87 受ける
食事を終え、運ばれてきたレアチーズケーキとフレーバーティー。
フレーバーティーは白桃と苺の香りのものだ。
カップに注がれた甘い紅茶の香りに、自然と私の顔には笑みが浮かぶ。
「ああ、良い香りだね」
私の茶器から漂う香りに、拓さんも微笑む。拓さんが頼んだのは、お店お薦めのブレンドコーヒー。
拓さんは私のように甘いものは余り食べないけど、甘い香りは好きだという。
「はい。幸せな気分になれます」
香りを楽しみながら一口飲み込んだ後、自然と浮かぶ笑顔で私が答えると、拓さんが笑う。
ランチのサンドウィッチを拓さんに半分食べて貰ったおかげで、目の前のレアチーズケーキは食べられそうだ。
そっとフォークをケーキに差し込み、一口分をすくい口に含むと、程よい酸味と甘さが口の中に広がった。
「美味しい?」
余程私が幸せそうに見えたのか、拓さんがテーブルに両肘をつき、少し前のめりになった体制で、私の顔を覗き込む。
「はい、とっても。あ、拓さんも食べてみますか? 美味しいですよ?」
「・・・じゃあ、一口」
拓さんの返事で、自分がかなり大胆な発言をしてしまった事に気がつく。
そう、一口を拓さんにという事は、フォークですくったケーキを、そのまま拓さんの口に運ぶという事だ。
その事に気がついて、焦った私が拓さんの顔を見ると、にっこりと微笑まれてしまう。
多分、私が拓さんに言った時点で、その事に気がついていたのだと思う。
ニコニコと機嫌よく私を見つめる拓さんに、私は意を決して一口分のケーキをすくい、拓さんの方へと運ぶ。
その動作に合わせて、拓さんが少し身を乗り出し、ぱくりとケーキを口に入れた。
その瞬間、店内にいる人たちからキャッという声と、息を呑む音が聞こえたのは気のせいではない筈。
だけど拓さんはそんな様子に気にする事もなく、私のフォークから食べたケーキを咀嚼している。
「・・・どうですか?」
恥ずかしくて、黙っている間が持たなくて、私はおずおずと拓さんにケーキの感想を聞く。
「うん、美味しいね。そうだ、桐生がレモンやオレンジを使った、レアチーズケーキのあるカフェの話をしていたから、聞いておくよ。朝に話をしたドライブも兼ねて行ってみようか」
拓さんは、恥ずかしさで動揺する私に笑顔で言う。
私は熱を持った顔で頷くと、拓さんが嬉しそうに笑ってコーヒーを口に運んだ。
「あ、でも。拓さん甘い物、あまり好きじゃないんですよね?」
「好きだよ、あまり食べる事がないだけで。でも、えりさんが美味しそうに食べているのを見るのも好きだな」
ゆっくりとコーヒーを飲む拓さんは、さり気なく私の心臓がドキドキしてしまう燃料を投下した。
動揺で、フォークを落とさなかった私は頑張ったと思う。
「そ、う、ですか」
「うん。だから、ほら食べて。何ならさっきのお返しをしてあげるよ?」
「イエ、ヒトリデ、食ベラレマス」
思わずカタコトのように呟く私を見て、拓さんが楽しそうに笑う。でも視線はとても甘い。
多分、だけど。
私が「じゃあ、お願いします」と言ったら、拓さんは周りを気にする事なく、私に食べさせてたと思う。
それぐらい甘く、優しい視線だった。
食事とデザートを終えた後、会計を済ませた拓さんに手を繋がれ、カフェを出る。
拓さんの右手には、さっきのカフェの紙袋が下げられてる。
もしかしたら、COO室にいるみんなのおやつかな、なんて思いながら車に乗って、シートベルトを留めたところで、その紙袋を拓さんから渡された。
「はい、お土産」
「え?」
「さっきのお茶、気に入ってたみたいだから。あとカフェお薦めのものも、いくつか入ってるよ」
拓さんから言われて、慌てて紙袋を見ると、パウチされたリーフティーが幾つか入っていた。
「家でゆっくり楽しんで」
驚いて拓さんの顔を見ると、悪戯が成功したといった顔で笑っている。
「色々試して、どれが美味しかったか今度教えて?」
さっき、私が「幸せな気分になれます」なんて言ったからだろう。
拓さんはこうやって、私が言った言葉を大切にしてくれる。
そして、その事を嬉しいと感じる自分がいる。だから、私も伝えてみよう。
「はい、わかりました。紅茶、ありがとうございます。一番おいしいと思ったお茶、今度拓さんに淹れますね」
私の言葉に少しだけ驚いた顔をした後、拓さんが「楽しみにしてるよ」と微笑んだ。
楽しい時間はあっという間。
少し憂鬱だった通院も、拓さんのおかげで楽しい時間になった。
来週からは、久々に会社に行く事が出来る。
改めて拓さんに、今日付き添ってくれた事にお礼を言う。
「今日も、ありがとうございました」
「えりさんが気にする事じゃないよ。言ったように、僕が安心したいだけだよ」
マンションの来客用駐車場に車を停めると、拓さんが車を降りようと運転席側のドアに手を掛けた。
私は思わず、拓さんのシャツの袖を掴む。
「あのっ!」
「うん?」
私の行動に拓さんが動きを止めて、こちら側を向いた。
私は袖を掴んだまま、俯いて続ける。
「あの、この前の、お返事をしたくて・・・」
恥ずかしくて、私は俯いたままだ。
私の言葉に、拓さんが身体を少しだけ私の方に向けた。
「・・・聞かせて?」
優しい声と共に、そっと拓さんの右手が袖を掴んだ私の手に触れた。
