63 天と地(2)
藤原咲子と思いが通じ合った翌日、源昭仁は朝一で文を梨壺へ送り、東宮を訪ねる。
「急の願いをお聞き届けいただき、ありがとうございます」
母屋のいつもの室に通された昭仁は、まずは東宮に礼を言う。
「それは構わないよ。また末姫が君達に迷惑をかけてしまったようだね」
「私に対しては何とも。ただ、躑躅を傷つけた事には償いを『月影の当主」として望みます」
瞳に冷たい光を宿した昭仁を見て、東宮は溜息をつく。
「躑躅の姫に『自分が正室になるから側室として弁えろ』と言ったらしいね」
溜息と共に出た言葉に、昭仁は付け足す。
「それに加え、私が躑躅の所へ行った時は自分の香を焚けと、こちらを渡しました」
昭仁が取り出した小箱は、昨夜、咲子から預かったものだ。
小箱から微かに香る、甘松と麝香を合わせた濃厚な香りに、欣子の愛用している香だと東宮は気付く。
釣殿での逢瀬で初めて咲子の気持ちを伝えられ、昭仁は甘い幸せに浸っていたかったが、月も高くなり、いつまでも釣殿に居る事も憚られる。
迅雷からある程度の事は聞いていたが、欣子から渡された小箱を、いつまでも咲子の手元に置いておきたくないと思う昭仁は、その日の出来事を咲子から聞き出し、欣子からの香を回収する。
「香を預かりたい」と言った時、一瞬咲子の顔が悲しそうに曇ったが「この香は必要ありません」という昭仁の言葉に、安心したように咲子の表情が緩む。
その表情を見た昭仁は、悪意を向けた欣子に対して怒りが湧き、その怒りの熱は今も続く。
「内親王様は、月影の家の当主が選んだ妻の重要性をご存じないようだ」
皮肉の籠った言葉に、東宮が深く息を吐く。
自分は内親王で、皆が自分に傅き、求める事が当たり前と圭子に教え込まれている欣子は、いくら家庭教師が皇族としての務めや、立ち振る舞いを教えても真剣に聞き入れた事がない。
また、父親である帝が甘い為、大抵の我儘が通っていた事も、欣子の性格をあのようにしてしまったのだろうと東宮は思う。
幼い頃、余りに他の内親王に比べ幼く、思慮の浅い欣子を心配した中宮が、手元で教育をすると言っても、母である圭子が頑として譲らずここまで来た。
それに加え、何かあれば家庭教師だけではなく、中宮や東宮が言い聞かせようとしても、帝の「そう厳しく申すな」の一言で終わってしまうのだ。
皇族に連なりながらも、独自の地位を持つ源家。
彼ら一族がいなければ、皇族や上位貴族は魑魅魍魎や怨念の類から身を守ることはできない。
その特殊性を、ただの地位や財力だけしか見ていない圭子と欣子には、格下の藤原家から咲子が嫁ぐ事が許せないのだろう。
『側室云々』を出した事も、源家の存在を正しく知っていれば口にできない言葉だ。
当主となった者はただ一人だけを愛し、側室を持つ事はない。これは歴代の源家当主全てが当て嵌まり、例外はない。
なぜなら、その存在があるからこそ、想像を絶する重い務めを背負う事が出来るのだと、皇族は幼い頃から教えられるのだ。
自分達を守る存在に対し、ぞんざいに扱う事はしてはならぬと。
「此度の事は世間知らずな末姫もだが、末姫と承香殿の女御殿に甘すぎる帝にも原因がある。皇族が敬意を払うべき月影の当主の内儀に行った事、それなりの責任を負って貰おうと考えている」
そう言うと、東宮は一枚の文を昭仁へと渡す。
「私が主となって公卿僉議を行おう。ああ、月白殿にはまだ話していなかったかな? 実は、末姫にはそこにあるように、斎宮の裁定が降りている。だが、本人と承香殿の女御殿が首を縦に振らない。斎宮のような慎ましやかな暮らしは嫌だそうだ。おまけに肝心の帝も二人には強く言えない状況だ」
確かに斎宮となれば、今の生活と比べれば慎ましいものになるだろう。
だが、他の内親王のような生活であれば、斎宮になったとしても外出の制限や祈り等、神への奉仕での拘束はあっても、衣食住に関してはさして変わらない。
「卜定で選ばれたものを拒否するとは、神の意志を否定するも同じ。自身が皇族である自覚がないのでしょう」
冷たく容赦ない昭仁の言葉に、東宮は苦笑いを浮かべる。
そう、余りにも自覚がなく幼い。
「裳着も済ませたというのに、いつまでも子供のままだ。その割に嫁ぎ先は拘る」
東宮から見れば、圭子は権力と財に執着があり、その考えを欣子は受け継いでいる。それだけであれば、別に月影の家にここまで拘る必要はない。
それなりの地位と財力を持つ家の、年頃の男子は他にも居るのだ。
ただ、斎宮を拒むだけであれば、その程度の貴族令息で十分だと東宮は考える。
「私としては、あの二人がここまで月白殿に拘る理由が分からなくてね」
そう言い、東宮が手にした扇をぱちんと鳴らす。
「二人が利に思うだけの理由だけではないと思うんだ」
「・・・兄上はあの二人の後ろに、誰か源家を自由にしたい者がいるとお考えなのですね」
東宮が頷くと、昭仁が呆れたような溜息をつく。
