102 心温
YES以外受け付けません、というような拓さんの押しで、帰りは送られる事になった。
―あれ? でも月曜日って大抵、拓さん達は定時で帰る事ないよね?
ふと思い出した私の表情に「あれ?」という疑問符が浮かんでいたのだろう。顔をあげた瞬間、司波さんと目が合うと苦笑いを浮かべる。
「なにがなんでも、姫さんの帰りに合わせると思うから心配すんな」
ひらひらと手を振りながら言う司波さんの言葉に、私は思わず拓さんの方へと勢いよく顔を向けると、拓さんがにっこりと笑った。
「上の者が率先して、効率よく仕事を片付けて定時で帰れば、下の者も倣いますからね」
答えてくれたのは、拓さんではなく成瀬さんだ。
「COOも榴ヶ崎さんとの時間の為なら、山のようにある仕事も効率よく進むでしょうから、私も助かります」
何気ない様子で続く言葉に、私は呆気にとられ瞬きを繰り返す。
「そう言うたら、今日、人事通達出るんやったな」
司波さんの机にあるパソコンを覗き込み、久我さんが呟く。
M.C.Co.Ltdの社員には、パソコンやタブレットなど、必要に応じて割り当てられ、そこに社内メールで社内の知らせが届く。
私は久我さんの人事通達と聞いて、無意識にCOO室のガラス窓から見える、吉野さんの机へと視線を向けた。
二週間前、宗方さんが「長引くようなら一人追加した方が良いかも」と、私に言ったのを思い出す。
吉野さんは私が頼んだとおり、専門病院での療養となるだろうと聞いている。会社も退職となる為、7階に人員の補充が必要になるとも。
なんでも千葉さんから「一人回してくれないと厳しい」とSOSが入ったらしい。
遠野さんが病欠となった吉野さんの分まで仕事をこなしているけど、そのサポートをしている千葉さんが一緒にある意味とばっちりを受けているらしく、直接COO室に掛け合ったそうだ。
因みに遠野さんは、さらりと「私が動けばまわるから、千葉くんはサポートをお願いね」と、人員追加には頓着がなかったみたいだけど。
久我さんの言葉に、私もメールソフトを立ち上げると、二週間分のメールが溜まっている。
その中から今日の日付で送られた「人事通達」のタイトルを見つけ、開いた。
『7階プロジェクトフロア総務課の欠員に伴い、総務部一課 鷹田香澄 を 8月1日付で異動とする』
「あれ?」
文面を見た私は、思わず声をあげる。
「あの、これ・・・」
拓さんを見ると、口の端をあげた。
「うん。その反応を見ると、鷹田さんは正式な通知が出るまで言わなかったんだね」
私の時と同じ、早めに打診はあったはずだ。
香澄ちゃんの、してやったりな顔が頭に浮かぶ。
「それはまあ、正式な通知が出るまでは言いませんから・・・」
「まあ、あれだ。元々の人事って事だな」
私の言葉に、司波さんが笑う。どういう事か?と私が首を傾げると、司波さんが苦笑いを浮かべた。
「元々、姫さんと鷹田が春の移動だったんだよ。そこに吉野由加里がねじ込まれた。支店の総務からは二名ってのと姫さんはCOO室付きが決まってたから、鷹田が外された。吉野由加里が外れるなら本来の人事異動に戻すって事だ」
含みのある司波さんの言葉に、私も納得する。
吉野さんの父親は県議だ。司波さんの言葉からそれなりに伝手を使ったという事だろう。
それに、吉野さんは拓さんとの結婚を望んでいた。7階に来れば、吉野さんとしては接点が作れると思ったのかもしれない。
「元は私と香澄ち、いえ。鷹田さんが移動だったんですか?」
「そうだよ」
私の問いに答えたのは、宗方さんの声だった。声のする方に顔を向けると、COO室に出勤してきた宗方さんと桐生さんの姿がある。
「おはようございます。宗方さん、桐生さん」
「榴ヶ崎さん、おはよう」
「姫さん、おはよう」
宗方さんは穏やかな笑顔だけど、桐生さんは少し眠そうだ。
「なんや、桐生はまた夜更かしでもしたん?」
「うん、ちょっとねー」
久我さんの言葉に、桐生さんがあくびを交えて答えている。
「榴ヶ崎さん、元気そうで安心しました」
「ご心配をおかけいたしました」
「顔の傷も綺麗に治ったみたいで良かった」
宗方さんがいつも通り穏やかに微笑んでくれるので、私は頭を下げながら二人に言う。
顔をあげると、桐生さんが私の左頬を見てほっとした顔をしたのが目に入る。
「え、傷の事・・・?」
「うん、COOが病院に姫さん運ぶ時、付いていたから」
「ああ! そうだったんですね」
私は、あの時助けに来てくれた拓さんの姿しか見ていなかった。拓さんに抱き上げられた後は安心して意識を手放してしまっていたので、それ以降の様子は正直覚えていない。
「皆さん、本当にありがとうございました」
私は立ち上がると、改めてお礼とともに頭を下げる。
「えりさん、気にしなくていいよ」
私の側に来た、拓さんの手が私の頭に触れる。
私がゆっくりと頭をあげると、拓さんが優しく私を見つめていた。
「僕も、みんなも。えりさんが戻ってきてくれた事が嬉しいんだ」
その言葉に、じわりと両眼に涙が浮かんだ。
「えり!」
