27 激昂
「では、行きますよ」
さり気なく、えりの段ボールを持ち上げ、成瀬が歩き出す。
その様子を見て、遠野がくすくすと笑いながら、微笑ましいものを見るように声を掛けるのを、吉野は俯きながら聞く。
その手は白くなる程強く握られ、小刻みに震えていた。
パタパタと成瀬の背を追いかけるえりの姿に、睨みつけるような鋭い視線を送っているのを、遠野がちらりと目の端に留める。
「さて、うちの課は九時三十分から一時間ほどミーティング室を抑えてるわ。あちらで簡単な自己紹介と、これからの仕事内容の確認をしましょう」
遠野が何事もになかったようにその場のメンバーに声を掛ける。
えりがCOO室付きとなった為、メンバーは五人になる。
遠野の言葉に、吉野を除く四人が席を立ち、それぞれ手帳やノートを手に移動を始めた。
「吉野さん? 時間が押すと困るから移動しましょう」
遠野が再び吉野だけに声を掛けると、吉野は遠野に睨みつけるような視線を向け、怒りに任せたように大な音を立て席を立った。
周りからはその音を聞いて「何事か?」と視線を向けたが、吉野は取り繕う事もなく不機嫌な表情のままフロアを出て行ってしまい、その背を見ていた遠野が呆れたような溜息をついた。
「今日はざっとこんなところかしら?」
ミーティングも終盤、遠野が集まった皆に視線を向け、問いかける。
「では、何かあれば随時相談していきましょう。これまでで、何か確認したい事は?」
「・・・納得できません」
今まで俯きがちではあったが、不機嫌な様子を隠さずにミーティングに参加していた吉野が、怒気を含んだ声を発する。
「・・・なにが納得できないのかしら?」
遠野は朝からの様子を見ていて察していたが、あえて疑問を吉野へと返す。
「榴ヶ崎さんの事です! なぜ彼女なんですかっ! 私も希望を出していました! 本社人事なら遠野さんも知ってるはずよ!」
「希望。・・・ああ、そういえばそうだったわね。あと私はこのチームでは主任よ。言葉は選んで」
遠野はその様子に動じることもなく、手元のファイルの1つを捲る。
「・・・ッ そんな事より、あの子より私の方が先輩です! 経験も長いし、何よりふさわしいのはっ」
「残念ながら、あなたには彼女と違って実績がないわ」
「実績って!」
「さっきもCOOが言っていたでしょう? 榴ヶ崎さんの社内、社外ともに評価はかなり良いの。特に社外。受付での対応や業務内容の把握等、下請けや他社営業の評判は群を抜いているの。先発隊の司波さんや桐生さんはともかく、月森COOや久我さん、宗方さんは的確なフォローが必要よ。彼女であれば、COO含め全員に対してもフォローができる」
「それはただ単に、受付で愛想を振りまいているから・・・」
「その愛想すら、相手の肩書で変えてしまうあなたはどうなのかしら?」
書類を見ながら淡々と告げていた遠野が顔をあげ、吉野の顔を見る。
「相手への印象は大事よ。あなたのように態度をころころ変えていては信用にかかわるわ。その点榴ヶ崎さんは一定だし、判断も的確。実際彼女のフォローで上手く進んだという社内から報告も出ているわ」
遠野の言葉を聞いた吉野の顔が、怒りと羞恥で赤く染まる。
「大方、貴女がCOOに近づきたい理由は想像できるけど。貴方では、無理ね。それに」
言葉を切った遠野が、ファイルに視線を落とす。
「榴ヶ崎さんの事は、月森COOが望んだ事よ」
バンッ!
