64 天と地(3)
二日後、宜陽殿の左近衛陣座にて僉議が行われる。
先に他の公卿達と同じく東宮が座についた所で、帝の到着が知らされた。
皆が頭を下げる中、帝、中宮、承香殿の女御、欣子内親王と座につくと、僉議が始まる。
「して、此度の僉議とは? しかも承香殿の女御と内親王も同席しておるが、内容は普段の僉議と変わらぬではないか」
急な僉議の知らせではあったが、始まってから今の時分までの内容は、普段の僉議と変わらない為、帝が東宮へ問う。
「ええ。ここまでは。まずは本来やるべき事を済ませてからと思いまして。ここからは、以前より先延ばしとされております、斎宮の裁定についてでございます」
東宮の言葉に、帝が微かに目を瞠ったのに気がついたが、東宮は穏やかに微笑み、言葉を続ける。
「裁定が出てから、随分と時間がたっておりますれば、このまま先延ばしにする訳にも行かぬでしょう。ですから、承香殿の女御と欣子内親王も同席をお願いしたのです」
東宮の続く言葉に、控えた公卿たちの空気がざわりと揺れる。
欣子が斎宮にと裁定されたのは、帝の指示で一部の者にしか知らせていない事だ。
「既に欣子内親王で決定しているのに、一向に公卿以下に通達もなく、初斎院での潔斎の準備もない。一体どういうことなのでしょうか?」
「・・・なぜ、其方がその事を」
「知っているのか、というのであれば当たり前ではないですか。この件に関しても相談が来ているのですよ。何よりも大事な事柄なのに、帝からは一向に知らせがない、どうしたらよいのかと」
そう言うと、東宮はちらりと帝の後ろに控える圭子と欣子へと視線を向ける。
二人は微かに強張った表情を浮かべてはいるが、その視線は真っすぐ東宮に向けられ、なぜここでそのような話が出るのだと言わんばかりだった。
「さて。何故なのでしょうか? 裁定が降りたのはひと月以上も前の事」
「それは・・・」
東宮の問いに帝が言葉に詰まる。
斎宮とは帝に代わって伊勢神宮の天照大神に仕え、人と神との架け橋として国の安寧と繁栄を願い、神への祈りを捧げる日々を送るという、未婚の内親王にしかできない役職だ。
斎宮の裁定が降りれば、直ぐに準備を整え初斎院での潔斎を行い、次に野宮に入る事が通例となっている。
野宮とは斎戒生活を送りながら、翌年の長月まで伊勢下向に備えて過ごす場所で、斎宮一代で取り壊される場所だ。
「・・・恐れながら、欣子には婚姻の話が出ておりますれば、斎宮にはなれぬかと」
帝に代わって口を開いたのは、圭子だ。
「そのような話ははじめて聞きました」
東宮が白々しく驚いた顔をしながら答えると、圭子は鷹揚に頷く。
「そちらに控えている、月白殿との婚姻です」
「それにしてはおかしな。私が聞いたのは既に月影の当主殿は内儀を決定され、帝への報告も済んでいる筈。そうではないかな、源殿」
東宮より言葉を向けられた源昭仁は、深く一礼をする。
「はい。ひと月ほど前、拝謁した折に帝へのご報告は済んでおります」
「おお、お相手は目付殿の姫とか」
昭仁の言葉に右大臣が答えると、昭仁が笑みを返す。
「なぜ、今そんな事を話すのですかっ」
その空気を割くように、圭子の声が響く。
「それに、今日の集まりは、月影の家と欣子の婚儀についてではないのですか?!」
「・・・確かに、その件も含めてと考えてはおりますよ」
東宮の言葉に、圭子がほっと息をつく。
「では、欣子と源家との婚姻を進めてくださるのですね?」
「いいえ」
圭子の言葉に答えたのは昭仁だった。
「我が妻となる者は、躑躅ただ一人でございます故」
「どうしてっ!」
淡々と告げる声に、反射的に叫んだのは欣子だった。
「また、あの女子が月白様に我儘を申したのでしょう、そうに決まっています。あれだけあの女子に言い含めたのに・・・っ」
「さて、言い含めたとは。当主である私に通さずに我が妻へとそのような話をされては困ります」
「だって、だって」
次の言葉が口から出ないのか、欣子が幼子のように首を振りながら同じ言葉を繰り返す。
「それに、私は早くから欣子内親王様との縁談をいただいた際に、当時の当主である祖父倖仁と共にお断りした筈でございます」
「それは幼き頃の事でしょう? 今、其方が家を継いだからこそ、皇族との結びつきは大切でしょう?」
「結びつきなど私にとっては重要ではないのですよ。既に我が源家は皇族や都の人々を守る為に、遥か太古から契約をしている。私が一番あなた方に問いたい事は、欣子内親王様が、我が妻となる躑躅に行った事についてだ」
一瞬、昭仁の言葉と同時に周りの温度が下がったような感覚になり、周りの公卿達がぶるりと身震いをする。
「源殿の言う通りですよ、帝。欣子は事もあろうか、内裏に来ていた躑躅の姫に対して『自分が正室になるから側室として弁えろ』と告げたのです」
東宮の言葉に帝と、隣に座る中宮が驚きで目を瞠る。また同時に、左近衛陣座に集まる公卿達も息をのむ。
