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2-2.鍵盤に触れる/呉島 勇吾

 目を覚ますと、俺はソファから這い降りて、ピアノの蓋を開けた。


 マネージャーの柴田 真樹が勝手に置いていった壁掛け時計は、朝の10時を少し回っていた。


 郊外の寂れた飲み屋街の地下にある、潰れた小さなピアノ・バーを上屋ごと居抜きで買い取って、その上屋を居住スペースにしていたが、俺はシャワーを浴びる以外は、この地下で過ごしていた。


 ステージと呼ぶにはいささか躊躇(ためら)いをおぼえる、10センチほどの段差の上に、2台のグランドピアノが置かれ、必要もないのにやたら大きなバーカウンターがある。


 俺が今し方眠っていたソファも、かつては客が座ってグラスを傾けていたものだろう。


 俺にとっては、夜中や朝方にピアノを弾いても文句を言いに来るヤツさえいなければ、それで十分だったし、そもそも俺には自分の食う飯を料理したり、自分の着た服を洗濯したりする能力はない。


 ピアノに指を落とす。


 ショパンのエチュード、Op.(オーパス)(作品番号)10と25、それぞれ12曲ずつを順に弾くのが、このところの日課になっていた。1曲につき、長くて5分半、短いものでは1分ちょっとで、全曲通しても1時間半あれば釣りがくる。


 このエチュードは、どれをとっても単なる練習曲ではない。コンサート・ピースとして十分成立しうる音楽性と、彼の技法を習得するための、明確な練習課題が両立されている。


 つまり、「高度な練習曲は、高度な音楽であるはずだ」というショパンの考えがここに反映されているのだ。


『エチュード第1番 Op.10-1』ハ長調

 鍵盤の上を、右手が滑るように、音の低い方から高い方へ、また高い方から低い方へと駆け巡っていく。しかしそれぞれの指は、分散和音(アルペジオ)を的確に、そして深く押さえて鍵盤を打つ。


 ショパン国際ピアノコンクールの一次審査は、a、bにグループ分けされた複数のエチュードから各1曲ずつ、指定のノクターンと簡易なエチュードのグループから1曲、指定のバラード、舟歌、幻想曲、スケルツォから1曲の計4曲を選んで弾くことになる。


 1番は、aグループのエチュードでは最も選択するコンテスタントの多い曲だという。


 練習課題は右手の幅広い音域にわたるアルペジオで、ピアノの輝かしい響きをアピール出来るという戦略的判断だろうが、いかにも練習曲(・・・)然として俺はあまり好きではない。


 が、俺はそこに、何かこれまでの自分のピアノと、響きに違いがあるように感じて、首をかしげた。手の甲に、俺の古傷をなぞる、篠崎の指先の感触が残っている。


(特段、タッチを変えたつもりはないが……)そう考える間にも、そのエチュードは終わりを迎える。


 あっさりとした終止で次の曲に移る。


『エチュード第2番 Op.10-2』イ短調

 右手の中指から小指で素早い半音階を弾き、人差し指と親指、それから左手でスタッカートの和音を弾く。


「広く、速く」の1番と対になる、「狭く、速く」の2番の方に、俺は技術的な難度を感じるが、音楽的にはまだ共感を覚える。


 この曲は、横目でこちらをチラチラと(うかが)いながら声を潜める、イケ好かない連中のひそひそ話に似ている。


 上へ下へと行き来する半音階は不気味で底意地が悪く、拍の頭を打つ短い和音は漏れ聞こえる忍び笑いのようだ。


 次の3番、いわゆる『別れの曲』に入った辺りで、急に空腹を感じた。


 昨日の夜は、口の中が甘ったるくて、それ以上何かを食おうという気にならなかったが、思い返してみれば、大して腹の足しになるようなものを食っていない。


 鍵盤を弾き続ける。


 俺は、ガキのころからそうだった。飯を食うだとか、風呂に入るだとか、学校に行くだとか、そういう生活上の必要に迫られてピアノから手を離している時、俺はまるで呼吸を止めているような息苦しさを感じるのだ。


 インタビュアーや、あるいは教授だとかいった連中が、時々、なにか核心を突くようなしたり顔で、「あなたはピアノが『好き』ですか?」と尋ねてくることがあったが、そういう時、俺は決まってこう聞き返した。


