75 慕情と捕縄
―ああ、ふかふかで気持ちいいな・・・。
身体を包まれるような心地よさに、えりの意識がまた深い眠りに落ちそうになる。
さっきから深い眠りに落ちては、意識が引き戻され、またウトウトとする事を繰り返している。
―このまま寝ちゃいたいなぁ。
すう、と意識が深い眠りに落ちる中、えりは夢を見る。
ああ、小さな私が一目散に駆ける。
『ちちうえさまっ』
ぽすっと足に抱き着くと、優しい眼差しで見下ろしてくれるこの人は、私を愛しんでくれた父上様。
『わたくしの可愛い、躑躅の姫』
そう言いながら、優しく頭を撫でてくれるこの綺麗な女性は、溢れんばかりの愛情を注いでくれた常寧殿様。
『しっかりとした、姫様ですね』
向かい合う私に、優しく微笑んでくれるこの人は、私を教え導いてくれた浮島。
『頼ってくれていい、甘えてくれたらいい。俺達は姫さんの味方だ』
屈みこんで、私を優しく見つめてくれるこの人達は、大好きな御劔の皆。
声が、気持ちが、全てが温かく心地いい。
『はじめまして。姫君』
『生涯添い遂げる相手には、姫が良いと思ったのです』
私はこの声が大好きだった。いつも呼ぶときは目元を緩ませて、その声は甘く蕩けるように優しい。
『躑躅、あなたは私の唯一だ』
甘く優しい香りの中で囁かれる言葉は、私を幸せな気持ちにしてくれる。
『だから、もう一度。器だけではなく、全てをこの腕の中に。だから・・・』
先程まで苦しそうに、拓へと延ばされたえりの腕が力なく落ち、それと共にえりの身体もソファーに沈む。
伏せた顔には色はなく、琥珀色の瞳も再び閉じられた。
拓はゆっくりとえりを起こし、自分の胸へとその身体を預けるように抱きなおす。
「躑躅、戻ってきてくれ」
請うような声が、拓の口から零れた。
換心の術で、えりの体内に入り込んだ欣子となった吉野由加里の魂を払うには、拓の持つ術式をえりの中に入れる必要があった。
一般的には魂が抜け出た状態でも、完全に身体と魂を切り離してしまわない限りは戻る事は可能だ。
だが、えりは欣子による換心の術によって繋がりを切られてしまっている。迷子になってしまったえりの魂が、自分の身体を見つけ戻る事に、拓が手を貸す事は出来ない。
今のえりの身体は、誰も入っていない空っぽの状態だ。
えりの持つ『鍵』としての気だけではなく、この世に未練のある物は器としてえりの身体に入り込もうとする。
それを阻む為、拓は意識を集中する。
そしてもう一つ。
魂には、いくつもの輪廻を繰り返した『記憶』が記される。それらは『記憶の本』と呼ばれ、身体から離れる事で自分の記憶を読み、それを元に輪廻の輪に戻る。
魂は、次の輪廻の輪に入ると『記憶の本』については忘れてしまうが、大きな使命やお役目と呼ばれるものを担う者は、時としてその記憶を保ったままとなる事がある。
よく言う『前世の記憶』と言うものだ。
今のえりの『前世の記憶』は、敢えて封印されたもの。
それを思い出す事は、えり自身が『鍵』としての目覚めを意味する。
「だが、あの時のように何も知らないまま『鍵』とするつもりはない。未来を皆と作ろう」
祈るような気持で抱きしめている拓の腕の中で、えりが身動ぎをした。
「―ごほっ!」
えりの身体が、咽たように大きく咳をしたのを聞いて、拓がえりの身体が楽になるようにと傾け、抱え込んだ。
ごほっ、ごほっ!
