62 天と地(1)
夕暮れの日に照らされた迅雷の表情は見えないが、何か大事な事を伝えに来た、そんな雰囲気が伝わる。
「人払いを」
一言だが抑揚のない声に、先の従者がそっと源昭仁の顔を見る。
「暫く二人だけに」
そう言うと、牛車を囲んでいた昭仁の供の者たちはさっと気配を消す。
「・・・さすが月影の家の者ですね」
「して、何用だ? 姫に関わる事か?」
感心したように迅雷が呟くと、昭仁が問いかける。
藤原咲子との婚姻を進めてひと月弱。藤原邸に仕える者たちは、皆姫を慕っている事が伝わるには十分な時間だった。
その中でも近衛として傍に仕える五人は、貴族たちから「藤原邸の劔」と呼ばれ「御劔衆」と名付けられる程に、剣を含めた武術に長け、頭も良い。その上自分たちの主である咲子を大切に愛しんでいる。
血の繋がりなどない筈なのに、まるで兄妹のような睦まじさだ。
「流石に勘が良いですね」
不敵な笑みを浮かべた迅雷の視線は鋭いものだ。
「畏まった喋りはしなくていい」
「では、お言葉に甘えて」
昭仁が視線を受け止め答えると、迅雷は一つ溜息をつく。
それは自分の中の怒りを吐き出すようにも見えた。
「単刀直入に聞く。姫さんが側室になるって話は本当か?」
「・・・はっ?」
迅雷の低く怒気を含んだ言葉に、思わず昭仁が目を見開く。
「話によっては、姫さんが泣く事になるならあんたを許さないし、御劔衆が姫さんを貰う」
「どう言う意味だ?」
続ける迅雷の言葉に、昭仁の纏う空気が一変する。
その様子に怯む事もなく、迅雷が言葉を続ける。
「まんまの意味だ。あんたが姫さんを蔑ろにするつもりなら、御劔衆にも考えがあるって事だ」
怒気を含みながらも淡々と続く言葉に、今度は昭仁が怒りを吐き出すように息をつく。
「なぜ、いきなりそうなるんだ。大体、私には姫だけだ。姫だけを望み、全てを捧げる。なのになぜ姫を側室にしなくてはならないのか?」
「・・・今日、姫さんが面と向かって言われたんだよ」
「誰がそのような戯言を」
「欣子内親王だ」
迅雷の話によれば、今日常寧殿へ出向いた帰りの渡殿で、いきなり欣子にそう言われたと言う。
「小声で、周りに聞こえないようにはしていたが、傍にいた俺は勿論、常寧殿の方様の侍女には聞こえただろう。はっきりと言ったぜ。『自分が嫁いだら正妻ではなく側室の身だ』ってな」
「・・・戯言を」
「ああ、あと、姫さんに自分の香を渡した。いずれにせよ側室だから、あんたが渡った時はこれを焚けってな。それが側室となる者の務めだ、とも言いやがったぜ」
呆れたように言う迅雷の言葉を聞きながら、昭仁の瞳がすっと細められる。
「まあ、この話を聞いて、あんたが今猛烈に頭にきてるのは分かった。姫さんに対する気持ちもな。・・・香はこっちが処分しても良かったんだが、あんたが姫さんを大事に思ってんならそっちで処分しろ」
「言われなくても」
「・・・言いたくないが、随分と姫さんは落ち込んでる」
剣呑とした昭仁を見ながら迅雷が言うと、驚いたように昭仁が顔を向ける。
「・・・なんだ、嬉しそうだな」
昭仁の表情を見た迅雷が眉をしかめた。
「・・・いや、」
そう呟くと、昭仁の口元が弧を描く。
それを見た迅雷が嫌そうな表情を浮かべ、昭仁が口を開きかけたのを、呆れたような声でひらひらと手を振って拒否をする。
「・・・言わなくていい、聞きたくねぇな。ちゃんと姫さんと話して、安心させてやれ」
「・・・なぜそこまでする? 例えるなら、私はお前たちの恋敵みたいなものではないか?」
「恋敵? それはちょっと違うな・・・」
昭仁の問いに、迅雷が宙を見つめる。
「御劔衆は姫さんを守ることが務めだが、姫さんはその垣根を越えて家族として御劔衆に接してくれる。あんたは知らないだろうが、姫さんの所に身を寄せてすぐの頃、御劔衆を野犬から守ろうとしてくれたんだぜ、あのちっこい身体で」
そう言う迅雷の瞳は懐かしさを含んだものとなるが、その言葉を聞いた昭仁の顔色が変わる。
「ああ、心配するな。あの時も傷一つつけてねぇよ。そうだな、姫さんが笑えば、御劔衆も嬉しくなる。姫さんが悲しめばそれを取り除きたいと思う。・・・そして、姫さんを傷つけるものは排除する」
そう言い終わると、迅雷は好戦的な視線を昭仁へと向ける。
「姫さんは御劔衆に色んな感情を与えてくれた。だから、御劔衆は務めではなく姫さんを守りたいと思ってる。あんたが姫さんを傷つけるなら、容赦はしない」
「それは私とて同じだ。姫を傷つけるものがあれば許す事はない。初めて心から手に入れたいと思った人だ。だからこそ、ゆっくりと大切にとしてきたのに、こんな形で横やりが入るとはな」
「精々励め。・・・さて。俺は屋敷に戻るが、あんたはどうする?」
「もちろん、姫に会いに戻るに決まっている」
藤原邸では、昭仁を見送った咲子が釣殿でぼんやりと月を眺めている。
「姫様、いかがされましたか?」
