37 鏡
パパが戻ってきたのは、私が自宅に戻ってから二時間後だった。
電気も付けず、鞄の中身を床に散らばったままにして、ソファーに横になっている私の傍に腰を下ろす。
「・・・今日の事は、月森氏と連れていた娘に謝罪する事で手打ちになった」
「なんでっ」
何故、私が頭を下げなくちゃいけないのかわからない。
元々は私の居場所を、横から奪っていったのは榴ヶ崎えりだ。
私が本来いるべきはずの場所を望んで、何が悪いのかわからない。
パパが言うには、今日のパーティーの主催は、この後に控えた選挙の為には必要な人物だという。
その主催の、重要な取引先である人物の連れに暴言を吐いたという事で、慌てて本部からの指示が入り、そちらからの取り成しもあって、私とパパが今回の相手に謝罪をし、相手から許しを得られればお咎めなしという。
「由加里、暫くは家に居なさい。・・・そうだな、週明けから病欠としよう。家でゆっくり休みなさい」
パパは私を怒る事もなく、頭を撫でて言う。
でもその裏の意味は、月森拓との事は諦めろという事だ。
「どうして? どうして私がこんな惨めな思いをするの?」
クッションに顔を埋めたまま、呟く。
するとパパは小さくため息をついた後、話し始めた。
「今日のパーティーの主催である会長に、月森氏から婚約者が内定しているとの話があったそうだ。会長と親しい者達も一緒に聞いている。まだ、正式発表は先らしいが、これ以上騒げばお前の名前に傷がつく」
「パパが! 月森拓は私の相手には申し分ないって言ったじゃない! あの女を月森拓の隣から引きずりおろして! パパには出来るでしょう?!」
「・・・由加里。お前には他の相応しい男を見つけてやろう。これ以上動けばパパの政治家としての地位も危うくなる。わかるだろう? 次の選挙が大切な事は・・・。大丈夫だ、伝手で由加里に新しい話がいくつかきているんだ。彼よりももっと条件の良い男を選んでやろう」
パパの言葉を聞きながら、黙ってしまった私が納得したと思ったのか、パパはもう一度私の頭を撫でる。
「何なら明日、気晴らしに買い物に行ってくればいい。立花に暫くは由加里につくように言っておこう。家に居たくないのなら、別荘を使えるように用意しておこう」
そう言うと、パパは私の頭から手を離し部屋を出て行った。
―婚約? 誰と? 月森拓の横に並べるのはこの私だけ。なのに、誰と内定? あの女と? そんなの間違っている!
ゆるゆるとソファーから立ち上がると、部屋に置かれた姿見へと向かう。
癇癪を起した後、そのままソファーに横になったせいで、髪も服もいつもよりぐちゃぐちゃだ。だけど普段であれば、プロに手入れされた髪や肌、管理された食事で整ったスタイルには自信がある
ただの一般家庭の家とは違い、私には家柄もある。あの女の方が数段も劣るのに・・・
「・・・悔しい」
薄暗い部屋の中、外のわずかな明かり照らされ、鏡に映る私の顔は怒りに染まっている。
だって、納得できるはずがない。
私を完璧に彩る為には、月森拓が最適なのだから。
私の為に存在するものが間違った選択をしているのなら、その間違いを正さなくてはいけないでしょう?
―でも、どうやって?
パパは諦めろという。
今日の事から、パパは私の事より選挙を取る。
ずっと国政に出る事を願っていた人だから、月森拓を望む事はもう賛成してくれないだろう。
これから先、あの何の取り柄もない女が選ばれ、見下されるのを受け入れるなんて。
あの女の勝ち誇った顔を見るなんて嫌だ。
なにより、月森拓だけでなくあの女に頭なんて下げたくもない。
―ああ・・・悔しい・・・あと少しだったのに・・・
『そう、口惜しい・・・』
自分が独り言を呟いたのかと思い、俯いていた顔をあげると、薄暗い部屋の中怒りに染まり親指の爪を噛む姿が鏡の中に映っている。
ただ、違うのは鏡の中の「私」は俯いたままだ。その「私」がゆっくりと顔をあげると、まるで私とは別の意思を持ったような、暗く怒りに満ちた瞳で私を見つめる。
「ひっ!」
鏡の中の姿が自分ではないように見え、思わず喉の奥から声が漏れ、僅かに体を引く。
だけど、鏡の中の「私」は、私をじっと見つめていた視線を再び落とし、自身の身体を掻き抱く。
『口惜しい・・・あの方に大切にされるべきはこの私・・・なぜ、なぜ・・・』
独り言のように震える声が、私の頭の中に響く。
『・・・そう。いつも、あの女子が私の邪魔をする。あの方に愛しそうに名を呼ばれ、皆に玉の如く大事にされている・・・』
がくがくと身体を震わせた「私」が、憎々しげに吐く言葉が響く。
『なぜじゃ、なぜあの方は私を討った? あんな女子など死ねばよい! あと少し、あと少しで呪いは完成だった・・・! なぜ私ではなくあの女子を選ぶ・・・!』
鏡越しに「私」から激しい憎悪が伝わってくる。
『愛されるべきは、私! 皆に傅かれ大事にされるべきは、私! 何の取り柄もない、あの女子などではないはず!』
激しい感情に晒され、その場に座り込んだ私を鏡の中の「私」が見下ろし、呪文のように憎悪を含んだ言葉を繰り返す。
『なぜ、繰り返す、何故あの方は私を選ばぬ・・・!』
『あの女子が全てを邪魔をする』
『あの女子さえいなければ、斎宮などならず、私は贅沢に幸せに過ごせる』
『あの女子が死ねば、私が正室となる』
『あの女子がいなければ・・・!』
鏡の中の「私」が、握りしめていた右手をゆっくりとひらいた。
『あの日の呪詛の欠片はまだこの手に・・・あの女子の魂が砕け、我が身に取り込めば全てが私のものとなる』
そう言いながら「私」が手の中にある、黒くなった小さな紙片をふぅと吹く。
ひらひらと舞い、それが鏡の中から現れ、座り込む私の目の前に落ちた。
小さな三センチにも満たないその燃えかすの様な紙へ、私はゆっくりと手を伸ばす。
今の紙とは比べ物にならない程、その質の悪い紙には、黒色の墨で何かを書いたと思われる一部がある。
―そう、榴ヶ崎えりがいなくなれば?
ふふふ、と、身体の奥から笑いがこみあげてくる。
―今までそうしてきたじゃない。
私の足を引っ張るもの、私より目立とうとする者は、みんなパパにお願いすれば居なくなった。
パパがしてくれないなら、私がすればいいだけ。
―ああ、なんだ。簡単な事じゃないの。
あの女が目の前から消えてしまえば、それで終わる事。
―そうすれば。
ゆっくりと俯いた顔をあげ、鏡の中にいる「私」を見上げる。
『「私は全て手に入れられる」』
鏡の中の「私」と声が重なった途端、視界がぐらりと揺れた。