プロローグ
季節は夏。
何かと学生が喜ぶイベントの多いこの季節は、暑がりの俺であってもテンションの上がってしまう麻薬のような効果を持っている。それこそ、洗脳と言ってしまっても可笑しくない。
夏祭りや海。花火大会やスイカわりのように、皆も一度は行った事のあるイベントがほとんどの筈だ。そしてまるでこのビッグウェーブに合わせたように『夏休み』などという、とんでもない長期休暇が世の学生たちには与えられるのだ。
まったく、羨ましい事この上ないぜ。
「なぁ? 須藤」
「何が『なぁ?』なのか分かんねえけど、そうだな」
会社のオフィス内。太陽が発する日照りを順調に吸収するコンクリートの建物で出来たこのオフィスビルは、こんなにも暑い癖にエアコンをつけていないという。意味が分からん。
そして、こうして俺等が頑張って仕事をしている間、学生たちは夏休みを有意義に扱って馬鹿騒ぎしているのだろう。もしくは、家でのんびり寝転がっている奴もいるか。
「クソ! 駆逐してやる!」
「やめとけ。著作権引っ掛かるぞ」
ダン! と力強く自分のデスクに拳を打ち付けると、横に座る須藤が自分のパソコンに目を向けたまま注意をしてくる。それに大人しく従い、拳を膝の上に置いた後、椅子をぐるっと須藤の方へ向ける。
「須藤! お前も、学生たちに怒りが湧いているんじゃないのか!?」
「湧いてねえよ。お前と一緒にすんな」
「いいや、そんな筈はない! なぜなら、お前は常に死んだ目をしているからだ!」
「お前もしかして喧嘩売ってんのか?」
叫ぶ俺を呆れた目で見る須藤。だが、そんな目で見られようと俺のこの気高い想いは変わらない。
「世の学生よ! 死ぬがいい!」
「さっさと仕事終わらせようぜ。もう残業は御免だ」
「それは同感」
高ぶる想いを抑え、切り替える。デスクに積まれた書類の山にため息を吐いて、俺はパソコンのキーボードに触れた。
*
「はい! 仕事終了! 完結! 完遂!」
「うるさっ!? ちょっと黙ってよ火村!」
「すんません!」
仕事を終えた喜びに身を任せはしゃいでいたところを同僚の女性に怒られた。怒った女性ほど怖いものはないので、俺はきちんと謝る。横の須藤が憐れむような眼で俺を見てきているが気にしない。ちょっと傷つくけど。
「ほら、須藤。早く飲みに行こう」
「おう」
座っていた須藤を立たせて、オフィスを出る。時刻は定時を一時間ほど過ぎたぐらいだ。ちょうど夜中の八時だ。
「残業何時間からがブラックなんだ?」
「さあな」
ふと浮かんだ疑問を横の須藤は律儀に応えてくれる。超適当な返事だったけど。
会社から出て、夜の都会の街を歩く。キラキラと輝く光源がそこかしこらにあり、若者の好みそうな飲み物の売っている屋台もあった。時間だけに今は閉まっているが。
そして、たとえ時間が遅くとも未だに若い学生の姿は街にあった。恋人同士でイチャイチャとしている奴もいれば、友達等と共に楽しく話しながら道を歩くだけの奴等もいる。
嗚呼、青春しているようでなによりだ。
「俺の学生時代なんか、部活一筋だったのに…………」
「おう、そうだな」
「相槌が適当なんだよ!」
そう、俺は学生時代演劇部に所属していた。入った理由などただの好奇心だったが、その演劇に俺は度肝を抜かれるほどハマりこんだ。アニメもドラマも見た事はあったが、そのどれよりも演劇は迫力があった。
俳優や女優の演技力が存分に発揮される演劇という舞台。その世界に、思いっきり魅了された。
「魅了、されちまったんだよなぁ」
「でもお前、後悔してない! とか前に言ってたじゃん」
「そうなんだよ。そこが質悪いんだよ」
須藤の言った言葉が見事に図星を指し、反射的に俺は須藤に指を差した。須藤にペシッと手を叩かれてしまったが。おい!
俺は学生時代に部活を最優先に行動していた。だから、恋愛なんかしなかったし、しようともしなかった。そして俺は、それで良かったと思っている。
「でも! 今は彼女欲しいんだよ!」
「そうか、頑張れ」
「おう! 頑張る!」
大声を上げる俺に須藤は激励の言葉を授けてくれた。それに応えるように、俺はまた大声を上げた。そして何故か須藤は両耳を手で塞いでいた。
解せぬ。
「うぃ~~~。……ヒック!」
「おん?」
居酒屋に行く途中。前方から酔っぱらって顔を赤くしたおっさんが歩いて来ていた。その姿を見て須藤が眉間に皺を寄せ、一気に不機嫌になる。
「露骨だよな、お前」
「自分の許容量も把握しないで酒を飲むのは普通にダメだろ。周りにも迷惑がかかる」
「分からんでもない」
正論をかます須藤に苦笑を返す。その時、酔っぱらったおっさんと目が合い、顔を顰めた。横を並び歩いていた須藤も、同じような反応をしたのが分かった。
「なんだ、なんなんだよ。……どいつもこいつも、俺を馬鹿にしやがってえええええええええええ!!」
「おいおいおいおい!」
いきなり叫びだしたおっさんは、周りを歩く人々の奇異の視線を集め、懐からカッターナイフを取り出した。その様子に確信的な危険察知を覚え、焦りだす。
「死ねえええええ!!」
「須藤!」
「なっ! 馬鹿野郎!」
横に立つ須藤を咄嗟に後ろへと押し出し、ナイフの行く対象を俺にだけに絞った。背中から聞こえた罵声に、ふっと小さく笑う。
「――嗚呼、もっと演劇したかったな」
腹部に硬く冷たい何かが刺し込むのを感じながら、最後にようやく分かった学生時代の後悔を口にした。