39 残夢(2)
延長七年-九二九年- 葉月 京の都
紫宸殿に陰陽寮から急ぎの文が届く。
渡された文を開き、読み進めた帝の表情が曇る。
「現在の斎宮から、新たな斎宮を選定せよという告げが出たとの事だ」
傍仕えの文官に、ため息とともに書かれている内容を伝える。
「では、そうなりますと、候補として現在未婚である妥子内親王様、澄子内親王様、欣子内親王様になるかと」
妥子内親王、澄子内親王は欣子と同じ側室の子となる。妥子が十五歳、澄子が十四歳、そして欣子が十二歳。
神に仕える身となるので、未婚の内親王である事が条件となり、斎宮になる為には三年ほど野宮である泊瀬斎宮で身を清め、その後伊勢へと入る事になる。
選出には候補者が出そろった後、吉日に亀の甲羅を使った卜定で選ばれるが、斎宮の任期は決まっておらず、神託や斎王自身の体調、天皇の崩御或いは譲位の際などによって変わる。
現在の斎宮は帝の異母妹であり、既に勤めて二十年程になる。
「・・・候補の内親王の中から卜定によって選定をすすめよ。ただし今回の事は内密に。外に漏らさぬように」
帝は文を届けた陰陽寮の使部にそう伝えると、使部は紫宸殿を退出する。
「斎宮の選出とは・・・」
帝の頭の中には欣子の婚姻を進めようとする圭子と、それを楽しみにしている欣子の顔が浮かぶ。
今回の未婚の内親王は欣子を入れて三人。
年齢から言えば、婚姻にあまり興味を示さない妥子辺りに決まるとありがたいと思うが、こればかりは神託の為、帝自身がどうする事も出来ない。
ただ、ひたすら欣子でない事を願うばかりだった。
◆◇◆◇◆
延長7年-929年- 長月 京の都
長月に入ると、神嘗祭の準備に大内裏内も慌ただしくなっていく。
神嘗祭とは、その年に収穫された初穂を、天照大神に奉げる感謝祭だ。
翌日には宴が開かれ、夜遅くまで続く。
多数の貴族たちが参加し、交流を深める宴でもある。
昼間は女子供も参加するが、日が沈むと皇族をはじめ貴族の女子供たちは退出し、各屋敷で女達だけで月見などを楽しむ。
「咲子さん、神嘗祭は常寧殿でお月見をしましょう」
「お月見ですか?」
東宮妃である暁子が、にっこりと笑顔で常寧殿に遊びに来ていた咲子を誘う。
行儀よく座り、絵巻物を広げ夢中になって読んでいた咲子が、暁子の弾む声に顔をあげた。
絵巻物はここ最近、都の貴族女性の間で流行っている、美しい貴公子と下級貴族の娘の身分違いの恋物語。
幼かった咲子ももう十歳、そういった夢物語に憧れるのだろうと暁子が微笑む。
暁子は咲子の母・紗子とは従姉妹だ。
紗子とは七つ違いで、琴の名手で控えめながらも優しく美しい紗子に暁子は憧れ、姉のように慕い、咲子が生まれると、まるで妹ができた様に咲子を可愛がっていた。
その後、十四の時に入内し東宮妃となったが、自分の産んだ子が男子だけなのもあって、更に咲子を可愛がり、度々宮中へと誘いこうして一緒に過ごしている。
咲子が二歳になる頃に紗子が亡くなり、その後暫くして正妻の娘ながら、咲子が側室に冷遇されていると知る事となる。
何か手はないかと思っていた所、東宮妃となる前に暁子の生家で行った宴で琴を披露した浮島が、常寧殿へ琴の披露の為にあがった事で、暁子が浮島に咲子の家庭教師を依頼し、今に至る。
今日は、咲子が読みたがっていた絵巻物が手に入ったからと、いつものように暁子が常寧殿へと誘った。
早速手渡すと、夢中になって読み始めた為、暁子はそっと傍仕えの侍女を退出させる。
浮島の教育により、読み書きの出来るようになった咲子は、絵巻物に添えられた文字を追う。
俯きがちの咲子の顔が時折笑顔を浮かべたり、悲しそうに眉を寄せたりと表情を変える様子を、暁子は楽しそうに眺める。
亡き紗子によく似た面差しで、幼子ながら愛らしく美しいと言われているが、暁子の憧れだった紗子よりも表情豊かだ。
そんな咲子を暁子は溺愛する。
「そう、一緒に月を見ながら甘味を食べましょう。そうね、その日はここに泊まったらいいわ。盈時様と浮島には、わたくしから文を出しておきましょう」