しん、と静まり返った左近衛陣座内に、すすり泣く欣子の声が響いた。
「・・・だって、だって、仕方ないじゃない。・・・あの女子がいるからわたくしは嫁げないのでしょう?! わたくしはあの女子に寛大な言葉をかけたわ! 側室でなら居てもいいと! 大体、たかだか目付の娘の分際で、月影の当主の妻なんておかしいじゃない!」
欣子のすすり泣く声が、次第に怒声へと変わっていく。
「そうです! 身分を考えれば、また今後の後ろ盾を考えれば、欣子を選ぶ事はあっても、目付の娘など、」
「ああ、あなた達は大きな勘違いをしている」
感情的に声をあげる圭子と欣子に、東宮が溜息と共に冷めた視線を二人へと送る。
「我らが月影の後ろ盾になるのではない、月影の家が、皇族や貴族たちの後ろ盾となるんですよ」
東宮の言葉が冷たく響き、左近衛陣座に沈黙が降りた。
「・・・ここまで愚かとは。やはり帝や承香殿の女御殿が否と申しても、無理にでもわたくしの元で教育を受けさせるべきでした」
今までのやり取りを黙って聞いていた中宮が言う。
「皇族としての務めが何たるかも、斎宮の地位の重要性も分からず、月影の家の本質も知らずとは・・・。皇族と名乗るにはあまりにも嘆かわしい」
「中宮様に! 何が分かると・・・っ」
「贅沢をし、思うように、好き勝手振舞う事が皇族ではありません。ただ、今回の事は承香殿の女御だけの責任ではなく、二人に甘い帝にも責任がある事でしょう」
呆れたような視線を、中宮が帝に向ける。
「父上様、わたくしは斎宮などなりたくない! 月影の家へ嫁ぎたいのです。皆から傅かれ敬われる地位こそふさわしいのです」
「そうです、欣子の相応しい家は月影以外にはないと、帝も申されたではありませんか」
はらはらと涙を零す二人を、帝は痛ましい表情で見つめると、昭仁へと視線を送る。
「・・・何とかならぬのか。ここまで二人が申しておる・・・。やはり目付の娘は側室として」
「まだそのような事をっ!」
一瞬昭仁との視線が交わった後、視線を彷徨わせながら言う帝に、中宮が一喝する。
「・・・わかりました」
昭仁の口から出た了承の言葉に、帝が昭仁へ顔を向け、欣子と圭子は先程まで涙を流していた瞳に期待の色を浮かべる。
「そうか、了承してくれるか」
帝の期待がこもった言葉に、昭仁が微笑む。
「私共月影の家は、地位を返上して領地に向かうとしましょう」
「なっ!」
予想もしていなかった昭仁の言葉に、帝が驚きの声を上げた。
「源殿、それは・・・」
慌てた左大臣が、思わずといった様子で言葉をかける。
「ええ、都に居てもこのような事に振り回されるのであれば、地位も返上し月影一族と躑躅の身内を連れて、吉備に籠るのも良いかと」
昭仁が微笑みながら言うと、公卿たちが慌てふためき、その様子を眺めていた東宮がやれやれといった表情を浮かべた。
此処にいる者たちは、帝と圭子、欣子を除いた全員が月影の家の価値を理解しているのだ。
吉備に籠られては、誰が都を守ってくれるというのだと焦る。
「いや、それは、源殿」
「どうか、考え直していただけないだろうか」
口々に慌てた公卿達の言葉を聞きながら、昭仁は涼しい顔を崩さない。
領地に行ったとしても金銭的には困る事もなく、愛しい咲子と一族と、咲子の身内とでのんびりと過ごせるのだ。
代々から続く契約があって都に留まってはいるが、帝がその契約を反故にするのであれば留まる理由もない。
昭仁にすればもっと簡単で、都に留まる理由は咲子の存在だけだ。
「領地にというのも悪くはないけど、いずれ私が帝となったら戻ってきてくれるんだよね?」
「・・・考えておきますよ」
冗談めかして東宮がそう言うと、昭仁がさらりと答える。
それを聞いている公卿たちが青ざめた。
ざわざわと座が騒がしくなる中、此度の元凶となる三人は呆然としたままだった。
「さて、帝に決断していただきとうございます。今回の内親王が行った事は、源家への愚弄に当たり許される事ではありません。それを償うという意味も含めて、斎宮として欣子内親王が務めを果たすというのが、一番丸く収まるかと。どうだい? 源殿?」
「・・・東宮様がそう仰られるならば、こちらも引きましょう。ただし、女御様、内親王様は月影の家及び、我が妻への関りはお控えいただきますように。躑躅が負った傷を思えばこの程度で済んだとお考え下さい」
そう告げる昭仁の表情は、何の感情もない。
「帝・・・」
「・・・父上様」
圭子と欣子が縋るように帝を見つめる。
「・・・では、ここに勅使を」
長い沈黙のあとに出た帝の言葉は、二人が願うものとは正反対のものだった。
●初斎院から野宮、伊勢へ行くまでは本来長い時間を要します。
初斎院→1年間斎戒生活を送る(短くなる場合もある)。
野宮→初斎院での潔斎の後、翌年8月上旬に入る。
伊勢下向→野宮で1年間の潔斎の後、翌年の9月。
因みに、欣子内親王は斎宮を慎ましい生活と言っていますが、都に居るのと変わらない、豪華な生活をしていたようです。