52 黄昏
金曜日。
何度目かの溜息を、仕事の合間につきながら、ちらりとデスクにあるミニ時計に目を向ける。
時刻は十一時。
時計の数字を見る度、何となく落ち付かない気持ちになる。
「そろそろCOOと成瀬さん、新幹線の時間じゃないの?」
打ち合わせの為、司波さんとデータを纏めていた桐生さんが、腕時計を見て言う。
「あー、だなあ。十一時九分だっけ?」
桐生さんの言葉に、ファイルに纏めた書類を確認しながら、司波さんが答える。
今日は午後一番に打ち合わせがあるらしく、二人はこれから外出の予定だ。
「もう駅には居るでしょうね」
カタカタと、パソコンの入力の手を止めず宗方さんが言う。
「おー、そうだ。姫さん、COOに土産ちゃんと頼んだか?」
司波さんに言われ、思わず書類チェックをしていたペンが止まってしまう。
何の事かわからず首をかしげると、それを見ていた桐生さんが残念そうな顔になる。
「・・・指定しなかったって事は、COOあれこれ悩んで買ってきそうだなぁ」
「お土産って、出張土産ですか?」
「そう」
何となく、拓さんがお土産を買う姿に違和感を感じて、知らずに眉が寄ってしまう。
「あの人、どこかに行くと必ず買ってくるんだよね。フロア用も勿論だけど、今回姫さん用にも買ってくるんじゃないかな」
「このメンバー用だと反応が面白くあらへんからね、付き合いも長いし」
桐生さんの言葉に久我さんが笑う。
「COO、姫さんに何買うてくると思う?」
「オードリーのグレイシアミルク!」
「プレスバターサンドもありえそうですよ」
「チューリップローズの菓子っていうのもありだな」
「サブリナの花のパイ菓子もええと思うんやけど」
久我さんの言葉に、次々とお菓子のお店の名前があがる。
みんなよく知ってるんだなぁと感心してたら、どうやら甘いもの好きの桐生さんが、みんなにお薦めしたのが始まりらしい。
「え、皆じゃなくてですか?」
「僕たちに買ってきても、喜ばないのはわかってますからね」
「・・・そうなんですね」
宗方さんの言葉に、納得したようなしないような微妙な返事をしてしまった。桐生さんなら喜びそうだと思うけどなぁ。
「十一時の新幹線って事は、夕方までには戻ってくるって事だな」
司波さんが、自分の腕時計を見ながら「さて、俺らも出るぞ」と桐生さんを促す。
そう、あの日から一週間ぶりに拓さんと顔を合わせる。何となく落ち着かないのはそのせいだ。
業務報告での電話は何度かあったけど、実際どんな顔をして会えばいいんだろうと思わず一人で赤くなってしまう。
そんな事を思っていると、久我さんと目が合ってしまった。
因みに、いつの間にか司波さんと桐生さんは出かけてしまったようだ。
「姫さん、何かあったん?」
久我さんが優しく問いかけてくれるけど、なんて言えばいいのかわからず目が泳ぐ。
「ええと・・・」
「まあ、姫さんの様子見とったら、何となくわかるけどなぁ」
ふふふ、と楽しいものを見た様に久我さんが笑う。
「一人で悩まず相談したらええ。ここの皆はCOOより姫さんの味方や」
久我さんの言葉に、思わず唖然としてしまう。
思わず宗方さんの方を見ると、穏やかに微笑まれてしまった。
「あ、別にCOOから聞いた訳ではないですよ。何となくこの一週間の榴ヶ崎さん見てたらそうなのかなって」
「もしかして・・・」
「たぶん、桐生くんたちも分かってるんじゃないかな」
ああ、穴があったら入りたい。
赤くなって俯く私に、二人の生暖かい視線が注がれ、何とか書類チェックに意識を向けるだけで精いっぱいだった。
「榴ヶ崎さん。ちょっと、これなんだけど」
あれから何とか平常心を取り戻した私は、午前中の仕事を終え、休憩を挟んで午後の仕事に取り掛かる。
司波さんから頼まれていた資料を整えていると、開発課の片山さんから声を掛けられた。
「片山さん、どうかしましたか?」
私が席を立ちあがり、片山さんの傍に行くと、書類の束から一枚を取り出して見せる。
「これなんだけど。さっき司波さんから、週明けに行く企業用に資料纏めておいて欲しいって電話で言われたんだけど、この部分の詳細資料がここの書類棚に無くて」