「楽しみです!」
「んっもーー! なんて可愛いの、咲子さん」
可愛らしく笑顔で答える咲子を、暁子がぎゅうっと抱きしめた。
「そうそう、絵巻物を読み終わったら咲子さんのお琴を聴かせてくれるかしら? 東宮様が今日、咲子さんが来ると知って、どうしても聞きたいっておっしゃるのよ」
暁子が少しむくれた様に言う。
その姿は、二十歳で男子二人をもつ東宮妃ではなく、まるで少女のような仕草だ。
「紗子お姉さまに似て、咲子さんのお琴は素晴らしいけど、折角の咲子さんの時間を邪魔されるのはいただけないわ」
「そのお詫びとして、先程東宮様より梨が届いておりますよ」
暁子の言葉に、困ったように笑う咲子を助けるように、几帳の後ろから暁子が最も信頼している侍女の香子が顔を覗かせた。
「あら、東宮様も気が利いていらっしゃる事。咲子さんの喜ぶものを送ってくるなんて。仕方がないわねぇ?」
東宮も、幼い頃からの咲子を知っている為、東宮妃である暁子が常寧殿に頻繁に咲子を呼び、可愛がっている事も承知している。
東宮自身、腹違いとはいえ妹はいるが、末姫の欣子よりも年下であるのに、しっかりと教育を受け、貴族の姫として立ち振る舞いの出来る咲子を好ましいと思っている。
特に琴の演奏に関しては、浮島からの指南もあってか、その音を聞いた者はみなお世辞ではなく称賛する腕前だ。
どちらかというと武よりも文を好み、特に音楽を好む東宮は、常寧殿にあがった咲子に琴の披露を願い、時に自身の笛の音を添える。
「では、その絵巻物を読み終えたら、東宮様を迎えましょう」
「はい」
咲子は暁子の言葉に可愛らしく頷くと、再び絵巻物へと視線を落とした。
「今日はいつにも増して、機嫌が良いですね」
「やあ、月白殿。そうなんだよ、今日は午後から常寧殿で琴を聞くんだ」
渡殿で東宮と出会った源昭仁は、鼻歌でも歌い出しそうな様子の東宮に、礼を取りながら声を掛ける。
「琴?」
「そう、暁子の親戚筋の子が遊びに来ていてね。とっても愛らしく琴の演奏も上手でね。あ、そうだ。午後から暇なら月白殿も来るかい?」
「せっかくのお誘いですが、この後も務めがありますので」
「堅苦しいなぁ。末席とはいえ君も皇族だよ。それに小さい頃は『兄上』と慕ってくれていたのに、呼んでくれないのは寂しいよ」
そう言って笑う、東宮と昭仁は三歳ほどの差がある。
「月影の家」の後継者として、早くからその能力を見出されていた昭仁は、当時の当主であった祖父・源倖仁と共に宮中にあがっていた為、東宮との交流もあった。
年も近く、腹違いの弟よりも昭仁と一緒に遊び、勉強や武術を習う事が多かった為、東宮自身も信頼する者の一人として昭仁を認めている。
「ここは宮中の渡殿、誰が聞いているかわかりませんからね」
そういって、昭仁は大人びた笑顔を浮かべる。
「そうか、残念だなぁ。ああ、そういえば。うちの末姫と帝が君に迷惑をかけているようだね」
思い出したように言う東宮の言葉に、昭仁が何でもない事のように首を振った。
「既にお断りはしていますし、私自身結婚はまだ考えておりませんから」
「ふぅん。でも後ろにはあの圭子殿がついているからね。ここだけの話、あの方は簡単には諦めないだろう。帝も溺愛している二人からの願いだ。叶えようと手を尽くすのは明らかだよ」
東宮の言葉に、昭仁が小さくため息をつく。
「『月影の家』の婚姻には貴族・皇族、帝すら介入できない事柄です。それが太古からの契約ですから」
「そうやって、君がいつまでも一人でいるのも原因だと思うよ? 君は思っている以上に女性には人気があるんだ。まあ、当主交代やら元服やら続いてしまったからね。仕方がないか。・・・早く私のように『唯一』を見つけたらいいと思うんだけどね」
そう穏やかに言う東宮の言葉に、昭仁が穏やかに微笑む。
「そう言う女人が現れたら、真っ先に報告しますよ。兄上」
久々に昭仁から『兄上』と呼ばれた東宮が、一瞬驚いたような表情を浮かべた後、それは嬉しそうに昭仁に向かって微笑んだ。