46 曲水の宴(4)
「春の日の 名も知らぬ花 身染めたり
つつじの蕾 わが恋ひわたる」
神職が和歌を詠み終わると同時に、宴場がざわりと揺れる。
驚きを含んだ雰囲気にも、源昭仁は表情を変えぬまま披露の後の一礼をすると、何もなかったように背筋を伸ばし、遣水の流れへと視線を向ける。
「まあ、なんて素敵な歌!」
「月白の君から、あのような思いのこもった歌を送られてみたいわ」
「どなたに宛てられた歌かしら」
今、都で流行りの絵巻物に出てくるような、初々しくも相手を思う歌を詠んだ昭仁に、西の対にいる女人たちはうっとりとした視線を送る。
彼女たちは、昭仁が『誰に贈る為に詠んだのか』ではなく『情緒的な歌を昭仁が詠んだ』という事にときめいたようだ。
華やいだ西の対とは対照的なのは東の対だ。
「なんと、恋の歌を詠まれるとは」
「いつの間にそのようなお方が・・・」
「しかも・・・」
相手は内親王様ではないのか? と、言いかけた貴族たちは、はっと気がつき口を噤む。
窺うような視線を送る者。下を向く者。
母屋の様子を窺いながら、声を潜める。
慌てたのは東宮もだった。
―つつじの蕾・・・。彼が探していたのは躑躅の姫だったのか・・・。
東宮はちらりと昭仁へと視線を送った後、ほぼ正面にある西の対へと視線を向ける。
そこには自分の事を詠われたとは夢にも思わず、他の姫たちと楽しそうに笑い合う咲子の姿がある。
昭仁の視線が一瞬甘く緩み、咲子へと向けられた後、何事もなかったように遣水へと向かうのを東宮が気付く。
ほんの束の間の事で、昭仁をよく知る東宮でなければ気がつかないものだ。
―これは一波乱どころではないかもしれぬなぁ。
ざわつく東と西の対とは別に、母屋では帝が驚いた表情のまま昭仁へと視線を向けており、その後ろ西側には、承香殿の女御と末姫が信じられないものを見るような目で、昭仁を見つめている。
微かに二人の顔が強張ってみえるのは、自分たちの予想しなかった状況の為だろう。
帝のすぐ隣に座る中宮や、他の側室二人、内親王二人が表情を変える事もなかったのは流石だと東宮は感心したが、ふと強い視線を感じ母屋へと視線を向けると、目の据わった暁子と視線が合う。
暁子の表情には抑えた怒りが浮かんでおり、昭仁が詠んだ『つつじの蕾』が誰を指したのか理解したらしい。
―そんな目で見られても・・・。
東宮も、今この場で歌の内容から、昭仁の想い人を知ったのだ。
実際「つつじの蕾」と詠まれ、それが誰を指すのかは、この場の皆は一部を除いてわかっていないだろう。
今日初めて『躑躅』と呼ばれる彼女は社交の場に登場し、暁子が呼ぶ「躑躅の姫」の呼び名も常寧殿や藤原邸でしか周知されていない。
それぐらい、咲子は暁子が『時期が来るまでは』と、大事に愛しんだ花だった。
東宮は心の中でそっとため息をつく。
思い返せば自分の思い人を見つけたと言った時、蕩けるような表情を見せた昭仁だ。
あの時点で、自分の思い人がどこの姫であるのかもわかったうえでの確信犯。
つつじの蕾と呼んだのも、咲子が纏う衣が良く似合っていた為だろう。
全ては偶然が繋がったものだが、だからこそ運命と呼べるのかもしれない。
そんな事を思いながら、東宮は苦笑いを浮かべ、暁子へと視線を返す。
承香殿の女御と、末姫に関しては何とでもなる。寧ろ問題は躑躅の姫を可愛がる暁子への対応だ。
「やれやれ、歌会後の宴には参加できそうにないな」
元よりそんなに宴の場は好きではない東宮は、この後に行われる宴も早々の退出を考えていた。
今夜は暁子と共に、躑躅の姫の琴の話をするつもりだったが、そんな穏やかな時間にならない事を悟った東宮は再び小さくため息をついた。
昭仁の歌の後、残り七名の歌が披露されたが、皆、殆ど頭には入っていないだろう。
朗々と披露を続ける神職が気の毒に思えるぐらい、この場にいる者達は浮足立っていた。