「え、そうなんですか?」
片山さんの言葉に、慌てて取り出した書類の内容を見直す。
「ここにある筈なんですけど・・・。あっ、もしかしたら先週ほら、開発部の人が調べ物してたから、間違って資料室か旧書庫に持ってっちゃったのかもしれませんね」
「まじかー」
先週、開発部で古い比較資料が必要だといって、色々手伝ったのを思い出す。
うちの会社は十年程度の資料は資料室、それ以前の古い物は旧書庫という部屋に保管している。
本来、開発事業に必要なものは7階フロアに揃っているけど、たまに古い資料との比較の為、引っ張り出してくる事がある。
終業時間近くになっても資料探しが続いたので、片付けるのは開発部の皆がやるというのでお任せしてしまった。
旧書庫も資料室も管理担当者がいるので、間違った資料が戻れば連絡が入る。
入らなかったという事は、担当者も見落としてしまったのかもしれない。
ただ、このフロアの資料に関しては、管理は私がやるべき事だ。
「ごめんなさい、私のチェックミスですね・・・」
「つつじちゃんは悪くないでしょ、ちゃんと資料をある所に納めなかったのが悪いんだし。だけど困ったなぁ」
私が頭を下げると、片山さんは慰めてくれた後、ポツリと呟く。
「どうしたんですか?」
「実はこの後、十四時三十分から結城商社の担当との打ち合わせなんだよ」
結城商社と言えば、鉄鋼関係の強い全国規模の会社だ。今後の開発の稼働の為にも後日という訳にはいかない。
壁にかかった時計に目を向けると、十四時過ぎた所だった。
「あ、それなら資料室と旧書庫は、私が行って探します」
「え、助かる!」
「今日中に仕上げる仕事はあと少しで終わりますし。三十分ほど時間をいただければ、探しに行ってきますよ」
「本当に助かる! 俺もあとここの資料用意するだけだし。打ち合わせも十六時までだからそれまでに見つけてくれるとありがたい」
今にも拝み倒しそうな勢いで、片山さんが頭を下げるので、つい笑ってしまう。
「それじゃあ、見つかったら片山さんの机に置いておきますね」
「よろしくお願いします」
もう一度、片山さんが私に頭を下げ自分の机へと戻って行ったのを見て、私もCOO室に戻る。
「どないしたん?」
外での会話は聞こえなくても、片山さんと話していたのはガラス越しに見えていたのか、久我さんが声を掛けてくれる。
「七階の資料が、どうやら旧書庫の資料か資料室かに紛れ込んでるみたいなんです。片山さん、司波さんから頼まれてるみたいなんですけど、これから結城商事さんとの打ち合わせらしくて」
「全く、誰や。大事なもんを適当にしたんは・・・。ペナルティやな」
「今日中の仕事はあと少しで終わるので、終わったら私が探しに行ってきます」
「榴ヶ崎さん、僕も行こうか?」
私の言葉に、久我さんが黒い笑顔を浮かべるので苦笑いをしていると、宗方さんが声を掛けてくれる。
「大丈夫ですよ、旧書庫も資料室も管理の人がいるし、前回持ってきた資料も大体覚えてますから。資料の場所さえわかれば大丈夫ですよ」
それに、宗方さんも久我さんも抱えている仕事は多い。これ位、私一人でも大丈夫。
そう、思っていた。
「あの、すみません」
資料室へ向かう廊下で、一人の男性に声を掛けられる。
「はい?」
私が振り返ると、見た事がない男性が一人。
首から社員証を下げた、眼鏡をかけた若い男性だった。
「あの、資料室ってこの階ですよね?」
「そうですよ」
私が笑顔で答えると、男性はほっとしたような表情を浮かべる。
「よかった、まだ支社の内部まで覚えてなくて」
その言葉で、男性がこの春に転勤してきた人と理解する。
―だから、見た事なかったのね。
人の顔を覚えるのは昔から得意だ。社内外問わず、なぜか覚えてしまうので、香澄ちゃんにはよく感心される特技だ。
その記憶の中から探しても出てこない人物。春から受付に座ってないのだから気がつかなかったんだろう。
「この春に転勤で?」
私が何気なく聞くと、相手の男性は人好きする笑顔を浮かべる。
「いいえ、あなたに会いたくて。躑躅の姫君」
その言葉を聞いた瞬間、私の視界と意識が閉じた。