36 惆悵
―どうして、どうして、どうして・・・!
部屋に入った途端、手にしたバッグを床に叩きつける。
衝撃でバッグの口が開き中のものが散らばり、バック自体が勢い余って一本足のサイドテーブルに当たり、酷い音を立てて倒れた。
「由加里お嬢様・・・」
その音に驚いた、お手伝いの一人が慌てて部屋まで来たけど、感情を爆発させている私の様子を見て部屋の中に入ることができず、恐る恐るといった様子で、開いたドアの向こうから私の名前を呼んだ。
「放っておいて!」
怒りの感情のまま叫ぶと、彼女は「失礼しました」と小さく呟き、開けっ放しになっていたドアを閉めて立ち去る。
立花さんから、月森拓もこの日のパーティーに参加しているという話を聞き、パパにお願いして参加できるようにして貰った。
本当は、パーティーにはパパのいる政党の支援者が多いと言う理由で、パパと第一秘書とで参加する予定だったのを変更して、私を連れて行って欲しいとお願いした。
月森拓と会社で接点が持てないのであれば、他にも接触する機会を多く作ればいい。
そう言ったのは立花さんだ。
パパだって、月森拓との結婚は望んでいるし、私が強請れば今までのようにきっと叶えてくれる。
月森拓だって、次の選挙で当選確実と言われているパパの力は有っても困らない、むしろプラスになるはず。
今日はパパの支持者も多い。話を進めるにはチャンスだった。
フロアに入った途端、パパの支持者たちに囲まれてしまい、中々その輪から出ることができなかったのは想定外だった。
その場で適当に挨拶を済ませればお役御免だと思っていたのに、国政選挙を控えている為か、人が途切れない。
パパの支援者たちに愛想を振りまくなんて、面倒な事はしたくなかったけど、吉野の令嬢として参加するのだから、と、立花さんや他の秘書たちにも念押しされた手前、優雅に笑って相手をする。
―ああ、面倒くさい。さっさと終わらせなさいよ。
そんな事を思ってイライラとしていたら、近くに居る、別の輪の参加者の声が耳に入った。
「あら、そうなの? 珍しい」
「どうやら月森氏の婚約者らしいですよ」
「ああ。それでお披露目も兼ねてという事ですか」
―え・・・、婚約者?
耳に届いた言葉に、浮かべていた愛想笑いが固まる。
「由加里さん?」
目の前で話していたのは、パパの知り合いの会社の息子だ。
「あ、ごめんなさい。少し考え事をしてしまって。何のお話でしたか?」
「今度食事に行きましょうという話ですよ。以前もお誘いしたけど予定が合いませんでしたからね」
「それはまた、後日にお話ししまょう? ちょっと挨拶をしておきたい人がいるので、失礼いたします」
私は相手に愛想よく笑いかけ、その場から立ち去る。
ちやほやしてくれるから食事ぐらいは仕方がないかと思うけど、この程度の男が恋人や結婚相手なんてまっぴら。
それよりも、今は確認する事がある。
―月森拓が女と来ている? そんな話は立花さんから聞いてない!
今回はそれなりの規模のパーティーの為、招待客も多い。
あちこちで話が盛り上がる様子や、挨拶を交わす声が聞こえる。
「あの方が、月森氏の連れていらした方ですか」
「会長夫人の向かいにいる・・・」
右側から聞こえた声に反応して、その人たちが見ている方向へと顔を向けた。
そこから少し離れたテーブル席に着物の女、その向かいに目を引くマゼンタ色のワンピースにオフホワイトのボレロを着た女がいる。
ここからだと女の顔が見えない。どうしようかと考えながら、つい親指の爪を噛む。
―ああ、いけない。ネイルが傷む・・・
そう思った瞬間、二人の傍に別の二人組の女が話しかけた。
一言二言、着物の女と二人組が話した後、月森拓の連れと呼ばれていた女がこちら側を向いた。
―っ! 榴ヶ崎えり!
何のとりえもなく総務に勤めていたくせに、いつの間にか取り入って、私が本来いるべき場所に今のうのうといる目障りな存在。
COOのサポートという、分不相応なポジションについて、七階フロアでちやほやされていい気になっている女だ。
あれはあの女ではなく、本来であれば私が受け取るべきもの。
そんな女がここにいるのか。
そう思った瞬間、私の足が自然にあの女の居るテーブルへと向かう。
「なんでここにいるの、貴女が」
私に気付かず、笑顔を浮かべているあの女に怒りを抑えそう言うが、私の中の私が心の中で叫ぶ。
―いつもなんであんたが選ばれるの!
