2-1.宣戦布告/篠崎 寧々
その日の夜は、帰りが遅くなってしまって、私はすごく怒られた。
もう少し遅ければ、警察に捜索願いを出すところだったそうだ。お父さんも、残業を切り上げて帰ってきたらしい。
お腹がいっぱいで、晩ご飯は全然食べられなかったし、とにかく心配をかけてしまった。
「悩みがあるなら、お願いだから言って」とお母さんはとても真剣に言った。
私が何かに悩んでいることを、お母さんも、お父さんも、ずっと心配してくれていたみたいで、私は申し訳なく思った。
お父さんはお母さんの隣で、静かに私を見つめていた。
嘘をついたり、ごまかしたりはしたくなかったけど、全部を話すのも違うと思った。
「心配かけてごめんなさい。でも、これは、私の気持ちの問題だから、自分で解決しなくちゃいけないことだと思う」
私がそう言うと、それまで黙っていたお父さんが、
「お前は、戦ってるんだな」しみじみと、感心するみたいに言うので、私は思わず泣いてしまった。
次から、遅くなる時はどこにいるのか必ず連絡をすると約束して、私は部屋に戻った。
竹刀袋から一本竹刀を抜いて、鍔をはめる。中段に構えて、深く息を吐いた。
──「ネネ、あんた、ウザいわ」──
マユちゃんは、私にそう言った。
そうだよね。勝利に渇いて、むさぼるように稽古を重ねてきたマユちゃんからすれば、ずっとウジウジ悩んで、でも何に悩んでるのか言いもしないで、稽古になれば足がすくんで動けない、そんな女、ウザくて当然だ。
呉島くんの言葉を、私は、声に出して呟いた。
「例え世の中がクソみてえな出来事で溢れ返っても、その中で、ボロっくそに叩きのめされたとしても、俺は戦うことをやめねえ」
私は、そんなふうに、強くなれるだろうか。
「なれなかったとしても……!」
竹刀を大きく振りかぶる。
天井に、竹刀の先が当たって鈍い大きな音をたてた。
「あっ……」と呟いた瞬間に、バタバタと階段を駆け上がる音がする。
ノックもなしに開け放たれた部屋のドアから、両親が飛び込んで来た。
お母さんは、何か言いかけたけど、私が竹刀を振っていただけだと気付いて、安心したみたいに、ため息をついた。
「今日はもう、早くお風呂に入って休みなさいよ」
「うん」と返事をする。
私より少し背が低いお父さんが、すぐ前まで来ると、私の頭に手を伸ばして、なでた。
「僕たちは、お前を心配しなくていいんだな?」
私は、何て答えればいいのか迷った。けれど、少し考えて、「連休明けに、部内の選抜試合があるの」と言った。
「団体戦の、メンバーを決める試合だな」
私はうなずいた。
「もし来れたら、見に来て。私、勝つから」
お父さんは、ポケットから手帳を出すと、その日付に大きく『有給』と書き込んだ。
「必ず見に行く。勝てなくてもいい。頑張りなさい」
胸の奥の方から、何か熱いものが溢れてきて、声が震えた。
「うん……」
✳︎
ゴールデン・ウィークの初日、私は大急ぎで剣道部のチーム・ジャージに着替え、朝ごはんをかき込むと、防具袋と竹刀を担いで玄関を出た。
電車を降りてスマホを開く。まだ朝の7時40分。部活が始まるのは8時半からだから、45分は早く着く。駅から走って、校門を抜け、格技室のドアを開けた。
白い剣道着の女の子が一人、竹刀を振っている。マユだ。私は、彼女がそうやって、毎朝誰よりも早く格技室で練習していることを知っていた。
振り下ろした剣先が、まだきりっと冷える朝の静謐な空気を裂いて、面の高さでピタリと止まる。息を飲むほど美しい形だ。彼女の烈しい気性さえ、忘れそうになる。
乾いた口の中に、絞り出したつばを飲み込んで、私は「おはよう」と声をかけた。
彼女は一瞬、こちらに目を向けて、それからまた、前を向き直って竹刀を振った。
防具袋と竹刀を更衣室に置いて、私は彼女を見つめた。
「何? 気が散るんだけど」
マユは竹刀を肩に担いで、蔑むような目で私を見る。
「マユ、私、話がしたい」
「そう。私は、素振りがしたい。振った数だけ、強くなるって信じてるから。私は強くなりたいの。アンタと違ってね。
こないだのことなら、私が悪かったわ。他人に期待しすぎてた。アンタが私と同じように、強くなろうとしてるって、勝手に決めつけてたから」
マユの冷たい声が、胸に刺さる。でも、怪我のことや、私の悩みを彼女に言うのは違う気がした。私は、慰めてほしいんじゃない。
「マユ、私、勝つから」
また素振りに戻ろうとした彼女の手が、ぴくりと動いて、止まった。
「は? 誰が、誰に勝つって?」
「私が、アンタに勝つんだよ。マユ」
「いきなりさぁ、調子こいてんじゃねえよ」苛立ちと怒りを隠しもせず、彼女は私を睨む。
「私、昨日、勇吾くんと会った。2人で。私は多分、あの人のこと、好きになると思う」
「あ? 部活サボって、男とデートに行った自慢? アンタ、何がしたいワケ? ブチのめされたいなら、普通にそう言えよ」
「アンタには、負けないって言ってんだよ、マユ。剣道も、恋も。相手になってやるって言ってるんだ」
マユは竹刀を振り上げて、一瞬我に返るように、ハッとしてから、そっと、その竹刀を床に置いた。それから大股で私に歩み寄ると、突き出された手に目を細めた私の胸ぐらを掴む。
足が震える。
「上等だよ、ネネ。吐いた唾、飲むんじゃねえぞ」
声が震えないように、お腹にギュッと力を入れる。
「部内選考試合。そこで勝負だ。アンタこそ、私に負ける前に怖気づいて逃げるなよ」
マユは私の胸ぐらを掴んだまま、強く引き寄せた。
「男にちょっと励まされた程度で調子づいてる、アンタの幻想ごと叩っ斬ってやるよ」
私はほとんど泣きそうだったし、気を抜けば涙が溢れてへたり込みそうだったけど、奥歯を食いしばって踏みとどまる。
やってみろ! って言えそうかなぁ……声が震えちゃうかなぁ……と迷った一瞬、格技室のドアが開く音が聞こえ、マユは舌打ちをして私の胸ぐらを放した。
それから彼女は、一度も私と目を合わすことはなかった。