15 月鏡
神域を出て、現世に戻ったのは現世の時間では夜八時を少し回った頃だった。
「公卿はんは少し銀の狐でゆっくりしてから帰った方がええな。週明けたらやる事がぎょうさんあるし」
一緒に戻るという自分の言葉に、そう提案したのは久我だ。
「折角だから楽しそうな姫さんの顔を見てから戻れ」
「白狐達からの報告では、明日の朝早くから、
もう一度出雲大社に顔を出すらしいですよ」
こちらにいない間、彼女たちについていた白狐達から報告を受けたらしい司波と成瀬が言う。
一緒に戻り、月森拓として、まだやるべき仕事等を片付けるつもりだったが、五人がかりで説き伏せられ、最後には桐生から『ありがたく好意を受け取れ!』と怒鳴られてしまい、苦笑いが浮かぶ。
彼を含め皆の気遣いだろう。
「公卿様、お酒でも召し上がりますか? 良い日本酒があるんですよ」
縁側に座り、庭の月を眺める自分に多江が声を掛けた。
「ああ、いただこうか」
「では、一緒におつまみもご用意しましょう」
「我も良いか?」
庭の奥から澄んだ声がかかる。
「まぁまぁ、宇迦之御魂神様。お久しぶりでございます」
「これは宇迦之御魂神様」
「おや、御劔達はいないのか。先ほどはゆるりと話せなかったから、ここでならばと思うたのだか」
そう言いながら、宇迦之御魂神様が自分の隣へ腰かける。
「ええ、公卿様はゆっくりするようにと仰って、方々はお帰りになられましたよ。では急いでご用意いたしますね」
笑顔で答える多江の言葉に、宇迦之御魂神様はゆっくりと頷く。
「お待たせいたしました。こちらをどうぞ。お酒が足りないようでしたら仰ってくださいね」
盆にのせられた片口徳利が一つとぐいのみ、小付けが二つずつ。
多江はぐいのみを手渡すと、宇迦之御魂神様に注ぎ、続いて自分へと注ぐ。
「すまぬな」
「ありがとう」
「いえいえ。ではごゆっくり」
礼を伝えると、多江は穏やかに微笑み、奥へと戻って行った。
何を喋るもなく庭から聞こえる虫の音を聞きながら、藍色の空に浮かぶ月を眺め、ゆっくりとぐいのみを口へと運ぶ。
いつのまにか月が高く闇夜に上り、庭にある池にもその姿を映していた。
「今日は致し方ないとはいえ、其方には辛い思いをさせた」
暫く二人で月を眺め、酒を口に運んでいたが、宇迦之御魂神様が言葉を紡ぐ。
「お気になさることは御座いませんよ。あれはあれで必要だった事ですから」
「それでも、其方にはきちんと謝りたくてな」
ぐいのみを盆へ置くと、穏やかだけれども少し困ったようにも見える表情で、宇迦之御魂神様が少し体をこちらに向けると、言葉とともに視線を下げる。
「すまなかった」
「・・・謝罪は確かに」
この方も躑躅を愛し、庇護し、守り続けた方だ。
幼くして母を亡くし、正妻の娘であっても義父上様との時間も、わずかしかなかった躑躅を大切に愛しみ育ててくれた。
母親譲りと言われる美しく可愛らしい容姿だけでなく、まっすぐ素直で、たおやかでありながらも芯の強い躑躅は、この方から沢山の愛を注がれたからだろう。
「御劔達にも謝らねばな」
「それは大丈夫だと思いますよ。しっかりと鬱憤は晴らせたようです。それに・・・私と同じように宇迦之御魂神様のせいではないと分かっていますよ」
そう言いながら、宇迦之御魂神様の器に酒を注ぐ。
彼ら御劔達は、幼い躑躅を守る為に、宇迦之御魂神様に選ばれた者達だ。
宇迦之御魂神様の眷属でありながら、母のように慕い、人の子である躑躅を末妹として、今も溺愛する彼らのただ一つの願いは、躑躅が幸福である事のみだ。
彼らは躑躅の為であれば、その命を出す事さえ惜しまないだろう。だからこそ、千年前のあの時に彼らと交わす時に約束させた。
『躑躅を泣かせる事は許さない』
今日、迅雷となった司波が放った『消滅してもいい』と言った言葉も本心だろう。
それでも躑躅が目覚めた時に誰か一人でも欠けていたら、躑躅は自分を責めて泣く。だからこそ、彼らは欠ける事無く俺の傍に居ることを言霊とした。
だからこそ、今日のあの時二人は『神殺し』を行う為に、扇を引く事は本来は出来なかった筈だ。
「思金神が止めなければ、あれらはあのまま扇を引いていたであろうな」
こちらの思考を読んだかのように、宇迦之御魂神様が口にする。それぐらいの怒りが御劔達にあった。
「なかなかに往生際が悪かったですからね、お二方も」
「ほんにの」
俺の軽口に、宇迦之御魂神様がくすりと笑う。
「あのまま扇を引いても構わないというに。迅雷と不知火の消滅を止めてやる事ぐらいは出来る」
続いて出た言葉に今度は俺の方が笑ってしまう。言葉通り、この方は思金神様達を嗾けてでも二人を助けただろう。
それに、躑躅を守る為には彼らの存在は必要だ。
「躑躅はこの手で育て上げた愛しい娘だが、御劔達も同じように我が手元で育てたも同然の子供達であるからな」
穏やかに微笑みながら告げる言葉に、そっと目を伏せる。
「・・・こうやって、よく躑躅と月見をしたのを思い出します」
こくりと一口、酒を口に含むとふわりと芳香が広がる。伏せていた目をあげ、庭にある池に映る月、それからゆっくりと視線を、藍闇に浮かぶ丸い月へと向ける。
「そうであったな・・・」
当時を思い出すように、宇迦之御魂神様も月を見上げた。
「もちろん其方も、大事な婿殿じゃ」
視線は月を見上げたまま、宇迦之御魂神様が微笑みながら言う。
「まさか、大事に愛しんで育てた娘を、其方にあっという間に手元から攫われるとは思わなかったぞ」
当時の事を思い出したのか、ふふふと声を出して宇迦之御魂神様が笑う。
「私も急いで手に入れなければと、焦っていたのですよ。一目見た時から愛おしく、誰にも触らせたくないと思う程に」
「月の公卿と呼ばれた其方も、恋落ちるのかと驚かされた」
そう言いながら、手にしていたぐいのみを盆へと戻す。
「御劔達もだが、其方がいなくなってしまっては、目覚めたあの子が泣くどころではないであろう。それでも其方にしか頼めぬ・・・。これは神としての言葉ではない、あの子の母としての願いじゃ・・・。あの子を守っておくれ」
宇迦之御魂神としてではない、躑躅の母代わりとしての切実な思いが伝わる言葉だった。
月鏡 晴れわたった空にかかる満月を鏡と見立てた、 月を映した池の水面を鏡にたとえた語
最後やっぱりヤンデレ発言・・・