74 継ぎ接ぎの魂
薄暗く照らされる奥へと、月森拓はゆっくりと歩みを進め、一番奥の部屋へとたどり着く。
カツンー。
開け放たれた入口へと、一歩踏み入れると、靴底がひと際高い音を響かせる。
ぎりぎりまで落とされた間接照明の灯が、薄暗く室内を照らす。
ゆっくりと周りを見回すと、廊下やロビーとは違いこの地下室には変化がない。
「ワインセラーか」
壁の棚に並べられた大量のワインを見て、拓が呟く。
視線を動かすと少し奥にソファーが見え、そのソファー近くの床にはパンプスが片方だけ、転がっているのが目に入った。
「ーっ!」
先程の慎重さが一瞬で拓から消え、何かに背中を押されるようにソファーへと向かうと、視界に入ってきたのは、横たわるえりの姿があった。
ソファーの傍で片膝をつき、ゆっくりと、えりの喉へと手を伸ばす。
指先に伝わってくるのはえりの温かい体温で、息を詰めていた拓はほっとその息を吐いた。
仄暗い中でもえりの顔は青白く、頬にかかる髪の一部が、口の高さでざっくりと一掴み程切られている。
その切られた髪をそっと払うと、えりの白い頬に赤い筋がうっすらと3cm程ついていた。
それを見つけた拓の目が、すっと細められ、ゆっくりとその赤い筋を拓の指がなぞる。
ふるり。
閉じられたえりの長いまつ毛が微かに震えた。
「躑躅・・・」
囁くように、拓がえりの頬に手を添え、かつてのえりの名を呼ぶ。
「躑躅・・・」
もう一度呼ぶと、その拓の声に反応するように、閉じられたえりの瞼がゆっくりと開いた。
吉野の屋敷に入った久我一騎と司波稜悟の二人は、自分たちに攻撃を仕掛けてくる黒い異形たちを払いながら発生源を探す。
屋敷に入った途端、強い死臭とカビ臭さを感じるが、その匂いは異形へと変化した『そのものとも無し輩』達だ。
これらを呼び出す場所はある筈だと二人は考え、匂いが強くなる場所を探す。
「まるでホラーのセットだな」
屋敷の中が、呪詛の影響を受けた為か、一般的な建物の様子ではなくなっているのを見て、司波が呟く。
黒の異形たちの為か、建物のあちこちが腐敗し、朽ちた状態だ。
元々大きな別荘だと思うが、空間が歪められているのか、ホールや階段、廊下などが異様に長く感じる。
「なんとまあ、ここまでよう繋がったもんやな」
襲ってくる異形を銀糸を使い、攻撃を繰り返す久我が言う。
この状況からして、吉野由加里は再び、呪詛によって根之堅洲國と繋がったのだろう。
足を進めるにつれ、足元の黒いタールのようなものの粘度が増え纏わりつき、それは影の異形同じく異臭を放つ。
根之堅洲國は光の届かない、穢れが溜まる世界だ。
天界に神々がいる様に、根之堅洲國にも穢れに身を落とし、それが心地よくなってしまった者達がいる。
その者達が根之堅洲國を支配し、そこに住まう『そのものとも無し輩』と呼ばれる者達は、葦原中つ国と呼ばれる人の世界に住まう者達を惑わし、食らう。
時にはその爪と牙を天界にも向け、神々の地を根之堅洲國にと狙う者達も居る。
その者達にとって、宇宙を左右する『鍵』である咲子であり、現世でのえりは、どうしても手に入れたい存在だろう。
思惑が千年前の「平安の大戦」へと繋がり、結果、咲子は命を落とす事となる。
その全ての切っ掛けとなったのが、欣子内親王の呪詛だった。
「二度とあんな思いは御免、だっ!」
パリパリという紫電を纏った司波が、襲い掛かる異形たちに一撃を放つ。
「そら同感や!」
「今回はあの時のような手落ちはしない、俺達も旦那もだ!」
攻撃をかわし、階段を登り切った先の、正面にある扉に向かって司波が閃光を放つ。
ドォン!
