80 お菓子と微笑み
※月森拓視点です
衝動が抑えられず、思わず彼女の傷の上に貼ってあるテープへと唇を寄せる。
ほんの一瞬、触れるだけのもの。
そっと頬から離れると、躑躅は無意識に頬に触れると、まるで可愛い擬音が付きそうな勢いで頬を染めた。
「え、え?」
オロオロとする姿が、まるで小動物のようで可愛い。
怪我をしていなかったら、しっかりと抱きしめ、自分自身が安心する事が出来るのに。
そんな事を思って、彼女のくるくる変わる表情に思わず目を細める。
しっかりしているのに、どこか無防備で。
ついつい、過保護になってしまうのは仕方がないと思うんだ。
言葉にならないのか、可愛らしい口元をぱくぱくと動かしている彼女に、さっきサイドテーブルに置いた紙袋2つを手にし、彼女のベッド横に用意された椅子へ座る。
「そうだ。今日は皆からえりさんにって、預かりもの」
「?」
赤くなった頬の熱を、何とかしようと両手で抑えて俯きがちになっていた顔を、俺の言葉を聞いて素直にこちらへと向けてくれる。
「これは、COO室から。みんながえりさんは甘い物が好きだからって。焼き菓子みたいだよ」
そう言いながら渡した、一つ目の紙袋を彼女は素直に受け取る。中に入っている20cm四方の箱を取り出すと、躑躅の顔がぱぁっと華やいだ。
「ここのお菓子、好きだってきいたよ」
「はい」
今も昔も、彼女は甘いものを好む。
どれにしようかと悩む顔も、出されたものを口にする時も。
とても可愛い顔で微笑むので、見ている方も幸せになるし、ついその笑顔が見たくて、千年前は領地の特産であった、色んな花の蜜を藤原邸に持参して、最後には義理父上様に泣かれて、これ以上持ってこないようにと頼まれ事を思い出す。
ただ、躑躅の喜ぶ顔が見たいだけで、それが絹や玉であっても一緒だった。
幸い、当時は交易船も所有していたし、今も立場上、ある程度のものは手に入れる事が出来る。
彼女をどんな風に甘やかそうか。
そう考えるだけで、昔も今も心が浮足立つ。
はじめてみる珍しい物には目を丸くして驚き、興味で琥珀色の瞳をキラキラさせて。
自分が望んでいたものが届けられれば、それはそれは嬉しそうに微笑み、大切にしてくれる。
今、目の前の嬉しそうな彼女の顔を見ているだけでも飽きないな、なんて事を思う。
「あと、これは僕から。これは、出張のお土産」
そう言って、可愛らしい手提げ袋を彼女に渡す。
「え、あっ。ありがとうございます。中を見てもいいですか?」
「もちろん」
東京駅で、お土産を何にしようかと悩んで。いっその事、彼女の好みそうなものを片っ端から買ってもいいかな、とか考えていると、口に出す前に成瀬に止められた。
「わあ、可愛い!」
思っていた通りの表情と声を、躑躅は俺に見せてくれる。
外箱は小物入れになるような女性が好みそうな作りで、中身は彼女が好きといったベリー系や桃のドライフルーツが入った、一口大のキューブ型のパウンドケーキだ。
指に上手く力が入らないのか、開封に悪戦苦闘している躑躅から受け取り、難なく開けてまた彼女の手元に戻す。
「あ、ありがとうございま、うわぁ、甘い香り」
お礼を言いかけた躑躅は、手元の箱から香る、甘いフルーツのお菓子に意識が向いたようだ。
その表情を見ているだけで、自分の口元が自然と弧を描く。
「苺とラズベリー、ブルーベリー、桃・・・あと何だったかな? マンゴーとレーズンだったかな? 嫌いなものがあったらごめんね」
そう言うと、彼女は嬉しそうに微笑む。
「マンゴーもレーズンも好きです」
「折角だから、食べて感想貰えると嬉しいかな」
そう提案すると、彼女が目をキラキラとさせてこくんと頷く。
一瞬悩んだ彼女が手に取ったのは、白桃のケーキだった。
個別包装をはがして、取り出したパウンドケーキをぱくり、と彼女が口に入れる。
一口大となっていたが、一口よりも少し大きめだった為か、彼女の手元には食べかけのケーキが残っている。
もぐもぐと咀嚼してした躑躅が嬉しそうに笑い、こちらを見る。
うん、可愛い。
「美味しい?」
「美味しいです」
咀嚼し終えた彼女が、本当に幸せそうに笑うから。
彼女の手にあるケーキに顔を寄せ、そのままぱくりと残りを口に入れた。
ぺろり、と舌が彼女の指に触れたのは、気がつかない振りをする。
「——っ!」
躑躅の親指と人差し指の間にあった、桃のケーキの残りを黙って咀嚼する。
躑躅も一瞬何が起こったのかわからなかったんだろう。
驚きで声にならない声をあげ、目を丸くしているのをチラリと見たあと、体を起こす。
うん、ほんと可愛いなぁ。
「あ、本当だ。美味しいね。今度は桐生のお土産にしよう。あ、えりさん。口元にケーキがついてるよ?」
無防備に、ぽかんとこちらを見ている顔が本当に可愛くて。もうちょっと押してもいいのかな、なんて思ったりする。
「え、何処ですか?」
躑躅はその言葉に意識が戻ったようで、慌ててさっきまでケーキを持っていた指を口元に持って行こうとする。
さっきまでケーキ摘まんでいた指で拭ったら、また汚れるだろう?
