58 希う(2)
普段は和やかに朝餉の時間を過ごすのに、今日の藤原盈時は心あらずな顔をしている。
溜息をつく父の姿を見て、娘の咲子は首を傾げる。
「父上様、どこかお体の具合が悪いのですか?」
箸の進まない父親を見て、咲子が心配そうな顔をして問う。
「いや、何でもないよ」
ぼんやりしていた盈時は、咲子の声に我に返ると、慌てて箸を動かし始める。
そんな事を繰り返しながら朝餉を終えると、改まった顔をした盈時が咲子の顔を見て言う。
「咲子に大切な話がある」
盈時はそう言うと、咲子を庭の見える南廂へと誘う。
「ここが片付いたら、暫く人払いを」
盈時は侍女たちに指示をすると、廂に用意された茵に咲子と共に並んで座る。暫くすると、片付け終わった侍女たちが離れ、盈時と咲子の二人となる。
「・・・父上様?」
二人になっても中々言を発しない盈時に、咲子が可愛らしく首を傾げ父を呼ぶ。
父と呼ばれ、盈時は庭を眺めていた視線を咲子へと向けると、目を細めてそっと手を伸ばし、咲子の頭を撫でる。
「咲子にね、縁談の話が来たんだ」
穏やかにいう盈時の言葉に、咲子が長いまつ毛の瞳を二、三瞬かせる。
いきなり縁談と言われ、理解できていないのかもしれない。
そのまま盈時が咲子の反応を待っていると、ようやく理解したのか咲子が呟く。
「わたくしに、縁談、ですか・・・?」
「そうだよ。咲子は覚えているかな? お相手は先日の曲水の宴の歌会に参加していた、源昭仁様だよ」
盈時の口から出た名前に、咲子が目を丸くする。
歌会の最中に扇の影から目が合い、優しく微笑んでくれた美しい公達だと思い出す。
「昨日、朝早くから源家からのお使いが来てね。咲子が浮島と勉強をしている頃にお見えになったんだ。父も驚いたよ」
そう言いながら、困ったように柔らかく微笑む。
「咲子はね、父の自慢の娘だ。大人になったらよい縁談が来るだろうと思っていたよ。だけど、まさか源家から話が来るとは思っていなくてね」
盈時の言葉に、咲子がこくんと頷く。
「話を聞くと、宮中で咲子の事を見かけてずっと探して下さっていたらしい。此度の宴で咲子の素性が分かって、さっそく藤原家へ来たそうだ」
「そう、なのですか・・・」
困惑の表情で、咲子が盈時の顔を見つめる。
「驚くのも無理はないと思う。藤原家より家格の上である源家からの縁談だ。こちらから断ることはできない。でも父は咲子には幸せになって欲しいと思っているんだよ」
そう言いながら、盈時は咲子の頬を撫でる。
「昨日お会いしただけだが、月白殿は咲子を好いている。とても大事にして貰えるだろう。だからね、父は月白殿にお願いをしたんだ。一つは『婚姻は咲子の裳着が済むまで待って欲しい』。もう一つは『咲子の気持ちを大事にして欲しい』と」
盈時はそっと、もう片方の手も咲子の頬に添え、覗き込むように見つめ微笑む。
「月白殿はそれを了承してくれたよ。咲子を大事にしたいと言ってくださった。咲子が心を開いてくれるよう努力をするとも。急だが、今日の申二刻にいらっしゃるんだ。まずは咲子と話をしたいと言ってね。どうだろう? 父からすると、とても誠実な方だと思う」
じっと盈時の瞳を見つめていた咲子が、小さく頷く。
「わかりました。ちょっとびっくりしましたけど、大丈夫です」
咲子の言葉に、盈時はほっと胸を撫で下ろした。
―いったい何を話したらいいのかしら・・・。
釣殿から見える、池と庭を昭仁と二人、並んで見ている咲子は考える。
申二刻よしほんの少し前、昭仁が供の者を連れて藤原邸を訪問した。
咲子との話の後、屋敷中の者を集め、盈時は今回の昭仁から咲子への婚姻の申し入れがあった事を伝える。
婚姻は随分と先だが、今後は昭仁がこちらに訪問する事が多くなる為、失礼のないようにと念を押す。
その言葉があってから、屋敷の者たちが浮足立ち、華やぐ。
自分達の自慢の姫が、都で一番注目を集めている身分の高い公達から求婚されたのだ。さすが我が姫様だと屋敷中が喜びに包まれていた。
そんなお祝い一色の中に到着した昭仁は、屋敷中の者に歓迎され盈時への挨拶の後、母屋の別室で待っている咲子の元へと盈時と共に向かう。
日の光が入る廂に近い室に入ると、少し緊張した雰囲気の咲子が座っている。
自分が来る事を知って、着飾ってくれたのだろう。可愛らしい姿に自然と昭仁の口元が弧を描く。
「はじめまして。姫君」
そう言って微笑むと、咲子の白い頬が可愛らしく朱に染まる。
「咲子と申します」
「今日は無理を聞いてくれてありがとう。会えて嬉しいよ」
昭仁の言葉に、向かい合って座る咲子が可愛らしくはにかむ。
