103 チカヅキタイ
会社に復帰して三日目の水曜日。
少しずつ元のペースが掴め始めたのか、今日は午前の予定を終わらせる事が出来た。
机に出してある書類を片付けたら、丁度良い具合にお昼の休憩になる。
そう思いながら、書類を整えていると午後からの打ち合わせの為に、身支度を始めた拓さんに声をかけられる。
「土曜日、えりさんの予定がないなら、この間話したドライブに誘いたいんだけど、どうかな?」
成瀬さんは車の準備で駐車場へ行っていて、司波さんと桐生さんは打ち合わせで出かけている。宗方さんは資料室で、久我さんはガラス越しの向こう、フロアに居る千葉さんと話している。
COO室は私と拓さんだけだったから、気兼ねなく拓さんも口に出したのだろう。
私は拓さんの言葉に、土曜日の予定を思い出す。
「いいえ。予定はないです」
「じゃあ、僕との予定でいいかな。丁度この日は花火大会だって聞いたからね。昼はドライブ、夜は高台の花火が見えるレストランで食事をしよう」
拓さんの言葉で、そう言えば土曜は大きな花火大会がある日だと思い出す。
この花火大会は規模が大きく、花火の日は、毎年交通機関が大混雑するのが恒例だ。
一度だけ香澄ちゃんと行ったけど、余りの人の多さに花火を見に来たのか人の波を見に来たのかわからないね、という会話をしてからは行く事もなく、見れるのならば数年ぶりになる。
「ドライブも花火も、楽しみです」
「じゃあ、今日はえりさんの退社時間に間に合わないかもしれないから、続きはまた夜の電話でも。行ってくるよ」
私が笑顔で答えると、拓さんがふわりと笑う。
「気を付けて行ってきてくださいね」
私の言葉にさり気なく頭を撫でてから、書類ケースを持って拓さんがCOO室を出ていった。
残された私は、向けられた拓さんの甘い視線と髪を撫でられた事に、一人赤くなる。
「COO室では幾ら二人きりっていっても、フロアから見えるってこと考えてへんのやな」
拓さんと入れ替わりで、苦笑いを浮かべた久我さんがCOO室へと入ってきた。
「あっ!」
久我さんの指摘に、今度は私の顔から血の気が引く。
「大丈夫、他の皆には見えてない筈や。それに、COOが姫はんに構いとうて仕方があらへん。まあ、姫はんの頭撫でたくなる気持ちはようわかるし」
続く久我さんの言葉にホッとしつつも、その後の言葉に思わず眉が寄る。
二十代半ばの大人女子のつもりだったけど、そんなに子供っぽいのかなぁと少し不安になる。拓さんの隣に並ぶなら、それなりに気をつけなくてはなんて考えていたのが顔に出ていたのか、久我さんが笑う。
「なんて言うか、愛でたなるというか。それにCOOも今の姫はんが良いんやから、そのままでええんちゃうかな」
優しく言われ、私は返事をしながら小さく笑う。
私はこうやって話す久我さんが当たり前だと思っていたけど、久我さんは支店の他の階の人達からは、優雅で整った見た目もあってか冷たそうに見えるらしく、異動の挨拶に来た香澄ちゃんが、私と会話をしながら笑う久我さんを見て、驚いていたのを思い出す。
「まあ、COOには注意やな」
そんな事を思っていると、久我さんがそう言いながら笑う。
「私も気を付けます・・・」
思わず言うと、久我さんが驚いた顔をした。
「なんで? 姫はんはなんも悪ないやろ? 寧ろだだ漏れなCOOに鉄拳やな。月曜にも言ったけど、あの人隠す気あらへんのちゃうか?」
クスクスと麗しく笑う久我さんを見て、私も苦笑いを浮かべる。
真っすぐに、私を見てくれる拓さんの気持ちに、嬉しいと思う気持ちがあるのも事実。
あんなに素敵な人が、私を好きだと言ってくれるのを隠す事も、少し心苦しいのも事実。
社内恋愛って大変だな、と、私は久我さんの言葉を聞きながらぼんやりと思った。
「そういや、姫さん。明日デートだってな」
金曜日の退社時刻間際、司波さんに突然話を振られ、私はしどろもどろになってしまう。
「え、あ、はい・・・」
「いや、この間凄く自慢してたから」
私の言葉に続いたのは桐生さん。
因みに、拓さんは成瀬さん、久我さんと共にミーティングルームで来客対応中だ。
「自慢・・・」
一体何を自慢したんだろう・・・。というか、自慢するポイントってあるのかな・・・?
思わず呟いた私に、宗方さんも一緒に苦笑いを浮かべる。
「あの人、ああ見えて浮かれてるから」
ぶはっ、と堪えきれず吹き出した桐生さんは楽しそうに笑う。
そう、なんだ。
そっか。拓さんも一緒なんだ。
拓さんと出掛ける事が決まって、夏に入る前に香澄ちゃんとのお買い物で見つけたベージュピンクのワンピース。袖がふわりと透け感があって、ウエストリボンは前で結ぶロング丈で、スカートもふわりと広がり一目惚れして買った一枚だ。
そのワンピースに靴とバッグはどうしよう、髪留めは出雲で買ったものをつけてと、誘われた水曜日の夜から悩んでいたりする。
拓さんと出掛ける事を楽しみに、色々考えている自分が随分と浮かれているのも自覚していた。
一日一緒に過ごすのだから、出来るだけお洒落をしたい。
こんな風に思っているのは、私だけかもしれないと思っていたけど、拓さんも一緒だったんだ。
そう思うと、思わずふふふっと笑ってしまう。
「まあ、COOは姫さんを甘やかす気満々だからな。遠慮なく甘やかされてくればいい」
勤め先でも公認の甘やかしなんて凄いな、と、司波さんの言葉に思わず苦笑いが浮かぶ。
「そういや、ドライブって言ってたな。って事は、COOの車か。・・・姫さんCOOの迎えに驚くなよ」
司波さんが苦笑いと共に言う。
え、なんだろう?