お昼休みの時間になると、7階フロアの入り口で香澄ちゃんが待っていて、私の姿を見つけて声をかける。
「香澄ちゃん!」
「復帰おめでとう! 約束通り、今日のランチはご馳走するよ~」
香澄ちゃんは嬉しそうに笑って「行こっか」と食堂兼休憩ルームへと促すと、二人で混雑するエレベーターに乗り込む。
「今日の人事通知を見てびっくりしたよ。8月から同じ7階だね」
エレベーターを降りてすぐ、私は香澄ちゃんに話しかけると、香澄ちゃんは想像通りの表情で笑う。
「そう。実はえりの入院中に月森さんから話はあったんだよね。えりが出勤した時に知ったらびっくりするかなって」
「そうなんだ」
「まあ、人事に関してはねぇ。告知があるまでは言えない決まりだからね。でもでも、すっごく、えりに言いたかったから、結構耐えたよ。・・・ あ、えり、何食べたい?」
食堂へ着くと、香澄ちゃんは注文の列に並びながら「あ、今日の日替わりハンバーグの目玉のせだ」と、入口にある日替わりランチプレートを見て即決したようだ。
「私も日替わりにしよう。でも食べられるかな。ご飯半分にしたらいけるかな」
入院と自宅療養で、すっかり食べる量の減ってしまった私は、日替わりのプレートを見て眉を寄せる。
食堂のハンバーグプレートは美味しい。よし、ご飯を半分にして貰おう!と思っていると香澄ちゃんが「じゃあ、買っちゃうね」と二人分のチケットを購入してしまった。
「え、香澄ちゃん!」
「いやいや、さっき言ったじゃん。ご馳走するよって。はい」
慌てる私に香澄ちゃんはケロッとチケットを渡すので、無意識に受け取ってしまった。
「本当はご飯ご馳走したかったんだけどね~。お出かけはまだ無理でしょ」
そう言いながら笑う香澄ちゃんに私は素直に「ありがとう」と答える。
「じゃあ、体調万全になったら、香澄ちゃんの好きなお肉食べに行こうよ」
「いいねぇ。えりが元気になったら一緒に行きたいお店、沢山あるんだ」
チケットを受付に出しながら私が提案すると、香澄ちゃんも同意してくれる。
暫くすると、頼んだ日替わりプレートを手渡され、熱々で湯気と良い匂いを漂わせるトレーを持って、二人で空いている席を探す。
「あ、香澄さん!えりさん! ここ空いてますよ~!」
少し先のテーブルから、有華ちゃんがひらひらと手を振ってくれた。有華ちゃんの隣には、東子ちゃんもいる。
「えりさん、大変でしたねぇ。香澄さんから聞いてびっくりしましたよ」
席に着くと、東子ちゃんが眉を寄せて言う。東子ちゃんも有華ちゃんも、私が貰い事故で自宅療養だったと信じている。
「心配してくれてありがとう。でも、もう大丈夫」
「ほんと元気になって良かったです」
二人にお礼を言うと、安心したような表情を浮かべてくれた。
「そう言えば、香澄さん!」
久しぶりの四人でのランチで、楽しくお喋りをしながら箸を進めていると、東子ちゃんが香澄ちゃんに話を振る。呼ばれた香澄ちゃんは突然で食べる手が止まってしまった。
「え、何?」
「今朝の社内メールですよ! 7階異動って」
「あー、それねぇ」
東子ちゃんの言葉に、香澄ちゃんが苦笑いを浮かべる。
「7階に欠員が出たからって打診があったのよ」
「欠員、ああ・・・。吉野さんが辞めるんですよね、病気療養で」
「え、そうなの?!」
香澄ちゃんの言葉に、有華ちゃんが続けた。
総務であれば、吉野さんの退職は知っているだろうと思っていたけど、営業事務にまでは噂は伝わっていなかったらしい。
「療養期間が長引きそうだから退職させてくださいって、吉野さんの家族から連絡があったみたいですよ」
「・・・まあ、吉野さんのお家なら、体調悪いのに無理して働かなくてもいいですもんね」
有華ちゃんの言葉に東子ちゃんが納得した様子で頷く。
二人は現在の吉野さんの様子は知らない。ここで知っているのは私と香澄ちゃんだけだ。
「・・・私に打診があった時は、長期療養になりそうだからって話だったんだけどね。さすがに忙しい7階だから、稼働時の社員数は必要みたい」
香澄ちゃんが上手くフォローをしてくれた。吉野さんの話題は、まだ心の整理が出来ていないのか、私もうまく話せない。
私は、何とか笑顔を向かいに座る二人に向けた。
「えり? 大丈夫?」
「あ、うん」
「心配事や、気になる事があるなら話して。ひとりで抱え込んじゃだめだよ?」
食堂の隣にあるパウダールームで身支度をしていると、隣に居た香澄ちゃんが私の様子を心配して、そっと声を掛けてくれる。
「ありがとう」
私もこれ以上、香澄ちゃんに心配をかけたくなくて、笑顔でお礼を言う。
そんな私を見て、香澄ちゃんが柔らかく笑う。
「そろそろ休憩終わるから、戻ろう」
「そうだね」
「ねー、えり」
「うん?」
「今度、えりの好きな苺のスイーツ食べに行こうかっ!」
パウダールームから出ると、香澄ちゃんが笑顔で提案してくれる。
きっと、香澄ちゃんなりの私への気遣い。
「うん、行こっ!」
私は嬉しくなって、香澄ちゃんの腕に抱き着き、小さく「ありがとう」ともう一度言う。
「どういたしまして!」
ちゃんと聞こえたようで、香澄ちゃんはにっこりと笑顔を向けてくれた。