心臓の音が煩いぐらいに響いて、目が回りそうで、私は大きく深呼吸をする。
その間、拓さんは私を落ち着かせるように、そっと私の手を包んだ。
「私、拓さんの事が好きです・・・」
俯いたまま、一気に言い切った私は、もう一度大きく深呼吸をする。
「私、拓さんの事が好きだって、気がついたんです」
そう言ったところで、なぜか涙が浮かんできて、慌ててバッグからハンカチを出そうと、拓さんの袖から手を放そうとした。
その手を拓さんの手が優しく掴む。
「・・・本当に?」
拓さんの声に慌てて顔をあげると、ポロリと涙が零れた。
「あ、」
慌てて涙をあいた手で拭おうとしたら、拓さんの手が頬に触れた。
視線が合った拓さんが、真剣な瞳で私を見つめる。
「・・・えりさんが僕の手を取ってくれたら、僕はもう、えりさんの手を放す事は出来ない。えりさんが僕の事を嫌いになっても」
「・・・嫌いになんてならないと思います」
涙が零れた事が恥ずかしくて、私は視線を外しながら答える。
「僕はえりさんがずっと、生涯傍に居てくれる事が望みだよ」
私の右目から零れた涙を、拓さんがそっと拭いながら言う。
「えりさんに関しては、僕は余裕がなくなる。えりさんの思っているような男ではないかもしれないよ」
「・・・知っています」
拓さん言葉に、私はゆっくり視線をあげる。
「過保護過ぎますし、とても私の事を大事に思ってくれているのは、この2週間で知りました」
私の言葉で、拓さんの視線が何時ものように甘くなる。
「もちろん、これからは今まで以上に大事にするよ」
その言葉に、私は首を横に振る。
「駄目です。拓さんは私を甘やかしすぎです」
「うん。でもそれは仕方がないよ。僕がそうしたいんだから」
「でも、それが当たり前ってなっちゃうと、私、嫌な性格になるかもしれません」
そう伝えた後、小さく「だって、嫌われたくありません」と呟くと、その言葉も拓さんの耳に届いてしまったようだ。
楽しそうにちょっとだけ首を傾げて、続きを促すような視線を向けてきた。
「・・・拓さんに甘やかされて、それが当り前って思っちゃうと、我儘をいうかもしれないなって・・・」
自分で言って恥ずかしくなった私は、思わず俯いてしまう。すると拓さんの纏う空気が一層甘くなった気がした。
「えりさんの我儘なんて、我儘だと思わないよ。じゃあ、他には何かある?」
「あと・・・。仕事の時は今までのようにしたいです」
私の言葉に、拓さんの顔が思いっきり不満そうな顔になる。今にも声に出して「え―・・・」とでも言いそうだ。
いつも落ち着いて、穏やかな拓さんには珍しい表情に、思わず笑いが出てしまう。
「・・・だって、恥ずかしいじゃないですか」
そう、少なくともCOO室の皆は私と拓さんの事は知る事になるだろう。
彼等はきっと、今まで通り知らない顔をしてくれると思う。
色々フォローもしてくれるだろう。
だけど、フロア全体に知られるのは恥ずかしいし、仕事にも差し障りが出てしまいそうだ。
「まあ、牽制しておけば大丈夫か・・・」
ぽつりと拓さんが呟いたので、私は意味が分からず首を傾げる。
「何でもないよ。みんなにえりさんの自慢をできないのは寂しいけど。暫くは内緒にしておこうか」
そう言うと、頬に添えられていた手が私の頭を優しく撫でた。
「あの、この前の、お返事をしたくて・・・」
そう言いながら、俺のシャツの袖を握る彼女の手は震えていた。
余程、勇気を出しての行動なのだろう。
小動物のような様子に、庇護欲が沸き上がる。
躑躅の様子を見ていると、少なからず好意を持って貰えているのだろうと感じてはいた。
だけど、こうして改めて言葉にされると身構えてしまう。NOと言われても諦めるつもりなんてないけれど。
「・・・聞かせて?」
ゆっくりと言うと、彼女は頬を染めて俺の事を好きだという。
その上、「甘やかしすぎです」なんて可愛い事を言ったあと、追い打ちをかけるように「嫌われたくない」とまで言ってくれた。
昔も今も躑躅は控えめで、彼女が言う我儘なんて、我儘になんて当てはまらないような事ばかりだ。
もっと、我儘を言ってくれていい。
もっと、甘えてくれたらいい。
躑躅が望む事を全て叶え、腕の中で幸せそうに微笑んでくれる事が望みなのだから。
「えりさんの我儘なんて、我儘だと思わないよ。じゃあ、他には何かある?」
「あと・・・。仕事の時は今までのようにしたいです」
確かにオープンにするには、彼女の性格からして躊躇してしまうだろう。
これからの仕事や人間関係が、やり難くなる事を考えているのかもしれない。
彼女は自覚がないみたいだが、おっとりとした雰囲気と仕事をきっちりと熟す有能さ、周りに分け隔てなく向ける気づかい、そして小動物のような愛らしさから、狙っている男が多くいる。
さっさと婚約者として公表したいところだが、躑躅の気持ちを無視してまで進めたくはない。
「まあ、牽制しておけば大丈夫か・・・」
思わずつぶやいた言葉に、躑躅が不思議そうな顔をする。
「何でもないよ。みんなにえりさんの自慢をできないのは寂しいけど。暫くは内緒にしておこうか」
そう答えると、躑躅がふわりと笑った。
焦がれて焦がれて、手に入れる事が出来た愛しい妻が、やっと腕の中に戻ってきた瞬間だった。