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2-3.伏兵/篠崎 寧々

 連休の最終日になっても、私はいまだに、調子を取り戻してはいなかった。


 基本の稽古はいい。それぞれの技の精度は、中学のころよりも、ずっと上がっている。面をつけられなくても、竹刀はずっと振り続けてきたのだ。手のひらに出来たタコがその証拠だ。


 でも、やはり互角稽古になると、ありもしない周囲の視線が怖くなって、足がすくんだ。


 それはそうだ。誰かと話してコロッと治るくらいのものなら、最初から悩んだりしない。


 それでも私は、懸命に食い下がった。浅い呼吸を繰り返しながら、震える足を引きずって、上手く力の入らない腕を懸命に振った。


 稽古でマユとあたると、彼女はそんな私を容赦なく打ちのめした。


 稽古が終わると、私は顧問の先生に指導室へ呼び出された。国体出場経験もある、定年間際の男の先生で、背は私より低いけど、胸板が厚く、腕が太くて、その割に目が優しい。


 指導室のくすんだ壁の向こう、北向きの窓から見える空には、厚い雲がかかっていた。


「足の調子はどうだ?」と先生が聞いてきたので、私は、もう大丈夫ですと答えた。


「治癒証明書も見せてもらったけどな……思うように、動けてないんじゃないのか?」


 さすが、長く指導してきただけに、鋭いな、と私は変に感心した。


「いえ、基本稽古では、むしろ調子がいいくらいです」私はごまかすわけじゃないけれど、ちょっと話の焦点をずらすようなつもりでそう言った。


「ああ、確かに。なるほどな……」と先生は誰に言うともなく呟く。


「明日の試合、私はマユに勝つつもりです」


 私がそう言うと、先生は一瞬、目を見開いて、それから少し考え込むようにゆっくりうなずいてから、口を開いた。


「そうか。分かった。スッキリできるまで、思い切ってやりなさい。ただ、気持ちの問題を軽く扱ってはいけない。それが君にとって、良くないことだと思ったら、先生は止めに入る」


「分かりました」

 私はそう言って、指導室を出た。


 階段を降りて、格技室に戻る渡り廊下の入り口のところに、マユが腕を組んで立っていた。


「ちょっと」と私を手招きする。


「何?」私は、つとめてぶっきらぼうに言った。


 仲直りできるかもと思ったし、本当はそうしたかったけど、私がうまく出来ないからって、冷たい言葉をかけてきたのはマユの方だし、何より明日が勝負なのだ。


 彼女は私の腕をつかんで、近くの教室まで強引に引っ張り込んだ。


「あんたさぁ、なんか、あるんでしょ?」と彼女は言う。


「なんかって?」


「だから、あんま、こんなこと聞きたくないし、言いたくもないだろうけどさ、つまり、精神的に」


 私は、自分の身体がこわばったのを、彼女に見られたのではないかと不安になった。


 マユが「だからさ……」と続けようとするのを、私は遮る。


「だから何? 勝負なし、ノーコンテスト? 冗談じゃないんだよ。私はもう、面をかぶって竹刀を握ってるんだ。戦ってるんだよ。同情なんか、されたくない。マユ、私は明日、アンタに勝つ。私がアンタに言うことがあるとすれば、それだけだ」


 私が必死にそう言うと、マユは眉間にシワを寄せた。


「ああ、そう。分かったよ。やってみろ。ぶっ潰してやるから」

 マユは私の肩をドンと突き放すように手のひらで突いて、足を踏み鳴らすように教室を出て行った。


 私は近くの机に手をついて、へたり込みそうになる身体を支える。


 足がガクガク震えて、ずっと我慢していた涙が、ついにこぼれると、喉の奥から声があふれた。


「うぅ……こわいよぉ……マユちゃんが、一番こわぃ……」


 と、その時不意に、「ユーゴくん!」と声が聞こえて、私はまた、ビクッと肩をおののかせた。


 マユの声だ。


 なぜ、呉島くんが? 私に会いに来たのだろうか。


 私は廊下に飛び出しそうになったが、途中で足を止めた。今の私の姿は、彼に見せられない。彼は、私を仲間だと言ってくれた。負けても、辛くても、戦うことをやめない仲間だって。こんな怖気付いた私を、彼に見せるわけにはいかない。


 教室の入り口ギリギリのところで聞き耳を立てる。


「ユーゴくん、どうしたの?」マユが尋ねている。声がさっきより1オクターブ高い。


 ちょっとちょっと、馴れ馴れしいんじゃないの?


