2-6.超絶技巧練習曲 第4番『マゼッパ』/呉島 勇吾
ベーゼンドルファーModel200CS。廉価版ではあるが、世界3大ピアノの1つに数えられるベーゼンドルファーの、セミコンサート・ピアノだ。
リストやショパンの楽曲が新譜だった時代、ロマン派音楽の全盛期に創業し、暖かく彩りのある音色や、ごく小さい音を美しく響かせることに定評のあるブランドだが、名を上げたのは、当時その強靭なタッチで数々のコンサートピアノをおシャカにしてきたフランツ・リスト本人の演奏に耐え切ったという耐久性で、結果として多くの名手に愛された。
リスト弾きの俺には特に相応しいマシンだ。
鍵盤に指を落とす。
校長が慌てて調律を入れたというが、最初の不穏な分散和音は、十分な響きで会場の中を不気味にたちこめていった。
上から下へ、転がり落ちるように急きこみながら、速度を増し、ある地点でビタリと止まると、同時に、ザワついていた聴衆が息を止めた。
その沈黙の中に、最初はごく小さく、しかし、ひしめくように、音符の群れを、速度と密度と熱量を増しながら、かき鳴らしていく。細かい音符の密集した装飾楽句の終わりに、俺は、フッと息を吐いた。
ここからが、『マゼッパ』の主題だ。
2本の腕で、3段の譜面を弾かなければならない。両腕を広げ、右手で旋律となる1段目の三和音を、左手で3段目の低音を弾きながら、すかさず両手を1オクターブずつ狭めて2段目、荒馬の駆けていく16分音符の躍動を描く。
奥歯を食いしばる。
マゼッパとは、死後、英雄として伝説化した、ウクライナ・コサックの棟梁だ。
リストがこの原型となるピアノ曲を書いたのは、今の俺と同じ15歳の時、それから3回にわたる改稿を経て、今日伝わる『マゼッパ』は出来上がったが、その間に管弦楽曲としても、同名の交響詩『マゼッパ』を書いていて、このテーマが、リストにとってどれほど重要だったのかが窺い知れる。
リストに霊感を与えたのは、叙事詩『マゼッパ』を書いた多くの詩人の内、ジョージ・バイロンともヴィクトル・ユーゴーとも言われている(俺は俄然バイロンだと思う)が、いずれにせよ、この楽曲は敗北から始まる。そして、ウクライナ・コサックの国家復興を目指して領土拡大に寄与、文化の発展に貢献したとしながら、実在のマゼッパの人生は、敗北で幕を閉じた。
ではなぜ、彼は英雄なのか。
俺は、彼が戦い続けたからだと思う。彼はその最期、70歳となっても戦場に立っていた。
このことは、俺に一つの気付きをもたらす。
──聞いてるか、篠崎。勝ったヤツが英雄なんじゃねえ。戦い続けたヤツが英雄なんだぜ。
俺はガキのころから戦っていた。相手は俺以外のコンテスタントだったのかもしれねえし、俺自身の運命だったのかもしれねえが、とにかく、戦って、戦って、戦い抜く、その途上にいる。
そのことに気付かせてくれたのは、自分が卑怯だとか、臆病だとか言う、お前だ。
得体の知れねえ何かにただただイラついていただけの俺が、実はそうやって、ずっと何かと戦い続けて来たのだと教えたのはお前だぜ。
誰かが俺を、趣味の悪い見世物みてえに扱ったとしても、ゴミみてえに蔑んだとしても、ボロくそにブチのめしたとしても、戦い続ける限り、俺は弱者なんかじゃねえ。
篠崎、お前だって、そうだ。
誰かがお前を見下して、嘲り、罵っても、竹刀を決して手放さなかったお前を、俺は尊敬する。
怖いと震えて、まぶたに涙をためながら、それでも戦うことをやめようとしないお前こそ、俺にとっての英雄なんだぜ。
俺はそういうことを、上手く言えそうにねえから、俺の『マゼッパ』を、お前に聞いて欲しいと思ったんだ。
俺は音楽で人を幸せに出来るなんて思っちゃいねえし、他人を励ましたり、慰めたり、じんわり血行を良くするためにピアノを弾いたことなんて一度もねえが、それでもこれを聴いて、お前の中で何かが変わるのだとすれば、ただ俺自身の呼吸を楽にするための、鼻クソをほじるのと大差ねえ、ただの手段だった俺の音楽は、何か少しだけ、価値のあるものだったように思えるんだ。
だから、音楽ってヤツに、もし、そういう力があるんだとすれば、どうか、伝わってくれ。頼む。どうか、伝わってくれ……! ──
物語は変ロ長調に転じ、甘く深い微睡みの中へ沈んでいた。
しかし間もなく、甘い夢の世界は崩れ落ちるように低音域へと折り重なって、再び現れたマゼッパの主題が獰猛なエネルギーを内に隠しつつ進んでいき、やがてその焼き尽くすような熱を、辺りに振り撒いていく。
そして、打ち鳴らした強烈な和音の中から1音だけを残して、ペダルを離すと、束の間、虚しい独白のような、もの悲しい、静かなフレーズが続く。
聴衆の息遣いが聞こえる。近い。
ピアノの内部から目を離し、弦やハンマーに注いでいた視線を遠くへ移す。その正面で、篠崎と目が合う。彼女はずっと、ピアノのケツの方にいたらしい。なんてことだ。今度話す時には、ピアノの演奏を観るなら、手の見える鍵盤側に位置どるべきだと教えよう。
俺は口の端に笑みが浮かぶのを自覚した。
──心配するな篠崎。マゼッパだって、こういう気分になることがあるんだぜ──
そして、それを強引にねじ伏せるように、最後は圧倒的な熱量で締めくくる。俺の身体と魂の重さを、全て鍵盤に伝えて。
終始和音を鳴らし、その残響の収まりを待って、腕を下ろす。
「Bravo!」と叫んだのは、校長だった。それを呼び声に、打ち鳴らすような拍手の音が、体育館を満たす。
俺は椅子から立ち上がると、聴衆が近過ぎるために、目線をどこに定めたらいいかと迷った末、曖昧に頭を下げた。
思いの外、上手くいった。俺はあまりそういうことを考えないが、今までの演奏で一番良かったかもしれない。
俺がステージ脇に戻ろうとすると、周りの生徒がおずおずと道を開けた。
その先にいた真樹が、まるで怯えるような目で俺を見ていた。
「お前……どこまでいくんだ……?」と彼女は言った。
スピーカーから、しわがれた男の声が聞こえた。
「剣道部から連絡です。本日、体育館にて、部内選抜試合を行います。見学可能ですので、ぜひ応援お願いします」