何度も肺の中に入った悪い空気を吐き出すように、えりが大きな咳を繰り返す。
余程苦しいのか、無意識に拓の上着を握りしめ肩で息をし、咳を繰り返すのを見て、拓は詰めていた息を吐く。
自分の身体の中に、別の魂が入り込んでいたのだ。おまけに欣子の魂は根之堅洲國に染まっていたもの。悪しきものを身体から出す為の、ある意味正常な反応だった。
暫く苦しそうに咳を続けたえりが、少し落ち着いたのかゆっくりと顔をあげる。
まだ視点は定まらす、ぼんやりとはしているが、欣子が入り込んでいたのとは違う、拓が恋焦がれた琥珀の瞳がある。
「・・・月白様?」
えりの唇から無意識に零れたのは、あの時と同じ声音で紡がれた、懐かしい呼び名だった。
「く・・・っ、かはっ、何でっ・・・」
根之堅洲國に置かれた自分の身体の中に、強制的に魂を戻された欣子は、衝撃と息苦しさに胸を押さえる。
息を吸う度、ひゅうひゅうと気管支が嫌な音を鳴らす。
「あと少しだったのに・・・」
恨みがましく宙を見つめるが、欣子の身体は魂と馴染まず、思うように体が動かせない。
あと少し時間があれば換心の術は完成し、えりの身体と欣子の魂が同化するはずだった。
「もう一度、術を・・・」
まだえりの髪の毛はある。護摩壇の火が残っていればそれを使って再び術が掛けられる。少しすれば、魂もこの身体に馴染むだろうと考え、欣子は護摩壇へと這って進もうとした。
「よう。無事戻ったようだな」
うつ伏せになった背後から声が掛けられ、その聞き覚えのある声に欣子が目を見開く。
「あ・・・っ」
「空っぽやとこっちも手出しができひん」
欣子は上手く動かない身体を返し、声の方を向くと「ひいぃっ」と喉を鳴らす。
「姫さんの身体は居心地良かっただろう?」
「あたりまえや。内親王とは比べ物にならへん位、あの人は高貴や」
「う、煩い、煩い、煩い! わたくしのどこが劣るというのっ!」
自分よりもえりの方が高貴だと言われ、欣子が激しく叫ぶ。
「劣っているのを自覚してるから、換心の術なんて使ったんだろ? それに、あんたが姫さんになり替わろうとしても、旦那は中身があんたなら見向きもしないぜ」
「あの方が求めてるんは、どないな姿しとっても姫はんただ一人。あんたじゃ役不足や」
欣子が怒りで目を血走らせるのを、司波と久我が冷めた視線のまま告げ、その言葉は欣子の怒りと嫉妬の感情を煽る。
「あんな女に、私がっ!」
「あんたは本来、輪廻に居るべきではない魂だ。捕縛した後は『番人』に引き渡される。諦めろ」
欣子が叫ぶと同時に、司波が雷光を放ち、根之堅洲國に染まった欣子の魂を浮かび上がらせた。それを久我の銀糸が絡めとり、身体から切り離す。
次の瞬間、切り離された欣子の魂は、黒いぼこぼことした石へと変わった。
「迅雷っ!」
石となった欣子の魂を拾いに行こうと、司波が一歩足を踏み出そうとした時、久我の静止の声が掛かる。
シュッ! ザッ!
二人の背後から攻撃が放たれ、避けた二人の足元に亀裂が入る。ギリギリのタイミングで躱した二人が体制を立て直し、司波が相手へ雷を放つ。
ドオーン!