爆音が響くが、ドアを壊すことなく司波の放った閃光は、べっとりと、まるで目張りを張ったようにドアに纏わりついていた『そのものとも無し輩』のみを攻撃する。
パリパリッという雷の高い音と共に、張り付いていた黒い塊が床へとぽろぽろと落ちていく。
それを気にする事もなく、司波がドアを蹴り上げると、残りの黒い異形の残りがベリッという耳触りの悪い音を立てた。
ぶわっと中で溜まっていた異臭が二人を襲い、思わず顔を顰める。
部屋の中をぐるりと見まわすが、吉野の姿はどこにもないが、二人が部屋に入った事で、大量の靄が異形の形へと変わり始め、攻撃を始める。
「どっかに異界と繋がる場所がある筈や!」
「ちっ、また一発あげるか」
視界の悪い室内を一掃しようかと、司波が手の中に雷を纏った光の球を浮かべ、言う。
「ちょい、待てぇ」
それを久我が司波の行動を止めるように右手で静止の合図を出した。
「なーんか、なんか引っかかるんや」
そう言うと、久我がすぅ、と、目を細める。
闇が強い空間では、その属性を持つ久我の方が目が利く。
それを見た司波が、放ちかけた球を浮かべたまま、久我の合図を待つ。
「天界の方々には、根之堅洲國へと繋がる道はわかりませんか」
異形たちの攻撃が止まったかと思うと、くすくすと笑みを含んだ声が部屋の中に響いた。
「まあ、本来なら黄泉比良坂を通らないと行けない場所ですからね」
声の主が初鷹だと分かった二人が、姿を探すが部屋の中には靄と異形だけだ。
どこから攻撃があるのか。
そう考えた二人は、神経を研ぎ澄ませ、攻撃に備える。
「そんなに警戒しないでください。ヒントを、と思っただけですよ」
「ヒントねぇ、それ信用しろって言うのもどうやで」
姿の見えない初鷹の言葉に、久我が答える。
「まあ、信じるのも信じないのもご自由に。あの時も今も内親王様は現実を受け入れられずにいる。だからこそ、現実であって現実でない場所を、自分の願いを叶える為の道とした、ってところでしょうか。・・・無事、姫君を取り戻せると良いですね」
「なぜ、俺達に教える?」
「ある方に頼まれたんですよ。『どうせなら、今世でも楽しませて欲しい』と」
そう言うと、初鷹の気配が再び消えた。
「くそっ!」
「やっぱし根之堅洲國だけちゃうって事か・・・。迅雷、そっちは後回しや。先に姫はんの呪詛を解く為に内親王や!」
「ああ、あいつは『現実であって現実でない場所』と言った、何を指す・・・」
二人がぐるりと部屋を見回す。
ここに初鷹が現れたという事は、道がここにあるのは間違いないのだろう。
次の瞬間、二人の視線がある物に留まる。
「「鏡か!」」
声が重なると同時に、二人は躊躇いなく鏡へと向かい、一瞬早かった久我の指先が鏡に触れようとすると、水に手を付けるように吸い込まれた。
それを見た二人が視線を合わせ頷くと、久我がそのままするりと鏡の中へと身体を滑り込ませ、それに司波も続く。
通り抜けるのはほんの一瞬で、一歩進んだ先は、今し方まで居た吉野の別荘ではなく、どろりとしたものと岩肌だけが広がる空間だった。
「宵闇っ!」
続いて通り抜けた司波が何かを見つけ、久我を呼ぶと同時に走り出した。
向かう先には漆黒の護摩壇があり、その前には色鮮やかな袿を纏った吉野由加里が倒れている。
吉野の傍に駆け寄った司波が、膝をつき吉野の鼓動を喉元で確認する。
「迅雷、これ見ぃ」
