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2-5.戦って、勝て/篠崎 寧々

 連休が明けた5月6日の朝、空は昨日の夕方から夜中まで降り続いた大雨の余韻を残すような、厚い雲に覆われていた。


 校門を抜ける時、私は校舎の屋上から下げられた垂れ幕に目を奪われた。


──祝 フレデリック・ショパン国際ピアノコンクール 本選出場 呉島 勇吾 君──


(やっぱり……)胸の内に焦げ付くような熱を感じた。


 ただ気になり始めた男の子の名前が、でかでかと貼り出されたためではない。


 こんな人が、私を『仲間』だと言ってくれた。相手の前に立つたび、足をすくませている、臆病な私のことを。私は、こんな人と肩を並べて戦えるのだろうか。私にその価値はあるのだろうか。今日、それが試されようとしている。


 部内選抜試合。公式戦の団体メンバーを決める試合で、応援の観客が入れるように、いつもの格技室ではなく体育館を借りて行う。観客がいる試合の雰囲気に慣れさせるためだそうだ。


 先生は「団体戦のメンバーは、この試合で決める」と明言していた。経験でも、人格でも、学年でも、実績や実力でさえなく、ただ目の前の一戦で結果を出せる人間を使うと。


 明快で、納得出来る。勝てばいいということだ。


 私は抱えた竹刀袋をギュッと抱きしめた。


 勝つ。


  ✳︎


 その日は一日中、ずっと気もそぞろで、授業などまるで頭に入ってこなかったが、6時限目に全校集会があって、体育館に集められた時、私はいよいよ緊張で立っていることさえ覚束(おぼつか)なくなった。椅子に座って話を聞くスタイルの集会でなければ、私はしゃがみ込んで保健室に運び込まれていたかもしれない。


 この後、ここで、私は戦うのだ。


 もう、退路はない。お父さんにも、お母さんにも、先生にも、そして何より、一年生で一番強い、マユ本人に、私は勝つと宣言した。前にしか、道はないのだ。その道は険しく、足元はぬかるみ、空気は薄い。


 生徒指導の先生が、何か、連休明けの学校生活の心構えについて長々と話した後、校長先生がステージに上がり、壇上で一度咳払いをして、ゆっくりと話し始めた。


「校長の話なんていうのはね、長くて退屈だと相場が決まっているものです。

 我が校では生徒の皆さん、627名をお預かりしていますから、その中の1人でも、私の話が心に残ればいいと、そういう気持ちで全国の校長先生は長い話をするわけですが、私自身、学生のころ、校長のしていた話なんて、一つも覚えていない」


 体育館の中に、クスクスと笑いが起きる。


「そんな中で、今日は、大変素晴らしいニュースについて話が出来ることを、私は嬉しく思っています」

 

 少し、生徒たちがざわついた。どこからか、小声で『呉島 勇吾』の名前があがる。校長先生は、それを耳ざとく聞きつけたらしく、うなずいた。


「そう、我が校の1年生、呉島 勇吾君が、『フレデリック・ショパン国際ピアノコンクール』の本選に出場する運びとなりました。これは、大変権威のある、世界最高峰のピアノコンクールです。

 彼は入学式から半月くらい遅れての登校となりましたが、その間、ポーランドのワルシャワで、予選を戦っていました」


 体育館の中に、どよめきが増していく。


 校舎に垂れ幕はあったが、音楽に詳しくない人からすれば、何となく半信半疑、その有名なコンクールと名前の似た、何か別のコンクールがあるのかもしれないし、みたいな、肩透かしに身構えるような、そういう空気だったのを覆して、校長が、事実を確定させたのだ。


「この報せを聞いた時には、私も舞い上がってしまって、すぐに彼に連絡をしました。そして、お願いしたところ、一曲披露してもらえることになりました。それでは、呉島君、準備はいかがでしょう」