榴ヶ崎えりは困ったような表情を浮かべ、私の言葉には答えない。
「どうして貴女がここにいるのよ」
再度強く言うと、それに答えたのは榴ヶ崎えりの隣に座っていた、若い女だった。
「貴女こそ、いきなり何なんですか?!」
若い女の返す言葉に、益々イライラが募る。
「場違いなのはあなたでしょう? 今日えりさんが着ているものは月森さんが用意したって言ってたもの。大体人の会話にいきなり割り込んで、挙句そんな横柄な物言いをして」
場違いなのは榴ヶ崎えりの方だ。
この女も周りもそう。
何故、この女ばっかりちやほやするのか。
私に恥をかかせて、すました顔で座っている事が許せなかった。
何の後ろ立ちもないこの女の頬を打って、侮辱されたからし返しただけだと言えば、きっとパパがいつものように取りなしてくれる。
そんな思いが浮かび、カッとして思わず右手を振り上げる。
だけど私の掌は、振り上げたところで止まってしまう。
「えりさん」
後ろから聞こえたのは、聞き覚えのある低めの声。
ゆっくり振り返ると、そこには月森拓の姿があった。
こちらに歩いてくると、私の事なんて視界に入っていないかのように、まっすぐと榴ヶ崎えりの傍に行き、甘い視線向けながら手を差し出している。
「ただいま、えりさん」
「・・・おかえりなさい、拓さん」
終始被害者ぶった顔をした榴ヶ崎えりに、月森拓は普段見せた事がないような甘い表情を浮かべ、名前を呼ぶ。そして、榴ヶ崎えりも当り前のように、月森拓の名前を呼んでいる事が衝撃だった。
―私が何度か名前で呼ぶことを頼んだのに、私には一度も呼ぶ事も、呼ばせる事もなかった名前を、なんで!
呆然としている私の横を通り過ぎる二人と入れ違いに、慌てた様子でパパがやってきた。
「由加里、どうしたんだ!」
「パパ・・・」
怒りに体が震えるのを抑えながら、パパに縋りつく。
そう、今あった事をパパに伝えれば・・・。
「吉野さん」
私がパパに泣きつこうと涙を浮かべると、後ろから榴ヶ崎えりと一緒にいた、着物の女が声を掛けた。
私の泣き顔に慌てたパパの顔が、私ではなく女の方へと向く。
「いつまでも娘さんが可愛いのは同じ親として理解致しましょう。でも少々甘すぎではないかしら?」
偉そうな物言いに、私はムッとして女を見る。
「主催である主人が招いた、M.C.Co.Ltdの代表のお連れの方に対しての態度、許されるものではありませんよ。そのお年にもなって礼儀も分からないんなんて」
その言葉に、頭に血がのぼるような感覚になる。
「・・・っ! 申し訳ありません」
「パパ・・・?」
パパが縋りつく私を離すと、着物の女に頭をさげる。
「パパ、どうして・・・っ」
「謝る相手が違うでしょう?」
着物の女は、呆れたようにパパを見てため息をつく。
「謝罪は私ではなく、迷惑をかけたこちらのお二人と、月森さんとえりさんにでしょう?」
「私は謝って貰う必要はありません。でも、えりさんには謝ってください」
若い女が着物の女に言うと、私をきつい視線で見つめてくる。
「・・・わかりました」
「パパッ!」
「由加里ッ」
思わず声をあげると、パパが制した。
「しかし、私も今しがた聞いたばかりで、何が何だかわからないというのが正直な所なのです」
その言葉に、着物の女が再びため息をつく。
「・・・そうね、説明は必要でしょう。では、別室で主人も交えてお話ししましょうか」
そう言うと、会場スタッフを呼び指示を始めた。
「由加里、先に帰りなさい。誰か迎えに寄こす」
「そうね。貴女は一緒にいらしても感情的になってしまうでしょうから。娘さんがいなくても会場スタッフも見ている事ですから、お話はできるでしょう」
急に慌ただしくなった周りの様子に、遠巻きに見ていた人たちがヒソヒソと話し始める。
「あら、皆さん。場の空気を乱してしまって申し訳ありません。引き続きお楽しみくださいね」
着物の女がそう言うと、所々にいた人の塊がサァっと散っていく。
その様子を見て、私の神経が余計に苛立つ。
パパは、私の事など見ずに慌ただしくどこかに行ってしまい、立ち尽くす私はスタッフに促され、ロビーのソファーに座らされる。
なんで! なんで私がこんな目に・・・!
全部、榴ヶ崎えりのせいだ!
迎えに来た立花さんに促されるまで、私は一人、怒りに震えていた。