司波さんの言葉に、桐生さんと宗方さんも笑った。
いつもより早く目の覚めた私は、今日の為に丁寧にメイクをする。鏡の前で何回も全身をチェックして、確認してしまうのは乙女心だ。
ドキドキとする胸元に手を当てて大きく深呼吸をしたら、バッグの中に入れていたスマートフォンが震える。
時計を見ると「迎えに行く」と言われた十時半。スマートフォンを取り出してみると、拓さんからのメッセージが入っていた。
『マンションの送迎スペースで待っているよ』
『わかりました。直ぐおりますね』
急いで返事を送ると、もう一度鏡を覗いて全身を確認してから、リビングに居るお母さんに声をかけて玄関を出た。
ドキドキと鳴る心臓を落ち着かせるように、エレベーターの中で大きく深呼吸をすると拓さんの待つ送迎スペースへと向かった。
『まあ、色んな意味でびっくりするかもしれないが、乗り心地は悪くないし、COOの運転は俺らのお墨付きだ』
昨日の定時間際の会話の中で、司波さんから言われた言葉が頭をよぎる。
送迎スペースには、真っ黒な流線型の車に体を預けて、私を待つ拓さんの姿が目に入った。
拓さんはざっくりとしたサマーセーターを着て、インナーは白。モノトーンだけど会社では見る事の無いカジュアルダウンした雰囲気だ。
それよりも、私は後ろの車に意識が向いてしまう。
―スポーツカーって言うよりも、外国のスーパーカーみたい。
昨日、定時前に司波さん達が話してくれたのは、拓さんの乗っている車の事。
神話に出てくる大蛇の名前がついた国産の自動車で、数年前に拓さんが手に入れてから大切に乗っている車だという事だけど、とにかく目立つと言っていた事を、今、目の前にして納得する。
だけど、その華やかな車に負けていない拓さんが逆に凄いと、変な所で感心してしまった。
思わず、足が止まってしまった私に気がついた拓さんが、私の方へと歩いてくる。
「えりさん、おはよう」
「おはようございます」
拓さんの声に、どこかへ行きかけた私の意識が拓さんへと戻る。
「えりさん、ちょっとくるっと回ってみて?」
私を見た拓さんが甘く微笑む。
「え、回る?」
「うん」
何の言かわからず、首を傾げて聞き返した私に、拓さんが頷いた。
「え、っと。こうですか?」
訳が分からずも、取り敢えずその場で回ってみる。くるり、とその場で回った後、拓さんを見上げる形になった途端。
「うん、今日は一層可愛いね」
そう呟くと、より一層甘く微笑んだ。
「あ、ありが、とうございます」
―今日の為に、色々と考えたのが伝わったのかな。
そう考えると恥ずかしく、でも嬉しくて。きっと、お礼を言う私の顔は赤いはずだ。
「他の人に見せるのは勿体ないけど、でもせっかくのデートだからね」
そう言うと、拓さんは私の手を引いて車へと向かい、助手席のドアを開けてくれた。
低めの車高なので、拓さんは私が乗り込みやすいようにサポートしてくれ、無事助手席に乗る事が出来た。
初めて乗る車の車内に、私は好奇心が抑えられずソワソワとしていると、拓さんが運転席へと座る。
「今日は、ちょっと遠出をするのもいいかなと思って」
そう言うと、拓さんは少し離れた観光スポットへ行く事を提案してくれた。
車だと高速を使って一時間半程度。美術館や資料館、工芸品などのお店の他、お洒落なカフェなどもあって、若い女性達や恋人達の日帰りデートにも人気がある場所だ。
「私、初めてなんです。拓さんは行った事があるのですか?」
「うん。観光というよりは仕事でね。街の様子とか土地開発の視察だったけどね」
だから、今日はゆっくりとえりさんと楽しみたいんだ、と拓さんが笑う。
「今のえりさんが何が好きで、何が苦手とか。今日のデートで今までよりもっと二人の距離が縮まればいいなと思ってるよ。そうして、僕だけが知るえりさんが増えていけばいいなって」
拓さんがそう言いながら小さく笑う。
「・・・私も拓さんの事、今よりももっと知りたいです」
そう言うと、拓さんの左手が優しく私の髪を撫でた。
「・・・私、拓さんがそうやって撫でてくれるの、好きです」
ドキドキとしながら伝えた言葉に、拓さんが笑う。
「じゃあ、遠慮なく」
「・・・あ、会社では控えてくださいね?」
追加で伝えた言葉に、拓さんが珍しく声を出して笑うのを見て、感じる幸福感に私はクラクラとしてしまいそうだった。