確かに月影の家との縁を結べば、その貴族は安泰だ。まだ年若い昭仁を、義父として意のままに操れると考える者も居るだろう。
貴族の中で、誰よりも尊重されなければならない存在を、蔑ろにすればどうなるのか。
ぬるま湯に浸かった者達は、自分の権力と財を集める事にばかり意識を向け、利を得るための対価までは思い至らないのかもしれない。
「今回、末姫が『月影の家の内儀』に対して行った無礼を考えれば、裁定を受けざる得ないだろう。二人が拒否をしても、今回の事が公になれば、帝もいつもの調子で流す事は出来ない。・・・まあ、そこまで痴れ者だと私も思いたくはないけどね」
せめて、最低限の帝としての役目は全うして欲しいものだと東宮は思う。
「私もね、躑躅の姫は可愛いんだよ、半分血が繋がっている末姫よりも。ああ、そうだ。躑躅の姫は暫く内裏に呼ばぬよう暁子に伝えておくよ。その末姫の香も一緒に預かろう」
そう言い終わると、東宮は昭仁へ普段の穏やかな微笑みを向ける。
昨日の出来事を把握し、既にその為の策を講じる手腕に、つくづく見た目の穏やかさに騙されてはいけない人だと昭仁は思う。
「・・・兄上が、私の考えを汲んでいただける方で良かったです」
「そう言って貰えると嬉しいよ。・・・先の帝のように、倖仁殿との縁を作る事が出来ていたのであれば、帝も違ったのかもしれないね」
今の帝は承香殿の女御を唯一と思い、寵愛を注ぎ続けた結果、帝の耳の痛い事を言う者たちは遠ざけられ、甘言を囁く者たちが残っている状態だ。
東宮の願いも空しく、昭仁の祖父の倖仁との縁があっても承香殿の女御の存在がある限り、いずれは距離は出来てしまっていただろう。
そう思いながらも、その言葉を昭仁は飲み込む。
「ああ、そうだ。さっきから気になっていたんだけど」
「なんでしょう?」
「いつから躑躅の姫の事を『躑躅』と呼ぶようになったんだい?」
東宮の問いに、昭仁が艶やかな笑みを浮かべる。
「教えませんよ。私だけの呼び名を貰った、大切な思い出ですから」
瞳を伏せ、先程までの雰囲気とは違い、幸せそうな笑顔を浮かべる昭仁に、東宮は軽く目を瞠る。
そう、昭仁にとって咲子は弱点ではなく、触れてはいけない逆鱗だ。
一体どれだけの皇族や貴族達が、それに気がついているのだろうな、と、昭仁を見ながら東宮は微笑んだ。
東宮と昭仁の面会の日から三日後、公卿達に僉議の知らせが届く。
日時は明後日、宜陽殿の左近衛陣座にて朝議も兼ねて行うという。
普段であれば、朝議は大臣以下の公卿と、四位の参議以上の議政官で行うが、此度は東宮の名で帝、中宮、そして承香殿の女御、欣子内親王も参加するようにとあった。
「母上様、わたくし達も参加とは、一体何をお話されるのでしょうか?」
承香殿の室で、知らせの文を受け取った欣子が、文を読み進めながら首を傾げる。
「父上や中宮様、公卿の皆様も参加される所に、わたくし達もとは・・・父上様もご存じないのでしょうか」
「そうね・・・。昨夜は何も仰っていらっしゃらなかったわ」
「もしや、内親王様とのお話を、月白の君が承諾されたのかもしれませんよ」
帝をはじめ、主だった貴族たちが集まる場だ。そこに呼ばれるのであれば自分達も関わる事だろう。
文を読む欣子に、淡路が微笑みながら言葉を続ける。
「そう言えば、あの女子もここ何日か宮中に姿を見せません。内親王様のお言葉で、身を弁えたのでょう」
「でも、あれから内裏に、月白様はお姿をお見せにならないわ」
「・・・元々公卿というお立場。お忙しくされているのが本来のお姿です。きっとあの女子と常寧殿の方様の頼みで、時間を作っておられたのでしょう」
拗ねたように言う欣子の手を、淡路が取り慰める。
「公卿の皆様が集まるという事は、月白の君もいらっしゃいますよ」
淡路の言葉に、欣子の表情が一瞬で華やいだものへと変わり、それを見た圭子が微笑んだ。
「そうね、淡路の言う通りね。皆の前で、欣子と月白の君との婚儀の話を進めるのかもしれないわ」
「でしたら、母上様。先日父上様から送られた唐衣と、お飾りを身に着けたいです」
昭仁との話が進まず、体調を崩してしまった欣子を慰める為、帝からの贈り物が欣子へと三日を明けず届いている。
昨日には、欣子の言う唐衣と飾りが届いたばかりだ。
「もしかしたら、ご婚儀についての打診があったのかもしれませんね。そうでなければ、合わせたようにお飾りなどが届く事もないかと」
嬉しそうに微笑む淡路の言葉に、圭子と欣子が顔を見合わせて微笑む。
「では、明後日の朝議には、それを身に着けていくようにしましょう」
圭子の言葉に淡路は頷くと、届いた装飾品の確認の為に別室へと向かった。
●甘松と麝香は香料の原料。甘松はオミナエシ科の多年生草本で、その根や茎から香料をとります。麝香は今の呼び名ではムスク。ジャコウジカから得られる今では希少な原料。
●左近衛陣座は公卿が会議などを行う場所です。