歌の奉納が終わると同時に、皇族に連なる女人達は内裏へ戻ってしまい、毎年であれば帝と共に最後まで場に残る圭子と欣子の姿もなく、いつもと違う形で歌会の場が終わる。
引き続き神泉苑で行われた宴には、初めは帝も姿もあったが、ほんの束の間ので早々に内裏へと戻ったようだ。
それもあってか、宴に参加している貴族たちの間では、昭仁の想い人は誰なのか、内親王との事は噂だったのか、という話題一色になる。
「おお! これは目付殿!」
酒が回り、機嫌よく同じく大内裏の式部省に勤める高宮一介より藤原盈時は声を掛けられる。
「これは、高宮殿」
「今日の歌会での目付殿の姫の琴、素晴らしい音色でございましたなぁ!」
「ありがとうございます」
宴が始まってからというもの、盈時は同じ流れで声を掛けられ、娘の咲子の昼間に披露した琴についての話題となる。
「目付殿の姫の琴は、東宮様お墨付きとか。まこと素晴らしい! 姫にも今日はじめてお目にかかったが、実に愛らしい。今日の披露で今後山のような婚姻の話が来そうですな!」
そう言いながら高宮が機嫌よく笑うと、盈時は穏やかに笑い聞き流しながら、高宮の盃に目をやり瓶子を手にとる。
「まだまだ裳着も先の子供でございますから。盃が空になっておいでのようですね」
「ああ、すまぬ。ああ、そういえば。今日の源殿の歌! まさかあのような公の場で恋の歌を詠むとは! 皆が源殿を射止めたのはどこの姫かと噂をしておるのだが、目付殿には心当たりはないだろうか?」
「いえ、先程より皆様その話でもちきりでございますが、私にはさっぱり見当も」
「そうか。源家とは縁を繋ぎたいものも多いからなぁ」
高宮はそう言うと、注がれた盃を口にする。
「しかしそうなると、大内裏で噂となっていた末の内親王様の降嫁の事も、噂でしかなかったという事か。いやはや。・・・ここだけの話、式部卿殿は承香殿の女御殿に頼まれての歌だったそうだ。何の為に歌を変えたのやらと落ち込んでおいでであった」
高宮によれば、今夜の話題の人物となっている源昭仁は歌会の後、早々に自分の屋敷へと帰ったという。
内親王との話が噂であれば、ぜひ自分の娘をと思うものも多かったのだろう。
あちらこちらで欠席を残念がる者たちがいるという。
「まあ、我が藤原家には縁遠い話ですから」
「いやいや、目付殿。子供というが、今でも目を瞠るあの器量。先はさぞかし美しい姫となるであろうな」
「お褒めいただきありがとうございます」
手放しで咲子を褒められ、盈時は穏やかに微笑んだ。
「どういう事なのですか!」
帝の姿が目に入った途端、圭子が帝へと詰め寄る。
承香殿に戻る牛車の中で、欣子は怒りの為に過呼吸を起こし、意識を失ってしまった。
慌てた圭子と淡路が典薬寮より薬師を手配し、急ぎ帝へと使いを送る。
欣子が倒れたという知らせを聞いた帝は、早々に宴の場を退出し承香殿へ向かった。
帝が承香殿なたどり着いた時には、薬師が診断を終え、承香殿から退出した時だった。
「承香殿様、内親王様に障ります」
欣子の傍に控えていた淡路が、落とした声で言うと帝が眉根を寄せ、御帳に横たわる欣子へと視線を向ける。
「欣子は・・・」
「少し気が高ぶってしまったようです。暫く薬草湯を飲み、安静にするようにとの指示が出ております」
怒りのこもった瞳で帝を見上げる圭子の代わりに、淡路が答えた。
「帝。月白殿の歌の事についてでございます」
先ほどよりは声を落とした圭子が、帝に怒りを含んだ瞳のまま問う。
「あれは誰に向かって詠んだものかご存知ですか?」
「・・・現時点ではわからぬ。懇意にしておる東宮に使いを出したが、まだ返事は来ておらん。それにあの歌も、深い意味はないのかもしれぬ」
「帝。このままでは欣子は嫁げず斎宮となってしまいます。それだけは避けたいのです。あのようになるまで、あの子が嫁ぐ事を望んでいるのです」
先程の怒りの表情から一転、圭子はその瞳に涙を溢れさせ帝に縋りつくと、圭子の身体を受け止めた帝が苦渋の表情を浮かべた。