声を掛けてきたのは浮島だ。
少し一人になりたとい傍仕えを母屋に帰した為、心配して浮島に咲子の様子を伝えたらしい。
月を見上げていた咲子の視線が、池に映る月へと動く。
「浮島、月白様の隣にわたくしは居ても良いのでしょうか?」
「何を仰います。あんなにも月白の君のお心は姫様だけに向いておりますのに」
「・・・そうでしょうか・・・?」
そう言うとそっと、咲子は右手を自分の胸元に添える。
「わたくしは月白様との身分が随分と違います。もし、月白様に他にお好きな方が出来たら? そう考えると、何故だか気持ちが沈んでしまうのです」
上り始めた月の淡い光が、咲子の伏せた瞳に長いまつ毛の影を作る。
「私はいつからこんなに欲張りになってしまったのでしょうか。父上様も浮島も、御劔の皆も、屋敷の者たちも居て。でも月白様のあのお優しく微笑まれるお顔が、別の方に向くのは寂しいと思ってしまったのです」
小さくため息をつく咲子を見て、浮島が柔らかく微笑む。
「それはいつの間にか、姫様のお心の中で月白の君が特別な存在になったからでしょう」
「特別・・・?」
「姫様には初めての感情で戸惑ってしまっているのですね」
そう言いながら、浮島がそっと咲子の手を取る。
「人はそれを『恋』と呼びます。姫様は月白の君に恋をされたのですね」
俯いていた咲子の顔がゆっくりと浮島を見る。その瞳は零れ落ちそうな程、驚きが浮かんでいた。
「その姫様のお心を、月白の君にお伝えなさいませ」
「そ、そんな、このような我儘、・・・呆れられてしまいます」
優しく微笑みながら言う、浮島の言葉に咲子が小さく首を振る。
「何を仰います。姫様のお心を知れば、呆れるどころか月白の君はお喜びになりますよ、ええ」
優しく浮島は微笑むが、咲子は不安げなままだ。すると、浮島が何かに気がついたように、咲子の肩越しの向こう側へと視線を向けた。
「さあ、姫様」
咲子が不思議そうな表情を浮かべ、浮島が促す方へと振り返ると、二人の人影が池の中島を抜け、ゆっくりとこちらに向かって来るのが見える。
「迅雷と、月白様?・・・どうして?」
思わず咲子は呟くと、浮島と話していた内容を思い出し、恥ずかしさで慌てて俯いてしまう。
「姫、夜分に申し訳ありません。どうしても姫に伝えたい事が有り迅雷殿にお願いしました。そちらに行っても宜しいですか?」
釣殿の傍まできた昭仁の声は穏やかだ。咲子がゆっくりと顔をあげると、浮島が励ますように取っていた手を優しくさする。
「・・・はい」
「大事なお話がある様ですね。では、わたくしと迅雷は少し離れておりましょう」
咲子の了承の言葉を聞いた浮島は、すっと立ち上がり母屋の方へと歩き出す。
浮島がいなくなった事で、咲子の表情が不安げなものへと変わる。
「姫? 傍に行って、お顔を見せていただいても?」
昭仁の声は、変わらず優しい。咲子は俯いたままこくんと頷いて見せる。
衣擦れの音がして、ふわりといつもの昭仁の香りが咲子の鼻をくすぐり、先程まで静かだった咲子の心臓の音が大きく鳴るのを感じ、思わずぎゅっと目を閉じてしまう。
「姫?」
もう一度呼ばれ、咲子はそっと目を開き少しだけ俯いた顔をあげると、左頬に温かいものが触れた。それが昭仁の右手だと気がつき、驚いて思わず顔をあげてしまう。
「ああ、やっと顔が見えました」
間近に昭仁の顔があり、その表情はいつものように甘さを含んだもので、咲子は思わず涙を浮かべる。
「月白様・・・」
「どうしましたか?」
「もし、もしも・・・他にお好きな方が出来たらわたくしにお話し下さいますか?」
咲子の言葉に、昭仁が驚いた顔をする。
「なぜ、あなたはそんな酷い事を私に言うのですか?」
零れ落ちそうな咲子の涙を、その長い指で拭いながら、昭仁が続ける。
「言った筈です。私はあなたに恋をしたと。生涯を共にしたいと。あなたを手に入れる為なら、私はどんな事もできるでしょう」
「わたくしは・・・。月白様のお心が別の方に向くのは寂しいと思ってしまいました・・・」
咲子の言葉に昭仁が一瞬驚いたような表情の後、甘く解ける。
「嬉しい言葉です。私だけが恋い慕っていると思っていましたから」
ゆっくりと昭仁の腕が咲子を抱き寄せ、壊れ物を扱うように優しく抱きしめる。
「このような気持ちは、我儘ではありませんか?」
「我儘なんてとんでもない。幾らでも」
昭仁の言葉に咲子がぽろぽろと涙を零す。
「・・・わたくしも、月白様に恋をしています」
その言葉を聞いた昭仁が幸せそうに微笑む。
「姫の事を『躑躅』と呼んでも良いですか? 聞けば常寧殿の皆や東宮様は『躑躅の姫』と呼んでいると。私だけの呼び名を許して下さい」
甘く蕩ける様な声でそう言われ、咲子は腕の中で幸せそうに頷いた。
やっと「躑躅」と呼ぶ事が出来ました。
咲子ちゃんが恋心を自覚したので、これから昭仁さんは遠慮なくぐいぐい行くかと。