26 萌す
なんというか、入ってきた吉野さんはいつにも増して華やかだった。元々華のある人だけど、輪を増しているような気がしたのは気のせいではないと思う。だって、その様子にほんの少し、遠野さんの眉が動いたように感じたから。
入り口近くに居た人に自分の部署の場所を聞いたのか、視線がこちらへ向いたあと真っすぐこちらに来る。
今日は初日という事もあって、ほぼ全員が早めにフロア内に集まっている所に一人入ってきた為か、とても注目を集めている状況にも関わらず、そんな周りの視線も気にしていない様子で吉野さんが私に声を掛けた。
「おはよう。榴ヶ崎さん」
「吉野さん、おはようございます」
私に向かって笑顔を向けると、吉野さんは奥にいる遠野さんへと視線を向ける。
「初めまして、ですよね?」
「ええ、この度本社から来ました、遠野です」
遠野さんの名前を聞いた途端、様子を見ていた周りから声が上がる。
「本社の遠野って、あの人が・・・」
「まじかよ」
周りの騒めきに私も少し戸惑っていると、名古屋から転勤してきたという千葉さんがこっそりと耳打ちしてくれる。
「遠野さんって、本社で将来の人事部長候補って言われてるんだよ」
その言葉に、思わず目をぱちぱちとさせてしまう。
「え、凄い。遠野さんってお若いですよね」
「だろ? 確か本社から来る宗方さんと変わらないぐらいだよ。そんな人がここに来たって言う事は、どれだけこのプロジェクトに本社が期待してるかって事だよね」
この7階フロアだけで、1つの会社と言えるぐらい、色んな部署、業種の人が集まっている。
会社の理念がやる気と実力があれば発揮する場を与えるというものだからか、男女比の偏りもない。千葉さんが言うように、遠野さんも能力があって期待されてる一人だろう。
「改めて、ここには凄い人たちが集まってるって感じます」
「何言ってるの? 榴ヶ崎さんもその選ばれた一人だよ」
「えっ?」
思わず言われた言葉に本気で驚く。
「そう、なんですかね?」
語尾が疑問形になってしまい、千葉さんがくすりと笑った。
いつの間にか打ち解けている千葉さんと私の様子を見て、吉野さんが不機嫌そうな表情を浮かべた様子が視界に入るけど、敢えて気が付かない振りだ。
この前の時から、何となく吉野さんには良い印象を持たれていないんだろうな、という雰囲気は感じていたから、ここで吉野さんに何か言葉をかけて、他の人を嫌な気分に巻き込むのは申し訳ない。
吉野さんには申し訳ないけれど、気が付かない振りで千葉さんと小さな声で話していると、今度はフロア入り口付近がざわつく。
慌ててそちらを向くと、銀縁眼鏡の男性が入ってきたのが目に入り、続いて入ってきたすらりとした男性に思わず息をのむ。
―あれ?・・・あっ!
視界に入ってきた、漆黒の髪に切れ長の目元の男性に思わず目を瞠る。
目の前にいる男性は、半年前に出雲の『銀の狐』で出会った拓さんだった。
あの時とは違い、上質なスーツを身にまとっていても見間違うはずがない。
思わず声をあげてしまいそうになるのを、慌てて抑え、息を文字通り飲み込んだ。
一人心の中でパニックを起こしている私の気持ちをよそに、銀縁眼鏡の男性が落ち着いた声で話し始めた。
「COO付き秘書の成瀬と申します。本日より月森COOの元、土地開発プロジェクトが開始となります。此処にいる皆さんは成功に導く為に集結した精鋭部隊です。その心づもりで取り組んでください」
成瀬さんが淡々と挨拶をした後、一歩後ろへと下がり、代わりに拓さんが半歩前に出た。
「月森拓です。COOとして、まずはこのプロジェクトの為に手をあげてくれた皆さんには感謝します。これから動き始めるプロジェクトは、今後、我が社のモデルケースとなります。成功の為、皆さんの力を発揮して欲しいと期待しています」
驚いて身体が固まっていても、耳に届く心地よく響く声はあの時の記憶の通りだ。
一旦言葉を切り、フロアを見回していた視線が私と目が合った時、拓さん・・・月森COOの目が一瞬だけ瞠られた後、ふわりと緩んだ気がした。
―まさか、COOだったなんて・・・!
