82 揺り籠
僕が意識を失ったのは、人の子の時間で言えば一年程だという。
目が覚めたと言う僕の様子を聞きつけ、高御産巣日神と神産巣日神がやってきた。
「其方が目覚めたと聞いてな」
高御産巣日神が、ぼんやりとする僕に声を掛ける。
「目覚めたばかり故、今日は顔を見に参っただけだ。ただ、いずれ其方かの口から先代と何があったのかを聞かねばならん」
高御産巣日神の言葉は聞こえるのに、その言葉はまるでただの音のように、するりするりと僕の意識に残らず、零れては消え行く。
その様子を見た神産巣日神が、小さくため息をつく。
さっきから二人が声を掛けているが、僕の中では「言葉」と認識されない。
まるで、頭の中に入るものを全て拒否するように。
「高御産巣日神よ、天之御中主神が目覚めたのであれば、また日を改めようぞ」
神産巣日神の言葉に、高御産巣日神が頷く。
横になる僕の傍から二人が立ち上がると、島に仕える神使が見送りの為、二人に付き添い、一緒に出ていく。
その様子も僕はただ、ぼんやりと見ているだけだった。
神の代替わり。
本来であれば、代替わりの時期までに先代の力が徐々に弱まり始めると、次代が生まれその力が徐々に移行していく。
完全に神としての力の移行が終わった時、天界の神々に知らせが届き、何処からともなく天界中に鐘の音が響くのだ。
そして、先代であったものは霧散する。
気がついたら「僕」はそこに居たんだ。
真っ暗な、星も月もない世界。
「僕」は岩のようなものの上に座り、膝を抱え俯いている。
それが一番最初の記憶だ。
どのぐらいそこに居たのだろう。
座り続ける「僕」の元にやってきたんだ。
「其方が『次代』か」
何処からともなく表れたその人は、「僕」を見下ろしながら言う。
「なんの事?」
「其方は、我の力を引き継ぐ為に生まれし者だ」
そういうと、その人は「僕」の頭を撫でる。
だけど「僕」にはわからない。だって気がついたら此処にいたんだから。
「天之御中主神として継ぐ者として、其方は生まれた。ただ、予想外の場所ではあるがな」
そう言うと、その人は真っ暗な世界を見回した。
「何もないだろう? 何もない、虚無の世界。ここはすべての始まりともいう、我の一部でもある場所だ」
「・・・『僕』はここで生まれたの?」
何となく口にした言葉に、口の端をあげて目の前の人が頷いた。
「よくわからないよ」
気がついたら此処にいて、一人でずっといたんだ。
「であろうな。我もなぜ、其方がここに生まれたのかわからぬ。其方は形は子供でも、生まれたばかりの赤子同然。我の力尽きるまで教えられることは教えよう」
そう言うと「僕」へと手を差し出す。
「僕」はその差し出された手と、その人の顔へと視線をゆるゆると動かす。
「本意ではないかもしれぬが、これは定めと考えよ」
「僕」は頷くとゆっくりと立ち上がり、その人の手を取る。
この暗い世界は、なんだか好きじゃない。
「僕」に差し出された手は、大きく、温かかった。
その手を取ってからも、よく覚えていない。
急に目の前が明るくなって、思わず目を反射的に瞑ってしまったから。
まぶしい光が落ち着くと、さっきの世界とは正反対の明るい光が広がる。
「ここが、これから其方が住まう事になる、天界の天之御中主神の島だ」
さっきの場所が漆黒の中だったけど、ここは光に溢れている。
初めて目にするものばかりだけど、なぜかそれが「何か」はわかる。
足の裏に触れている者が「地」。
心地よく「僕」の髪の間を抜けていくのが「風」。
ざわざわとその「風」が揺らしているものが「木」や「草」。
不思議に思って、繋いだ手の先に居るその人を見上げる。
「其方は生まれたばかりであっても、力の継承はされておるからな。我の記憶の中から呼び出しておるのだろう」
その言葉に、こくんと頷いて見せる。
チチッ! ピューィ!