低い声で呼ばれ、司波が立ち上がり久我の傍へと行くと、護摩壇の前に置かれた二台の三方へと視線を向け、瞠る。
「換心の呪詛かっ!」
「・・・とんでもない事やってくれたやんか」
「そうなると、今、旦那の傍に居るのは姫さんであって姫さんじゃない!」
「躑躅・・・」
拓の声に、閉じられたえりの瞳がゆっくりと開いていく。
その瞳がしっかりと拓を捕らえた瞬間、えりの手が伸び拓の胸元へと縋った。
「私の為に来てくれたんですね」
そう言うと、琥珀色の大きな瞳からぽろぽろと涙を零しながら、拓の瞳を見つめる。
「嬉しい・・・」
そう呟くと、もう一度拓の腕の中へと身体を預けようと寄りかかり、拓がそれを受け止める。
「怪我はないようですね」
「ええ、大丈夫」
嬉しそうに腕の中で、えりか頷くのが伝わり、受け止めた拓の腕に力が籠る。
「無事で良かった」
「来てくれて嬉しい」
溜息と共にそう呟いた拓に、えりが身体を離し微笑む。
えりがそっと顔を近づけると、自然に二人の唇が重なった。
長い時間、何度も角度を変え口づけられ、次第にえりの身体から力が抜けていく。
「拓さん・・・」
漸く開放されたえりが目元を染め、拓を見上げた。
「・・・愛してもいない女から名を呼ばれても、これほど心が動かないとは」
冷笑を浮かべた拓の言葉に、えりの瞳に驚きの色が浮かんだ。
「愛していない、なんて・・・」
「そう、俺は貴女を愛してはいない」
冷たく響く声に、えりが呆然と縋っていた身体を離す。
「そんなっ、」
「あなたは俺の躑躅ではない。躑躅を返していただこうか。欣子内親王」
拓の言葉を聞いたえりが、怒りの表情を浮かべ、拓を睨みつける。
「それは出来ないわ」
そう返す言葉を発したえりは、禍々しい程の妖艶な笑みを浮かべた。
「折角、月白様の好みの身体に移ったのだもの。そうね、こんな平凡な容姿は気に入らないけど、月白様はお好きなのでしょう? それに、私がこの身体に入っている限りあの女は戻れない」
えりの声で、甘えるように首を傾げ微笑む。だが、そこには本来のえりの放つ愛らしさや温かさはない。
妖艶で媚びる様な視線のまま、拓を見つめるえりの姿に拓の口元がふっ、と緩む。
「なるほど」
「この女を選ぶのであれば、中身が私になればいいだけ。あの時はあの女を殺してしまえばと思ったけど、失敗した。だから今度はわたくしがこの女の中に入ればいい、そうでしょう?」
そう言いながら、えりが甘えるように拓の首に腕を回す。
「器だけなら必要はない」
「!!」
「俺が求めるのは、躑躅を作る全てのものだけですよ」
その言葉に、えりの琥珀色の瞳が驚愕の色に染まる。
「今だって、わたくしに口づけをっ」
「別の魂が宿っているなら、中から追い出すまで。あくまでもその身体は躑躅のもの」
そう言いながら、拓が冷たい笑みを浮かべる。
「換心の呪詛とは考えましたが、俺が気づかないと思われていたのなら、心外だな」
「・・・いつからっ」
「最初からですよ。だから貴女を躑躅の身体から追い出す為に口づけた。あの吐息には、祓いの術が言霊として織り込んである。躑躅には少々辛いかもしれないが」
そう拓が言うと同時に、えりの身体が大きく跳ね、胸元を押さえ屈みこんだ。
「くっ・・・! はぁ・・・」
えりの普段は愛らしい表情が苦悶で歪み、浅い呼吸を繰り返す。
「いや、はあ・・・っ・・・くっ・・・」
呼吸が出来ないのか、苦しそうな声がえりの唇から零れ、助けを求めるように腕を伸ばすのを、拓はただ見つめていた。