──「アンタは呼吸が『好き』なのか?」──


 寂れた裏通りからこの地下に降りる階段のシャッターがガラガラと音を立てたのは、俺が1つ目のエチュード集の最後の曲、いわゆる『革命』に入った時だった。


 構わず弾き続ける。ここの合鍵を持っているのは1人だけだ。


 この曲は、派手な割に難度はそれほど高くないが、それを抜きにしても、俺にとって弾きやすい曲だった。


 譜面の冒頭にはこう書かれている。「Allegro(速く、) con fuoco(火のように)


 硬いヒールが階段を打つ音が近付いて、入り口のドアが開く。


「流石ね。その手の表現は」そう言うのは、マネージャーの柴田 真樹だ。彼女は短気で口汚いクセに、なぜか一旦いい女ぶるようなところがある。


「腹が減った。今第1集が終わるところだから、あと40分もあれば片付く」俺は手を止めずに言う。


「あんた、アタシを通い妻か何かと勘違いしてんじゃないの?」真樹はトゲのある言い方でそう言ったが、そのすぐ後で、「まぁ……別に、いいけど」と言い直した。


 手には派手な花柄のエコバッグを提げている。食材を買い込んできたものだろう。バーカウンターの奥にあるキッチンに向かう。


 俺は彼女が冷蔵庫を開け閉めする音や、蛇口をひねり、そこから流れる水の音、包丁がまな板を叩く音を背に、エチュードの第2集を弾き始めた。──


  ✳︎


「あんた、タッチ変えた?」

 食い終わった朝食の食器を片付けながら、真樹は小首をかしげた。


「やっぱり、そう思うか? 俺は特に何かを変えたつもりはねえんだが」


長調(ドゥーア)の響きが格段に良くなってる。昨日の夜、何があった? 夜遊びを許した覚えはないんだけど」


「別に。学校の女と街で遊んだだけだ。アンタらの許可が要るのか?」


「女?」と真樹は声をあげ、その拍子に落とした皿が、床の上で砕けた。


「世の中には男と女が同じくらいいるんだ。遊ぶ相手がたまたま女でも、大した不思議はねえだろ」


「その女の名前を教えろ。それから、どこに行って、何をしたのか。詳細にな」


 この女が豹変(ひょうへん)するのは慣れたものだが、今回は特にポイントが分からなかった。


「何でだよ」


「スキャンダルは今後の宣伝戦略に関わるんだ。登校初日のケンカだけでもヒヤヒヤさせられてんのに、これ以上面倒増やすんじゃねえよ」と真樹は言ったが、その声には幾分か、ごまかしが含まれているような響きがした。


「別に、甘いもん食って帰っただけだ」


「それに何時間かけんだよ。アタシは詳細にと言ったはずだが?」


「俺はソイツを承諾した覚えはねえ」と、一度突っぱねてから、俺は思い直した。別に、やましいことがないなら、言ってしまった方が話は早い。「ハシゴしたんだよ。その女が、まぁ、食うわ食うわ」


「それで? まさかシメにホテルなんか寄ってねえだろうな」


「ホテル? 何でだよ。ホテルってのは泊まるところだろ。寄って何しろってんだ」

 急に突拍子(とっぴょうし)もないことを言い出すので、俺はやや混乱した。


 真樹は安堵(あんど)の表情でため息を漏らす。

「お前はまだ知らなくていい」


「あ? 何だそりゃ。どういうことだ? 何で女とホテル寄るとマズいんだよ。説明しろ」


「うるせえ。とにかくホテルに入ってねえならそれでいい。ここにも連れ込んでねえな?」


「連れて来たってピアノしかねえだろ。まあ、アイツが俺のピアノを聴きたがったら、連れて来るかもしんねえけど」


「ダメに決まってんだろ、ブッ殺すぞ」


「いや、だから何でだよ。ここは俺の家だぞ。誰を呼ぼうが俺の勝手だろ」


 真樹は舌打ちをして、憎々しげに呟いた。

「だからアタシは高校通わすなんて反対だったんだ。盛りついた性獣どもが。根絶やしにしてやろうか……」


「なあ、さっきから、意味が分からねえんだが」


「分かんないならそれでいいって。それより洗濯物出しな。洗ってやるから」


 そう言った真樹の態度に、俺は今まで感じたことのない悪寒を覚えた。


 不意に、スマホが鳴ったので、俺は通話ボタンを押す。


「何でアタシの時には一切出ねえんだよ!」と真樹が隣で文句を言った。

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