 校長はそう言いながら、壇上から降りた。


「すみません、少々お待ち下さい」と、少し低い女の声がした。


 生徒たちから、好奇心をふんだんに含んだどよめきが起こる。


 彼のマネージャーだ。美人のマネージャーが高級車で彼を送り迎えすることは、学校で噂になっていた。それどころか、マユが聞いた話──私はそれを教室に隠れて盗み聞きしていた卑しい女です──では、毎日彼の家でご飯を作って、掃除や洗濯をしているのだという。


 そんなのもう、通い妻ではないか。


 私は恐る恐る、ステージ脇のカーテンのすぐ手前、その人の方に目を向けた。と同時に、思わず息を飲む。とんでもない美人だ。


 身体の線がはっきりと出るタイトなパンツスーツ、知性的な切れ長の大きな目、アップにした豊かな髪、どこをとっても隙がない。


 私が呆気にとられていると、不意にステージ脇のカーテンが揺れた。


「ほら、襟……」マネージャーは小声でそう言って、カーテンの隙間に手を入れる。おそらく、彼の身づくろいをしているのだ。


 こんなのもう、姉さん女房ではないか。


 と、そのカーテンをおもむろに押し分けて、スーツ姿の男性が姿を現した。光沢のある黒のジャケットにグレーのベストを着込んだ彼は、私と同じ高校生とは思えなかった。


「やっぱ、ネクタイ要らねえわ。浮くしよ」

 そう言うと、彼は首元のシャツのボタンを開けた。


「ちょっと……」と追いすがろうとするマネージャーを横目に、ずんずんとピアノの方へと歩く。


 手には一本、竹刀を握っている。なぜ……?


 校長はピアノの前で、「まさか、自分の人生でプロのピアニストにインタビュー出来る機会があるとは。緊張していますよ。準備は大丈夫かね?」と言うと、呉島くんにマイクを向けた。


「ピアノを弾くことに、俺は準備なんか必要としねえ……のです?」呉島くんは無理やり敬語を継ぎ足した。「時間がかかるのはいつも衣装で、俺には、ピアノを弾くよりずっと難しい……です」


「普段通り話して大丈夫だよ」と優しくそう言ってから、校長は生徒の方を向いた。「皆さん、列を崩して、前の方へ。近くで聞いて構わないそうです。当然、邪魔にならない程度の節度でね」


 校長はそう言って移動の許しを出したが、みんな互いに目を見合わせつつ、様子を探り合って、なかなか動かない。


 私は、深呼吸して、立ち上がった。と同時に、隣のクラスの列から「えー! 私近くで見たーい!」と声があがる。マユだ。さすが、アピールに余念がない。


「では、客席が落ち着くまで、少し話を」


 校長はそう断って、色々と質問をし、呉島くんはそれに答えた。コンクールについて、ワルシャワの街並みについて、ショパンについて……。しかし、彼自身のことについては、ほとんど聞かなかった。


 人混みを分けて、私が前の方へ出た時、「ところで、その竹刀は?」と校長が聞いた。


「ああ、これは、今日、剣道の試合があるっていうので、『仲間』に渡そうと思ったんだけど、タイミングがなかったから……」


 心臓が、一拍強く脈打った。


「篠崎!」と、呉島くんは唐突に、大きな声で私を呼ぶ。


 周囲の視線が、私に集まる。顔が真っ赤になっていくのが、鏡を見なくても分かる。「は、はいぃ……」身体が震えて変な声が出た。


 呉島くんは、手に持っていた竹刀を、私に向けて放った。手を伸ばして、それを受け取る。


 八角柄太古刀型(はっかくつかぶとことうがた)。しかも、通常の竹刀より、(つか)が長い。それだけで、適当に選んだものではないと分かった。


「戦って、勝て。俺はそうする」

 呉島くんは、そう言った。


 お腹の底が熱い。血液が、沸騰するみたいだ。


 私は大きく息を吸い込んで、背筋をピンと伸ばす。

「うん。勝つ」


 呉島くんは、頷いて、笑った。そして、鍵盤に向かい合い、椅子に座る。


 校長が慌てて、「聞き忘れた。不慣れで申し訳ない。曲名は?」と尋ねる。


「フランツ・リスト、超絶技巧練習曲 第4番『マゼッパ』」


 彼は振り上げた腕を鍵盤に落とした。

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