「校長に呼ばれた」


 呉島くんがニュートラルな感じで答えるので、私は、マユにデレデレしなかったことに安心するのと、私に会いに来たわけじゃなかったことに落胆するのとで、複雑な気持ちになった。


「えー? なんでー? 怒られちゃった? 慰める?」

 マユがすごい。グイグイいく。


「いや、ショパコンの予選通ったから、お祝いと、あと明日なんか弾いてくれって」


 ショパコン(・・・・・)? とは? と私は首を傾げた。ショタコンの進化形だろうか。


 いや、きっと、音楽関係の用語だろう。予選を通ったというから、何か大会の。


 私がそんなことを考えている間にも、マユは攻め手をゆるめない。


「えー? すごーい! 明日、弾いてくれるの? 私、ずっと聴いてみたかったんだー!」


 マユだって、『ショパコン』が何か、絶対知らないはずなのに、上手くそこをかわして話をつなぐ。まるで面を避けて小手をとるように。


「そうか。一生懸命弾くわ」


「一生懸命? かわいー! めっちゃ聴くよ! 超応援してる! 頑張って!」


「あぁ……」と呉島くんはそこで少し狼狽(ろうばい)するように言葉を途切れさせた。彼は、あまりああいう種類の好意に晒されたことがないような気がする。マユの猛攻に引いているのかも。


 しめしめ……と内心そう思った自分の、意地の悪さを恥じた。なんか、陰険だ。


 少し気を取り直して、私は『ショパコン』という言葉について考えた。が、それは案外すぐに結論づく。ピアノといえば、私にも簡単に連想できる作曲家が1人いる。ショパンだ。それに、『予選を通過』から考えると、コンクール。


「ショパン……コンクール……」と小さな声で呟いてから、思わず大声をあげそうになった自分に驚いて口を押さえた。


 それって、すごいヤツなんじゃないの?


 私が一人、意味もなく人のいない教室の中でオロオロしていると、外からにわかに雷鳴が響き、と思うとあっという間に激しい雨が降り出した。


「やだー! 雷こわーい!」マユが一層高い声をあげる。


 は? 私、アンタが怖くて泣いたんですけど? と呆れかけたが、

「ユーゴくん、一緒に帰ろう?」とすかさず続けたのには、その立ち回りの戦略性の高さに感心せずにはいられなかった。


「あー……」呉島くんは、少し困ったような声で、言葉に窮しているみたいだ。


「あ、傘持ってない? 私、持ってるよ。入れてあげる」とマユはほとんど歓声に近い声で言う。


 どこまで行くんだこの女。引き出しがものすごい。この一瞬で、相合傘まで漕ぎつけようというのか。


「そうか、雷怖いのにか……」呉島くんはうろたえたようにそう言ってから、しかし彼女の誘いを断った。「マネージャーが迎えに来ることになってる。あの女、今日はめちゃくちゃ機嫌が悪い」


「あ、それって、高い車に乗ってるセクシー系のお姉さん?」

 マユは食らいついて放さない。


「セクシー系……自称だと思ってたが、周りから見てもそうなのか?」


「私は見てないんだけど、噂になってたよ。なんかエローい! ユーゴくん、どういう関係?」


 私は一層、耳をそばだてた。ナイス、マユ。それは私も気になる。


「どうって、俺の所属してる事務所の社員で、仕事を取ってくる」


「仕事以上の関係になったりしないの?」


 すると、少し考えるような間をとって、呉島くんは答えた。

「まぁ、毎日俺んち来て、飯作って、洗濯してるな」


「何っ?」教室の私の声と、廊下のマユの声とがほとんど同時に重なった。

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