その様子を見ているだけで、昭仁は心が満たされると感じるが、ここに来たのは咲子とのこれからについて話をする為だ。さて、どうしたものかと思案する昭仁の様子に、盈時が提案をする。
「月白殿。咲子はこの屋敷の釣殿がお気に入りでしてね。あの場所からの庭の眺めが大好きなんですよ」
そう言いながら、庭の方へと目を向けると、それに釣られ昭仁も視線を向ける。
「それは是非見てみたいですね。姫君のお気に入りの景色を見せてくれませんか?」
昭仁の言葉で、咲子と昭仁は釣殿へと向かったが、相変わらず咲子自身は緊張して、言葉を発する事が出来ずにいる。
歌会では少し離れた距離で見ていた、絵巻物に出てくるような美しい公達が、自分の目の前に居るのだ。
普段、護衛として一緒に過ごしている迅雷や宵闇達も整った風貌だが、彼らとは違う。
なんだか不思議な感覚に、咲子はぼんやりとこれからどうしたら、何を話したらいいのかと考えていた。
「本当に、良い景色ですね!」
俯きがちになっていた咲子の顔が、昭仁の言葉に反応する。
思わず昭仁の方を見ると、感心したように池から庭にかけての景色を眺めている。
「ああ、良い香りがすると思ったら梅があるのですね。あちらの蕾は桜ですか?」
「はい、そうです」
「水辺にはカキツバタがあるのですね。姫は花がお好きですか?」
優しく昭仁に微笑まれ、咲子も釣られ笑顔を見せる。
「はい!お庭にいろんな花を揃えて貰いました」
「それは一年中楽しめますね。そうだ、この庭に長春花は有りますか?」
優しく問いかける昭仁の言葉に、咲子が少し考えた後、首を横に振った。
「いいえ」
「では、私から今度贈りましょう。とても可愛らしい花ですよ。手入れが分からなければ、源家より手配しましょう」
咲子が笑顔を見せた事で、昭仁は安心したように微笑む。
「・・・今回の婚姻は、姫も驚いたと思います」
昭仁は庭を見ながら、少し目を細めた。
「あの・・・。何故わたくしなんでしょうか・・・?」
朝餉のあと盈時から告げられてはいたが、なぜ自分に申し込んだのか咲子自身は不思議に思う。
昭仁の家柄はとても良く、いずれ東宮の右腕になるだろうともいわれていると、宴の時に聞いた。
昭仁は容姿も美しく、自分のような子供でなくても、もっと相応しい姫君がいるのではないかと思うのだ。
「生涯添い遂げる相手には、姫が良いと思ったのです」
穏やかな声とは反対に、熱烈な言葉に咲子の顔が染まる。
「義理父上様から聞いているかと思いますが、私は前に姫を宮中で見かけて、ずっと探していたんですよ」
ふわりと釣殿に風が抜け、咲子の柔らかい髪が風に舞う。
「そう、あの時も風が抜けて、あなたの髪が舞っていたな」
その時の様子を思い出したのか、昭仁が愛おしそうに視線を緩ませると、そっと手を伸ばし頬にかかった咲子の髪を背に流す。
ほんの少し昭仁の指が咲子の頬に触れ、その途端咲子の頬がますます赤くなった。
「月見の宴の日、常寧殿様の猫と戯れていたのがあまりに可愛らしくて、目が離せなかったのです」
昭仁は穏やかに言うと、咲子の顔を覗き込む。
「姫は、私の顔はお嫌いですか?」
唐突に言われ、咲子が首を傾げる。
「とてもお綺麗だと思います。嫌いではありません」
素直に応える咲子に、昭仁が微笑む。
「それは良かった。私はあの時あなたに恋をしました。見た目だけでも好きと言ってくれるだけで今は十分ですよ。いきなり受け入れてくれとは私も言いません。少しずつ私を見ていって下さいね」
愛おしそうな視線を向けられ、咲子は恥ずかしそうに俯く。
「では、母屋に戻りましょうか。義理父上さまが心配してるでしょう」
そう言い、昭仁は立ち上がると咲子へと手を差し出す。
咲子は頬を赤く染めたまま、恥ずかしそうな表情を浮かべながらも、そっと差し出された手に小さな手を乗せた。
「・・・あの、月白様」
「何でしょう?」
「あの・・・。わたくしは正直、自分の気持ちも恋もよくわかりません。でもこうして月白様はお心をくださいました。だからわたくしもちゃんと向き合って行こうと思います。それまで少し時間をいただく事になるかもしれないですが・・・」
咲子の言葉に、昭仁の表情が驚きから優しい笑みへと変わっていく。
「・・・ありがとう」
昭仁の言葉に、咲子が頬を染めたまま微笑み返した。
●長春花 庚申薔薇と呼ばれる、四季咲き性のバラで、平安時代には中国から渡来していた、小さくて可憐なバラです。
平安時代にバラと聞いて首を傾げてしまうかもしれませんが、実は古くから栽培されていました。
高価なものなので、当時は貴族向けのお花だと思います。
因みに日本のバラの代表的な原種は、ノイバラと言われているようです。