94 秋望(2)
豪奢な車箱が京の通りをゆったりと進む。
上質な漆の塗られた車には源家の紋が入っており、車箱の前後左右には馬に乗った御劔達が付き、その後を舎人や牛飼童がついている。
源家の別宅は高野川に沿って北に向かった修学院山の麓にある。
普段は昭仁も祖父の倖仁も馬で向かうが、今日は咲子と一緒に向かう為、源家の車を用意した。
「こんなにじっくりと、都の様子を見るのは初めてです」
半蔀の物見窓から外を物珍しそうに眺める咲子に、昭仁と浮島は微笑む。
咲子が出かけるのは大抵が常寧殿の方の誘いで向かう内裏であり、大抵物見窓は閉じられたままだったので、こうやって町や民の様子を見る事もなかったという。
それを聞いていた昭仁が、どうせならばと四条大路を抜け、鴨川沿いに景色を見ながら行きましょうと提案をした。
「父上様もご一緒できればよかったのに」
キラキラとした瞳で、物見窓を覗いていた咲子が残念そうに呟く。
今回の別宅へは藤原家からは咲子と浮島、そして御劔の五人が行く事になった。
咲子の父である盈時もと話したが、咲子の不調を心配して長く本邸に留まっていた為、側室である智子からの再三の文が届いていたという。
本来であれば、本邸にその当主が留まる事は咎められる事ではないが、智子は藤原家の嫡男を産んだという事もあって、正妻が居ない本邸に長く盈時が留まるのを良く思っていなかった。
今回の出来事を知ってもなお、小言を言う智子に「源家から別宅に慰労を兼ねて招待された」と言おうものなら、その不満は盈時だけでなく咲子や本邸に仕える者にまで及ぶだろう。
そう考えた盈時は、昭仁の気持ちだけ受け取り、都に残る事を選んだ。
「そうですね。此度休んでいた間のお勤めがあるそうですからね。また次の時にお誘いしましょう」
咲子の言葉に、昭仁が優しく答える。
咲子には「休んでいた間、目付としてやる事が溜まっていてね」とは伝えたが、昭仁と浮島は盈時からの事情は聞いている。
―義理父上様の側室は、確か造酒司の令史殿の娘と・・・
調べさせたところ、中々に出世欲の強い男で、藤原家に嫁ぐ際も二人いる娘のうち上の姫を正室にと進めていたが、家格的に咲子の母である紗子の方が高かった事、また盈時自身が紗子に惹かれ、正室に望んだ事によって叶わなかったが、その後、子の出来ない様子を見て、二の姫を側室にしたと言う経緯がある。
正室亡き後は、智子自身が本邸に入る事を望んだが、本邸は紗子の家からの贈られたものというのもあり、その願いは叶わずにいる。
盈時曰く、元々紗子に対抗心を持っていた事もあって、嫡男の出来なかった正室を蔑み、正室亡き後は咲子に対しても何かと不躾な対応をしていたという。
―いっそ、源家で対処しても良いのだが。
そう考えながら、物見から町を眺め、あれこれと楽しそうに浮島に問う咲子を見つめる。
「あそこに、綺麗な色がたくさんあるお店があります。あれは何でしょう?」
その声に、昭仁が咲子の隣から物見窓を覗くと、確かに色鮮やかな軒が目に入る。
「あれは何の店でしょう?」
「着物の余り布で作った装飾品を取り扱っているようですね」
昭仁は馬に乗り並走する颯水に問うと、目が利くのかすんなりと颯水が答えた。
「今、民の比較的裕福な層に人気の装飾品のようですよ。身分の高い方々の着物を作った際に出る端切れを使っているそうで、若い女子に人気があると聞いております」
颯水の言葉を聞きながら、咲子が軒に並ぶ色とりどりの飾りに目を奪われている様子が余りにも可愛らしく、昭仁の顔には自然と笑みが浮かぶ。
年頃の女子であれば、平民でも貴族でもこういった可愛らしく身を飾るものには興味を持つのだろう。
「立ち寄ってみますか?」
うっとりとした様子で見つめていた咲子に、昭仁が声を掛ける。
「え、あの」
「別宅に行くまで急ぎません。少しぐらい寄り道しても大丈夫ですよ」
心の中では「近くで見てみたい」と思っていたのを昭仁に言われ、咲子はよほど慌てたのだろう。上手く返事が出来ない様子に昭仁が微笑む。
「あの、良いのでしょうか?」
「ええ、もちろん。折角躑躅と外に出たのですから、私も楽しみたいのですよ」
目元を緩ませ言う昭仁の言葉に、咲子の顔がぱぁっと輝く。
「ああ、その前に店の者に先触を。いきなり身分の高い者が立ち寄って、慌てる事になっては可哀想だ」
物見窓から昭仁が颯水に指示を出すと、颯水は頷き、細工の店へと馬を向かわせた。
昭仁はそれと同時に、残りの御劔や舎人達にも、颯水が戻るまでこの場に留まるようにと指示を出す。
留まったのはほんのひと時、直ぐに颯水が戻った。
源家の牛車が立ち寄る事に店主は大層慌てたようで、通りにまで出てこちらを見ている。