今回のプロジェクトのCOOであれば、社内報などで絶対目にしていたはずなのに、私の中では縁のない人という気持ちが大きかったんだと思う。全く記憶がなかった事に、一人焦る。
「さて。司波、桐生」
「はい」「はい」
フロア内にいた二人が声を揃え、返事をした後、皆の前へ出る。
「そして、こちらにいる久我、宗方」
「はい」「はい」
月森COOの後ろに居た久我さんが、優雅という言葉がぴったりな笑顔を浮かべ、宗方さんがぺこりと頭を下げた。
「私のサポートを担っている成瀬。私を含め六人が指揮を執る形です。営業、流通に関しては司波と桐生。管理、事務に関しては久我と宗方がこのフロアでは私に次ぐ責任者です。何かあれば四人に報告や相談、提案をしてください」
そう言いながら月森COOの視線がこちらへ向くと、後ろにいた吉野さんの弾むような雰囲気が背中越しに伝わってきた。
「そして」
言葉を続けながら、真っすぐこちらを見る月森COOの視線と合う。
その瞬間、自分の中の何かが捕らわれてしまうような感覚になった。
―なんだろう、この感じ。
そう思った時だった。
「榴ヶ崎さん」
月森COOと目が合った瞬間に感じた感覚に気持ちが向きすぎていた私は、月森COOから自分の名前が呼ばれた事に気がつくのに、一瞬遅れてしまった。
トントン、と肩を叩かれ思わず振り返ると、遠野さんが口だけで『呼ばれてるわよ』と言う。その言葉に慌てて月森COOへ向きなおす。
「―はいっ」
あたふたとする様子に、月森COOの目元が甘く緩んだ気がした。
「彼女はCOO室付き、ここの四人の内外のサポートをして貰うことが決まっています。榴ヶ崎さんの評価は、こちらの支社や社外から上がってきていて、十分実績として評価されています。今後、四人に連絡が難しい場合は彼女を通して貰っても構いません」
月森COOの言葉に、支店内移動組がわっと声をあげる。そちらを見ると、男女問わず何らかのジェスチャーで喜びを伝えてくれた。
「榴ヶ崎さんは人気があるのね」
その様子を見ていた遠野さんが、くすくすと笑いながら声を掛けてくれた。
「では、今日はそれぞれの仕事内容の確認と、チームでのミーティングを行って、明日以降順次業務に入ってください。ああ、転勤組の社内便の荷物は、明日の便で届きます」
成瀬さんの声に、皆が動き始める。
COO室付きとなったはいいけど、私の仕事場所はここで良いはず。そんな事を思いながら、どこから片付けようかと足元に運ばれていた段ボールを眺めていると、成瀬さんに呼ばれる。
「榴ヶ崎さん」
「はい」
「あなたのメインデスクはCOO室に用意してあります。荷物は・・・、ああ、これですね」
そう言うと、足元に置いてある段ボールを軽々と持ち上げてしまう。
「え、あ! 自分で持ちます!」
「いえ、構いませんよ。女性に持たせて案内するのは性に合いません」
「あら、相変わらず成瀬さんは優しいですね。榴ヶ崎さん、気にせず持ってもらいなさいな」
面白そうに笑いを含めて言う遠野さんの言葉に、ますます私は慌ててしまう。
「では、行きますよ」
そう言う成瀬さんの表情がさっきの挨拶の時とは違い、とても柔らかく感じて、一瞬だけ私の動きが止まってしまう。
そんな私を気にする事もなく段ボールを抱え、すたすたと歩きはじめる成瀬さんの後を、私は慌てて社内バッグを持って追いかける。
私自身も、新しい環境に気持ちがいっぱいだったのかもしれない。
斜め向かいのデスクにいた吉野さんが、机の下で手を握りしめ俯いているのに気がつかなかった。