甲高い音がして、「僕」は思わず身を竦める。
「あれはこの島に住まう鳥の鳴き声だ」
思わず腕にしがみついた事で、落ち着かせるように「僕」に説明してくれる。
「鳥」と言うものを理解していても、実際の鳴き声を聞くのは初めてだ。
「ああ、まずは皆に其方の存在を告げねばならぬな」
「ここで『僕』は、何をすればいいの?」
「それについてはこれから話そう。まずは我が『当代』の天之御中主神である。『次代』の天之御中主神よ」
その人は「僕」の視線まで腰をかがめると、そう呼んだ。
その後、「僕」はその人に抱き上げられ、別の場所へと連れていかれた。
「そうか。そこに居るのが『次代』か」
その場所で、銀の髪をした背の高い人が「僕」を見て言う。
「まだ、赤子のようだな」
銀の髪の人の隣で、髪を頭の高い位置で結った人が言う。
「生まれたばかりであるからな」
当代の天之御中主神と名乗ったこの人の背に、「僕」は隠れたままそっと顔を半分だけ出す。
はじめて会うこの人たちは、高御産巣日神と神産巣日神と名乗った。
どちらもこの天界に住まう神という。
「さて、『次代』よ。疲れたであろう。暫し眠れ」
そう言うと、その人は僕の額にそっと触れた。途端、「僕」の意識は深く暗闇の中に沈んでしまった。
「・・・些か、早計ではないか?あれでは、何もわからぬ状態ではないか」
眠りに落ちた「次代」をみた高御産巣日神が眉を顰めながら、天之御中主神へ言う。
「仕方あるまい、我の終わりは思っていた以上に早いかもしれぬ」
「それは・・・?」
淡々と言う、天之御中主神の声に神産巣日神が返すと、天之御中主神は膝にあった両手の平を見つめ、呟く。
「わからぬ。『次代』が生まれたのはつい三月前だ」
その言葉に、目の前の二人が驚いた表情をする。
「まて、本来の代替わりであれば、『次代』はまだゆりかごの中ではないか!」
高御産巣日神が、驚きの余り大きな声を出した。
普段、穏やかな高御産巣日神にしては珍しい事だ。
高御産巣日神の言う『ゆりかご』。
神の代替わりの際に、次代の神が生れ落ちると、ある程度の力の移行が進むまでは、蚕の繭のような中で過ごす。これが『ゆりかご』と呼ばれる。
代替わりは、今まで引き継いできた神の役目とその力、そしてある程度の「神としての記憶」も引き継ぐ。
これが「継承」と呼ばれるものだ。
それは、『ゆりかご』の中でゆっくりと引き継がれるのが通例、でどの神々も変わらない。
「それに、此度の『次代』は虚無の島で生まれた」
天之御中主神の言葉に、高御産巣日神と神産巣日神が息を呑む。
「次代」の神が新たに生まれる時は、天界にある「呱呱」と呼ばれる場所だ。
呱呱とは、その名の通り産声の事で、代々新たな神が生まれる場所だった。
「『呱呱』ではなく、虚無とは・・・」
「天之御中主神を引き継ぐものであれば、それもおかしくは無かろうが・・・」
高御産巣日神の言葉に、神産巣日神が答える。
「だが、今まで『虚無』で生まれた者など聞いた事などない」
「・・・天之御中主神、あの赤子は確かに『次代』で間違いないのだな?」
確認するように神産巣日神が問うと、天之御中主神が頷く。
「『次代』が生まれ出た時、代替わりの兆候が出たのだ。実際、『次代』に我の力は移動しておる」
その言葉に、皆が押し黙る。
「此度の代替わりは、我も分からぬ。が、『ゆりかご』を持たず生れ出た『次代』にも何か意味があるのだろうよ」
沈黙の中、天之御中主神が言う。
「どちらにせよ、生れ出た『次代』には我が『ゆりかご』の代わりとなるしかあるまい」
天之御中主神の言葉に、二人は顔を見合わせ溜息をついた。
その後、『次代』の天之御中主神については、次の神議で伝えると天之御中主神が言う。
今、育てている箱庭が順調である事、次の「鍵」についての選定も既に終えているというのが理由だった。
「急ぎ、神議を行う事でもあるまい」
天之御中主神が言う。
神議は何かあれば随時行うが、そうでなれば定期的に行うもののみだ。
「それに、『次代』について、暫し様子を見たいというのも我の中にもあるのだよ」
天之御中主神の言葉に暫し、高御産巣日神と神産巣日神は顔を見合わせ思案したが、最終的には天之御中主神の言葉に頷いた。