その言葉が言い終わるか終わらないかで、吉野が手にしていた手帳を机に叩きつける。怒りに酷く歪んた顔で、吉野は遠野を睨みつけた。
「色々と手を回したようだけど、諦めなさい」
吉野は、遠野の言葉に反射的に不満を口にしようとしたのか口を開きかけたが、その口元をぐっと歪ませ、無言で叩きつけた手帳を手に取り、ミーティングルームを出ていく。
ミーティングルームの扉を開けた吉野が、恐ろしい形相で中にいる皆を睨みつけると、そのまま無言で退出した。
「ひぇー。怖い怖い」
酷い音を立てて扉が閉まると、今までの様子を顔色一つ変えずに傍観していた千葉が、茶化すような声音で呟く。
「・・・この流れは想定内よ」
遠野の冷静な言葉にやれやれ、と、いった様子で千葉が肩をすくめる。
「あの様子だと、榴ヶ崎さんに何かするんじゃないですか?」
「そうね。でもそれは彼らの仕事だもの。『守り』には抜かりがないでしょう。心配はいらないわ」
「まあ、返り討ちでしょうかねぇ。それにしても、彼女のあの様子」
「ええ、わかっているわ」
遠野の言葉に、千葉が眉を寄せた。
「できれば上手く回収できればいいんですけどね」
「それは、吉野さん次第ね。取り敢えず、さっきの事はこれ以上触れずに、いつも通りに仕事をしてちょうだい。吉野さんに対しても何もなかった事のように接して」
千葉の言葉に、この話は終いだとばかりに遠野が言う。
「戻ってきますかね?」
「戻るわよ。月森COOへの執着は並大抵のものではないようだし。こっちの人事辺りに泣き言を言って、どうにもならないってわかったら戻ってくるでしょう」
淡々と告げる遠野の言葉に、千葉がやれやれとため息をつくと、ミーティングルームにいる他のメンバーに「と、言う事で宜しく」と告げると、皆が頷いた。
怒りのままミーティングルームを飛び出した吉野は、その足でロッカールーム横の予備室へと向かう。
幸い誰もおらず、思わず吉野は感情を爆発させ、持っていた手帳を再度備え付けの机へと投げつける。派手な音が室内に響く中、吉野は悔しさで奥歯を噛み締めた。
―なんなのッ!
怒りに体を震わせ、その衝動のままに手にしたスマートフォンを操作をする。
ワンコールで出た男の声が、名前を言い終わる前に吉野の声が被る。
『はい、立花で―』
「いったい、どういうことなのッ?!」
『由加里さんですか。いきなりどういう事、と申されましても』
漏れ聞こえる声は、吉野の感情とは真逆に穏やかに響く。
「ちゃんと頼んだでしょ! 私をあの人の傍にって!」
『おや、報告では七階フロアに配属と聞いていますよ』
「七階だけじゃだめよ! 私があの人の傍にいなくちゃ意味がないのよ! なんなの、なんであの子が選ばれてるのッ! 選ばれるのは、この私のはずでしょう?!」
幼い頃から望めば叶えられてきた。
代々から続く地元政治家の家に生まれ、溺愛され何不自由なく過ごした。
自分が少しでも「気に入らない」と言えば、自分に甘い両親はすぐに叶えてくれた。
それは物だけでなく、人間関係も全て思う通りだった。
自分が可愛い、美しいという自信もある。
小学校から地元では有名な私立に通い、大学を卒業すれば父の仕事の手伝いという名で、就職せずに自由に過ごす予定だった。
いずれ父親が見繕ってきた相手との見合い話が出るだろう事も予想していたが、それでも自分の眼鏡にかなわなければ妥協する気もなかった。
大学四年の時に、これからの経験の為と、父に伴ってあるパーティに出た時に会場にいた人物。
聞こえてくる大手デベロッパー会社の御曹司の名。容姿も今まで出会った男たちが足元にも及ばない。
父親の話では三人兄弟の末、社長の座は長男が継ぐとしても、自社グループ会社のどこかを継ぐ事になるだろうという事だった。実際、彼が手掛けている大きなプロジェクトが動き始めるという。
―そう、彼こそが私にふさわしいの。
そう思ったからこそ、父親に「あの人が良い」と言うと、直ぐに吉野の父親は動いたが、相手が全てその手の話を断っていた為、吉野の父親の元にも丁寧な断りが入った。
ならば、と、とっくに就職活動は終わっていたが、そこは顔の広い父親の伝手に頼み、吉野はM.C.Co.Ltdの地元支店に入社した。
パーティで聞いたプロジェクトが、自分の住む地方都市であり、数年後にその指揮の為に来ると言う情報があったからだ。
初めは手塩にかけた娘が就職すると聞いて反対していたが「結婚相手はあの人でなければ嫌だ」と父親に訴え、父親にしてみても、娘が大手デベロッパーと繋がれば利はあると考え、今に至っている。
だが、あれから数年が経ったが、色よい返事は月森側からはない。ならば、本人に一番近いポストに就き、強引に接点を作ればいい。
そう思っていたのに。
―彼の立場上、私の持っているものは、彼には欲しい物のはず。
美しい妻に、権力。
自分ならば彼の求めるものを補える。
それが正しく、決められた運命なのだから。