「ああ、ダメだよ。ケーキを持っていた指で拭いちゃ」
そう言いながら、手首をそっと抑えると、躑躅が恥ずかしそうに「え、自分で」と言いかける。
昨日の初めての口づけは躑躅であって、躑躅でなかった。
躑躅の魂が入っているというだけで、どうしてこう全てが愛おしいのだろうと思う。
さっきは頬に触れるだけのものだったけど、そっと唇に触れたらどんな反応をするかな。
そんな悪戯めいた気持ちが湧いてくる。
コンコンッ!
大きく響いたドアの音に、躑躅の身体が驚きで大きく反応する。
二人同時に音の方を見ると、既に室内に入っている鷹田さんの呆れた視線があった。
「か、香澄ちゃん!」
途端、自分の置かれていた状況と、雰囲気に気がついたんだろう。躑躅が赤く染まった顔で、鷹田さんの名を呼ぶ。
「ごめんね、えり。一回ノックしたけど、聞こえなかったのか居ないのかと思って」
「あ、うん。気付かなくてごめんね」
そう言いながら、鷹田さんが躑躅のいるベッドまでやってくる。
「月森さん、お見舞いですか?」
「そう。みんなからの差し入れと、僕からの東京土産を渡したくて」
「そうなの、香澄ちゃん。拓さんからこのケーキ貰って・・・」
そこまで言いかけた躑躅は、またさっきの状況を思い出したのか、顔を赤くして俯く。
その様子が可愛くて、つい口の端が弧を描く。
「鷹田さんが来てくれたなら、僕は帰るよ」
そう言うと、俯いていた躑躅の顔が弾けるように上がり、視線が絡む。
ああ、はじめて俺を引き留めた、あの時もこんな表情だったな、と思い出し、心が愛おしさで満たされて行く。
「また明日。そうだね。この位の時間に来るよ」
そう言い、躑躅の髪を撫でる。
「折角のお菓子だから、鷹田さんと食べると良いよ」
「あ、それなら私、下のカフェでテイクアウトしてくる。えりはいつものティーオレで良い?」
「うん。香澄ちゃん、来てくれたばっかりなのに」
「お茶飲みながらの方がゆっくり話せるもん。ちょっと待っててね」
「じゃあ、えりさん。また明日ね」
鷹田さんと俺の言葉に、躑躅がこくんと頷いた。
病室のドアが閉まって、エレベーターホールまでくると、鷹田さんがくるりとこちらを向く。
「さっきの。えりは気がついてなかったけど、月森さんは私の事、気がついていましたよね?」
開口一番の彼女の言葉に、俺はにっこりと笑顔を見せる。
すると鷹田さんは疲れたようにはぁ、と、大きな溜息をついた。
「昨日、えりから月森さんとの事を聞きました」
「そうなんだ」
エレベーターの扉が開き、二人で乗り込む。
「昨日から思っていましたけど、月森さんってほんとーーうに、えりの事好きなんですね。それは良いですけど。ただ、あの子ああ見えて色恋に鈍いんですよね」
鷹田さんはエレベーターのボタンに、親の仇のような視線を向けて淡々とそう言う。
躑躅は昔からそうだ。人の心には俊敏に反応するのに、自分に向けられる好意には疎い。
「・・・一時的な、こっちにいる間の恋愛とか、遊びとか。そう言うのを警戒しているのなら違うよ」
鷹田さんがちらりとこっちに視線を走らせたあと、再びボタンへと視線を落とす。
「僕はえりさんを妻にするよ」
はっきりと口にすると、鷹田さんが「何言ってんだ、こいつ」的な視線を向けて来る。
「本気で考えて、その為に動いている。まだえりさんにはちゃんと返事は貰ってないけどね。でも全力で行くよ」
「月森さん、爽やかそうに見えて腹黒って言われませんか?」
「ふふふ、中々言うね」
丁度1階にエレベーターが到着し、二人で並んで歩く。
「私は別に、えりが泣かなかったらいいです」
「泣かせるつもりなんて全く無いよ」
土曜日の午後は診察も終了して、1階のロビーは会計待ちの人とお見舞いに来た人がパラパラといるぐらいで、閑散としている。
「私はえりの味方ですから」
足を止めた鷹田さんが、真っすぐに俺を見て言う。
「・・・君を選んで正解だな」
鷹田さんの言葉に、思わず笑みが漏れる。
「え?」
「2週間後、辞令が届くと思うけど。鷹田さんは7階総務になる」
「はい?」
「元々は、吉野由加里ではなく、君が選ばれていたんだ。だから本来の人事という事になる」
「あの?」
淡々と告げる俺の言葉に、鷹田さんは首を捻る。
「今回の事は、えりさんが気付かないまま心の傷を負っている可能性がある。例えば一人でのフロア移動。知らない男が背後に立つ事」
そう告げると、鷹田さんは察したのか目を瞠る。
「そう言った時に、えりさんを理解している君が傍に居てくれると助かる。COO室でも対応はするが、どうしても男だけではね」
言いたい事が分かったのだろう。鷹田さんがため息と共に頷いた。
「さっきも言ったけど、本来は君も7階に選ばれていた。誤解はしないで欲しい。実際今日こうやって話をしてわかったよ。会社として鷹田さんの能力は7階に必要だ」
月森拓ではなく、7階のCOOとしての顔で鷹田さんに伝えると、彼女が頭を下げた。
「ありがとうございます」
「一応、辞令が届くまでは、えりさんにも内緒でね。じゃあ、僕は車だから」
そう言い、手をあげパーキングの方向へと歩きはじめると、彼女もカフェへと足を進める。
さて。
明日の手土産は何にしよう。
昔も今も、躑躅のあの蕩ける様な笑顔が見られる事が、最上の幸せなのだから。
拓さんと香澄ちゃんは永遠のライバルです。