激しく泥が飛び散り、煙が上がるのを見て、二人が臨戦態勢を解いた。
「逃げたか」
「みたいやな。追わんでええやろ」
「どうでも、欣子内親王の魂が欲しいらしいな」
そう言いながら、二人が抜け殻となった吉野由加里の傍へと近づき、司波がその身体を担ぐ。
「あとは『番人』が何とかするだろ?」
そう言うと、二人は根之堅洲國を後にした。
「・・・月白様?」
懐かしい名を呼ばれた事で、拓の目が驚きの色を浮かる。
―大丈夫だ、まだ、躑躅の扉は開かれていない。
えりの瞳を見つめながら、拓はえりの頬についた切り傷を指でなぞる。
「・・・え、拓さん?」
ぼんやりとしていたえりの瞳が次第に焦点が合い、自分の目の前にいる人物が誰かわかったのだろう。拓の姿をとらえた琥珀色の瞳に、驚きを浮かべている。
上手く身体が動かないえりは、状況を確認するように忙しなく視線を動かす。
「あの・・・」
「迎えに来たんだ」
そう言うと、拓はふわりとえりの身体を抱きしめる。
「あ・・・」
抱きしめられた事で、強張っていたえりの身体から力が抜け、代わりに小さく震えはじめた。
「ごめん、遅くなった」
安心させるように、そっと抱きしめたまま、拓がえりの髪を撫でると、肩口に顔を埋めたえりの瞳から涙があふれる。
「ふっ・・っく、何が何だか分からなくて・・・、気がついたら此処にいてっ」
気が緩んだのか、抱きしめられたままえりがぽろぽろと涙を零す。
「うん、ごめん。怖かったよね。もう大丈夫」
「・・・はい」
「どこか痛い所や怪我はない?」
えりの身体を拘束していた腕を緩め、拓がえりの顔を覗き込んだ。
肩や腕、足が鈍く痛む事、重く何かに押さえつけられるような、動けない状態だったせいかもしれないと、えりは素直に拓に伝える。
「わかった。取り敢えず病院へ行こう」
ふわりとえりを横抱きに抱き上げた拓が、そのままえりに顔を寄せる。
「本当に心配した。まずはちゃんと安心させてほしい」
請うような拓の視線に、えりが泣いて赤くなった目を瞬かせて、小さく頷いた。
「あの、ここは・・・?」
「吉野議員所有の別荘だよ。えりさんは吉野由加里の指示を受けた男に、社内からここまで連れて来られたんだ。詳しくはちゃんと話すよ。まずは休もう」
そう言うと、拓がえりの額に唇を寄せる。
触れていたのは、ほんの数秒間。
拓がそっと唇を話すと、えりは安心した顔で眠りに落ちていた。
「残念。『鍵』のお姫様は完全には目覚めなかったか」
そう呟き、初鷹は別荘から視線を外すと、その地面を勢いよく蹴る。
スーツの内ポケットには、先程、迅雷たちからかすめ取った、石となった欣子内親王の魂が入っている。
うっそうとした木立の中を風切るように地を蹴り、駆け抜けていた初鷹はある気配を感じ、足を止めた。
ザッという草を踏む音と共に現れた、ダークカラーのローブを身に纏った五つの人影に、初鷹が口の端をあげ弧を描く。
「へぇ。あなた達『番人』が動くとは。あの方が言うように、『審判の日』が近いという事かな?」
「欣子内親王の魂は、中央管理となる為、回収する」
先頭に立つ、華奢な体躯を持つ人物が淡々と初鷹へと告げ、右手を振り下ろした。鈍色の光の輪が初鷹へと飛び、初鷹が避けるために身を躱し、数メートル後ろへと後退した。
「捕縄の術。番人筆頭まで出て来るなんてね。・・・ワクワクするじゃないですか」
にやりと笑う初鷹の視線の先には、フードが背中へと落ち、黒髪を無造作に束ねた遠野の顔が現れた。
「根之堅洲國、初鷹には確認したい事がある。大人しく縛につけ」
「そう言われて、はいわかりました、なんて答えられないな」
遠野の言葉にそう答えると、初鷹が鎌風を放ち、地を蹴る。
「根之堅洲國、初鷹を捕縛せよ! ただし、我らの最重要は欣子内親王の御霊!」
遠野の左側に居た男が剣で鎌風を弾くと、同時に遠野が指示を出し、残りの三人が初鷹を追った。