「颯水、一体何と言ったのか?」
普段は祖父の倖仁が垣根なく民に話しかける為、民達も源家には貴族に対しての接し方ではあっても変に遜る事もない。なのに、今日は皆が遠巻きに見るような距離を感じるのだ。
「源家の当主様と、そのご内儀となる姫を連れてこちらに立ち寄りたい、と言っただけです」
その言葉に咲子の頬が染まる。
「・・・内儀」
恥ずかしそうに俯いてしまった咲子をみて、昭仁がくすりと笑う。
「そうですよ? 躑躅は私の妻となるのですから、間違いではありませんね」
「でも、まだ婚儀は先です・・・」
「皆が躑躅が私の所に嫁ぐのは知っている事ですからね。それで、皆が遠巻きにしているのですね。私が妻を連れていると聞いて一目見たいと思ったのでしょう」
昭仁は、市井に倖仁ほど気安く立ち寄る事はないが、それでもそれなりに顔は知られている。だが、咲子は此度の欣子のおこした事によって、始めて市井に知られたのだ。
姿を見る事は出来なくても、咲子を見た貴族からその貴族に仕える者、そしてその者達から市井へ。
源家の若き当主に見初められ、請われた深窓の姫。琴の名手で、先の宴では東宮にその音色を認められ、披露した際にはその場にいた皇族や貴族が聞き惚れたという。見た目は儚げで、大層優しく愛らしい姫様だというのが、都での今の咲子の評判だ。
だが、当の本人は長く臥せっていた事と、屋敷に留まっていた事でその評判は知らない。
昭仁自身もその噂を耳にはしたが、否定する理由もないのでそのままにしている。
「妻・・・」
昭仁に改めて「妻」と言われ、咲子が頬を染めたまま長いまつ毛の瞳をぱちぱちと瞬かせ、固まってしまったのを見た浮島が、微笑みながら助け舟を出す。
「月白様、そのように仰られては姫様が恥ずかしさで倒れてしまいますよ」
浮島の言葉に、昭仁が咲子に柔らかく微笑む。
「ええ、躑躅は私のただ一人の自慢の妻ですよ。自覚してくださいね」
「・・・はい」
そう言うとそっと手を伸ばし、愛おしそうに咲子の頬に触れると、咲子が花が咲くように微笑んだ。
「んんっ!」
二人の世界となっていた牛車の中が、浮島の咳払いで現実へと戻る。
「飾り細工の店へと着いたようですよ」
その言葉に、二人は浮島の方をチラリと見ると、再び目を合わせ微笑む。
「では、外に出る用意が出来ましたら、降りましょう」
「はい」
幸せそうに微笑みあう二人を見ながら、浮島が穏やかに微笑んだ。
飾り細工の店の前に、豪華な牛車が停まる。
するすると御簾があげられ、まず出てきたのは目の覚める様な美貌のお公家様だ。
白い肌に漆黒の髪。切れ長の瞳にすっと通った鼻筋に、薄い唇。
すらりとした体躯で、降りてきた瞬間、人ではないのでは?という思いが浮かんだ。
ついさっき、隣の細工屋に身なりの良い貴族の使いの方がきて、ある貴族とその奥方が立ち寄りたいと言われ、何故か細工屋がうちに飛び込んできて一緒に出迎えて欲しいなんて言い出した。
貴族なんて都に住んでいれば珍しくないものだが、余りの慌てように誰が来るのかと聞くと、あの、源家の若き当主様という。
源様と言えば、ついこの間から都中で噂となっている、奥方様となる姫様が内親王様に呪いをかけられたのを命がけで救ったという方だ。
内親王様のおこした事も大事だが、今では源様と奥方様にと望まれた姫様との恋物語の方が知れ渡っている。
その噂のご本人様がなんて、細工屋が驚くのも無理はない。
美貌のお公家様に、老若男女問わずぼーっと見つめていると、そのお公家様は車の中へ声を掛けた。
「さあ、躑躅。手を」
伸ばしたお公家様の手に、白く小さな手が乗せられ、ゆっくりと中から一人のお姫様が出てきた。
お公家様はとても甘く微笑み、宝物のようにそのお姫様を外へと連れ出す。
「月白さま、ありがとうございます」
可愛らしい声と共に、そのお姫様がお公家様を見上げ花が咲くように笑うと、今までお公家様に見とれていた皆がお姫様の笑顔に釘付けになった。
何とも言えない妙な間が出来て、しん、と周りが静まり返ると、お姫様がその様子に気がついたのか首を傾げる。
「何て愛らしい」
ぼんやりと見惚れていたら、誰がぽつりと呟いた。
愛らしいと言うか、何と言うか。
美貌のお公家様と並ぶと何とも目が潰れそうだ。
そのお姫様とお公家様を守るように控えている人達も、なんだかんだと美形揃いで、思わずぽかんと口が開きそうになる。
「店主、急ですまないね。少し細工を見せていただけるだろうか?」
美貌のお公家様に微笑まれ、固まっている細工屋を肘でつつくと、はっと我に返り慌てて返事をする。
「は、はい。どうぞ!」
「では、躑躅。見せて貰おう」
お公家様は甘い笑顔を奥方様に向けると、そのまま手を取り中へと入っていった。