1-1.神童、校舎裏に墜つ/呉島 勇吾
永遠にして女性的なるものが、われらを引き上げてくれる
〜ヨハン・W・V・ゲーテ『ファウスト』より〜
鍵盤を、底にあたるまで押し込む。
フレデリック・ショパン『マズルカOp.(作品番号)59-3 』嬰ヘ短調
冒頭から憤怒の様相で始まるこの曲は、しかし複雑な展開を経て、結局、激情を抑え込んで綺麗事を吐く、偽善者の愛想笑いにも似た長調で締め括られる。
退屈だ。
張りつめた弦を並べる金色の響板を、星空をぶちまけたみたいに、黒光りの屋根に照り返しているフルコンサート・グランドピアノの鍵盤から、そっと指を離す。
ホールの残響を味わうように間を開けて、俺は椅子から、重々しい闇を引きずるように、立ち上がった。
スポットライトが眩しい。
ステージの奥で壁一面に照明を乱反射させるパイプ・オルガンを背にして観客席を向く。
音の余韻に捕われていた聴衆が、ハッと我に返って、思い出したように拍手をする。それはやがて雷鳴のように烈しさを増し、地鳴りのような歓声さえ飛び交って、会場を埋め尽くした。
俺は2階席を睨む。そこにすまし顔でふんぞり返っている、審査員どもを。
その中の1人と、目が合った。ガキの頃、俺の演奏に評論を書いた、フランス人だ。
──かつて、その魂と引き換えに、ニコロ・パガニーニを伝説的名手にした『音楽の悪魔』は、現代に降り立ち、呉島 勇吾の魂を買い取った──
クソが……と心中呟いて、客席に一礼する。
ポーランド国立ワルシャワ・フィルハーモニーホール、俺はその会場を後にし、翌日、日本へ飛んだ。
✳︎
放課後の校舎裏、倉庫の陰。
つい一昨日、ワルシャワのステージに喝采の嵐を呼んだ男は、日本のしがない地方都市の片隅で、ボロ雑巾のように打ち捨てられていた。
切れた唇から血の混じった唾を吐く。空は嫌味なほど高く晴れ渡っている。
「クソったれ……!」
この場所は、塀と植え込みに遮られ、通りからも校舎からもグラウンドからも、丁度うまい具合に死角になる。隠れてタバコを吸ったり、異性が不純な交遊をするために学校側があえて用意したとしか思えない。
あるいは、気に入らない下級生をブチのめしたり。
相手が一人なら勝てたとまでは言わないが、漫画じゃあるまいし、二人相手じゃまず無理だ。それが五人いたのだから、俺がブチのめされたのは、まあ、自然なこととも言える。
全身がまんべんなく痛む。よろよろと歩いて倉庫入口の階段に腰を下ろすと、不意に遠慮がちな足音が聞こえた。
「あの……大丈夫?」と声をかけてきたのは、一人の女子生徒だった。
手がデカい……と俺はまずそう思ったが、見上げると身体全体がそもそも大分大柄だった。反面、前髪の重いショートカットからは気弱そうな目が見え隠れして、野暮ったい髪型と、野性的な肉体と、気弱な表情とがどれもちぐはぐに思えて何となくアンバランスだった。
地面に立てても彼女の肩まで届きそうな、細長い和柄の布袋を抱えていたが、何を入れるためにそんな細長い袋が存在するのか、俺にはとんと想像がつかなかった。
「怪我をしてる……」女は俺の顔の傷をみとめると、歩み寄って雨に濡れた子犬でも見るような目で見下ろす。
「怪我なんて、大袈裟なもんじゃねえ」と俺は吐き捨てた。
「でも、唇と、鼻が切れてるよ。ほっぺも擦れて、腫れてるし。保健室に行こう? 連れて行くから」
「どうってことねえよ。大ごとにしたくねえし、もうすぐ迎えが来る」
俺は近くに乱雑に放った鞄と、その上にかぶせるようにかけていたブレザーを拾い、羽織った。
女は俺のブレザーの襟に、学年章をみとめたらしい。あ……と声を漏らした。
「転校生の人? 確か……」
「呉島 勇吾。転校生じゃねえ。事情で初登校が遅くなっただけ」
「帰国子女の、ピアニスト……」
俺は思わず顔をしかめる。
「何で知ってる? 余計なことは言ってねえつもりだ」
「噂になってた。プロのピアニストが同級生になるって。ごめんね。私、音楽に全然詳しくなくて」
「それでか……」と俺は舌打ちをする。
日本という国が、何で4月なんて時期にこぞって入学式をやるのか知らないが、デカいコンクールの予選のためにワルシャワにいた俺が、その下旬になって初めて教室に入った時、周囲は妙な空気で、遠巻きに俺を見ながらヒソヒソやってる感じが不快だった。
事務所のマネージャーから「面倒を起こすな」と口酸っぱく言われていた俺は、それでも大分我慢した方だが、珍しい虫ケラをもてあそぶような調子で上級生に絡まれた時にまで、にこやかに接してやろうという気にはならなかった。
最初は物珍しさと、上級生という立場をカサに着た侮りとを混ぜ込んだような態度であれこれと尋ねてきた連中も、つっけんどんな俺の受け答えに、次第に業を煮やしたと見えて、俺をこの校舎裏に引っ立てて小突きはじめた。
俺はその中心にいた一人の顔面をしたたかブン殴ったが、案の定、手痛い反撃にあったわけだ。
