左手一本で握った竹刀を突き出す。
「突き!」
上体を引いて避けようとするマユの喉、突垂れをとらえると、一瞬押し込んで素早く中段の構えに戻りながら、さらに歩を進めて残心を示す。
旗の挙がる音がする。「突き有り!」と主審が宣言した。
「おおっ……!」と会場に低い歓声があがる。
『面』『小手』『胴』『突き』と4つある有効打突部位の中で、突きが公式戦で有効となる割合は、2〜4パーセント程度しかない。
突きは中学生まで禁止されていて、1年生の私やマユにはこれに対処する十分な経験がない。
加えて、マユは私の竹刀が古刀型だということには気付いたが、柄が通常より5センチほど長いことには気付かなかった。竹刀全体の長さは、三尺八寸と決まっているから、逆に言えば、鍔から剣先までの長さは、いつもより5センチほど短いのだ。
これによって、マユは間合いを見誤った。彼女の初太刀が、深く入り過ぎて外れたのはこのためだ。
そしてこの誤認は、私の打突を有利にした。ほとんど水平に突き出した私の片手突きは、彼女が思っていたより5センチ長く伸びたのだ。
マユは天井を仰いで、開始線に戻る。面金の間から、鋭く私を睨み、荒馬のように首を振る。
「二本目!」と主審が開始の合図をするや、マユはすかさず私の懐に入り込んだ。私の中心を捉えようとするマユの剣先を払って、面を繰り出すが、それを受けて胴を返すマユの竹刀を柄で受ける。
背後に抜けたマユを振り返る。この瞬間が危ない。しかし、彼女は、振り返る私を待っていた。
マユは私を見上げて、「やああぁっ!」と声を上げた。身長は160センチに満たない。この小さな身体のどこに、これほどの闘志が宿るのだろう。彼女の瞳はこう言っている。
「勝負だ」
面を打つ。私がそう思った時、私はマユの激しい体当たりを受けていた。前髪の生え際辺りに、竹刀で打たれた感触がある。
主審の旗が上がった。「面有り!」
面を打たれた、と気付いた時、私の胸の内を満たしたのは、彼女の打突速度に対する恐れでもなければ、一本のリードを失った焦りでもなかった。
言うならば、これは感動だ。
私より頭一つ分も小さい彼女が、私に面で挑んだのだ。速度に特化して練り上げられたその美しく無駄のない技の冴えと、灼けつくような勝利への執念、闘志、何より勇気に、私は感動したのだ。
鍔迫り合いから分かれる寸前に、私はマユの目を見て言った。
「ありがとう。マユ」
開始線に戻る途中、私はふと、ギャラリーを見上げた。そこに私は、確かに、呉島くんの姿を見た。彼はその一瞬で、私と目が合ったことに気付いた。唇を動かす。
──「勝て」──
挙げた旗を振り下ろすと同時に主審が強く宣言する。「勝負!」
私は左足を前に出し、両腕を、高く振りかぶった。
ギャラリーにも、アリーナにも、低くどよめきが起こった。
もう、怖くなんかない。
かかって来い。その頭蓋ごと、叩き割ってやるから。私の身体と、魂を、全部剣先に乗せて。