「連中、音楽家ってのはみんな冬のナマズみてえに大人しいもんだと勘違いしていやがった」
「確かに、校舎裏でケンカしてるイメージはないかも……」
「バッハだってベートーベンだって短気だった。奴らが俺の立場なら、同じようにしたはずだ」
「そうなんだ。知らなかった。けど、負けて怪我しちゃったら……」
「おい、俺は負けてねえ。『参った』とは一言も言ってねえからな。いや、最後までここに残ったという点で言えば、むしろ俺の勝ちとも言える」
俺がその重大な誤解を指摘すると、何がおかしいのか、彼女は笑った。
「ちょっと待って。絆創膏持ってるから」彼女は抱えていた細長い袋の紐を解いた。
袋は横の方にスリットが入っていて、隙間から、竹を束ねたようなものがのぞいた。先の方が二つ折りになっていて、小物をしまっているようだ。彼女はそこから絆創膏を取り出した。
「剣道?」
日本の社会や文化について、俺はほとんど無知といっていいが、そのくらいのことは知っている。
「いつまで続けるか分からないけど」
そう言いながら、彼女は絆創膏を包みから剥がして俺の鼻に貼った。
「帰ったら、ちゃんと消毒してね」
「いらねえよ、別に」
「ダメ。化膿しちゃうんだから」
「それより、『いつまで続けるか分からない』ってのは? やりたくねえなら辞めりゃいいだろ」
「続けたいんだけど、そう簡単じゃなくて」
「ふーん……」と呟くと、不意にブレザーのポケットからスマホの着信が鳴った。
「お迎え?」
「ああ。そういや、お前、名前は?」
彼女は少し恥ずかしそうに目を伏せた。「篠崎 寧々」
「そうか。一応、礼を言っとくわ。ありがとな。じゃあ」
俺はそう言って、彼女に背を向けると、鼻に貼られた絆創膏を、指先でなぞった。
✳︎
校門には白のレクサスが乗り付け、その傍らに立っている女は帰路に着く生徒の視線を集めていた。
身体の線を強調するようなタイトなスーツに、ブランド物のデカいサングラスをかけた女は、俺と目が合うと、「先生!」と声をあげた。
俺はうんざりとため息をつく。
柴田 真樹。俺の所属するクラシック音楽事務所のマネージャーだ。
「わざとやってるだろ」人目を避け、そそくさと車の後部座席に乗り込む。
「何その絆創膏。あんた、またやったの。まさか、殴ってないでしょうね」ギアを入れ、アクセルをふかしながら女は叱責する。
「ぶん殴ったに決まってんだろ。絡んできたのは向こうだ」
「ガキの喧嘩がどっちから始まったかなんて興味ないわ。手は?」
真樹は俺の手の状態をしつこく確認した。要するに、自分の扱う商品の価値が落ちていないかということだ。ピアニストが人を殴るなど言語道断で云々……。
「関係ねえんだよ。年がら年中手袋はいた両手を懐に抱えて、縮こまって歩くような生き方なんざ、俺ぁまっぴらだ。【悪童】で売るんだろ? ちょうど良いじゃねえか」
「それはあくまでキャラクター。手に怪我でもしたらそれ以前の問題だろ」
「知らねえよ。アンタらの都合だろ。そんなもんにセコセコ合わせてられっか」
俺がそう言うと、レクサスは急に減速して路肩に寄った。ハンドルを握っていた真樹が運転席を飛び出し、後部座席のドアを乱暴に開け、俺の胸ぐらを掴んでシートに押し付けた。
「おい、クソ餓鬼。てめぇ調子に乗ってんじゃねえぞ」真樹は眉間にシワを寄せて俺を睨む。
「シワ増えんぞババァ」
「うるせえ。アタシらがてめぇみてえなガキの面倒見てんのはな、てめぇが金になるからだ。
じゃあ、てめぇはどうなんだ? アタシの代わりに、『僕はピアノが上手いんで、聞いて下さい』って頭下げて回るか? 誰が相手にすると思う。
てめぇの腕を金に変えてんのはアタシらだ。気に入らねえなら街のピアノ教室でガキと一緒に発表会にでも出てろ。てめぇの腕なら、ちょっとした噂くらいにはなるだろうよ。だが、金は一銭も入らねえ。
いいか、よく聞けクソ野郎。行く先々でトラブル起こしやがるてめぇみてえなクソ餓鬼の面倒を、飽きもせずに見続ける事務所なんてのはな、ウチしかねえと断言してやる。
パリの国立高等音楽院を飛び級で出たてめぇが、どうして今さら日本の高校なんか通わされる羽目になったのか。その意味ってやつをよぉく考えて生きるんだな」
俺は鼻で笑った。「アンタはお世辞にも善人じゃねえが、少なくとも偽善者じゃねえ。そういうところは信用してるよ」
「だったら、クラスメートの陰毛一本分くらいの社会性は身に付けて来い。てめぇにステージを用意すんのはそれからだ」
「口の汚ねえ女だ」
「アタシの口はセクシーだし清潔だ。それとな、ババァじゃねえよ。28歳、オトナ女子だ。てめぇこそ口のきき方に気をつけろ。そのツラ倍に腫らすぞ」
(何が『オトナ女子』だ図々しい)と俺は心中吐き捨てて、後部座席に横たわった。
真樹が運転席に戻ると、白のレクサスはまた、国道を快調に飛ばし始めた。
車窓から見える空だけは、やけに澄んで高かった。