コッペリアは笑えない
午前六時。自動的に目が開き、意識が覚醒する。いつもと同じように、カーテンを締め切った暗い部屋の明かりをつけ、ベッドの中で丸くなっている人の肩をそっと叩いた。
「……おはよう」
私に挨拶するなんて、律儀な人だ。呆れるような感心するような気分で、彼の着替えを用意しておく。
寝ぼけ眼を擦り、私をぼんやりと見上げてくる顔はいつもよりも幼い。ああ、綺麗な顔だなぁ。と、いつも通りの感想を抱いた。その愛しさのままに笑み崩れ――ようとして、表情が一切動かない事実に少し悲しくなる。
だってそうだ。……お人形に、表情筋は、ありません。
「着替えるから、その間に朝食を頼む。先日テオから貰ったジャムがあっただろう? あれがいいな」
承りました。と、心の中で返事をしながら頷く。声を出す許可はまだもらっていないからだ。
もしかしたら、私が声を出せることさえ忘れてしまったのかもしれないけれど。それならそれでいい。私はマスターを煩わせるものにはなりたくない。喋ってはいけない、と。必死な顔でされた命令にいつまででも従い続けよう。
言われた通りに台所に行き、パンとジャム、ヨーグルトを用意する。
まったく、いつもお母さんに作ってもらってばかりいた私が人のご飯を用意するようになるなんて。人生何が起こるか分からないとはこのことかな。
(マスターと出会ってから、もう……一年くらいかな)
指折り数えて、その時間の長さにちょっと愕然とした。そりゃあ、一年もあれば、どこにでもいる女子高生にも主婦業が板につくというものだ。
主婦業。主婦。そんなものではないけれど、その言葉の響きの甘美さに頬を押さえた。マスターのお嫁さん、なんて。なんて! えへへ、なんちゃって! ……ないな。一瞬で冷静になる。
(私は、マスターのお人形なんだもの)
コーヒーを淹れながら、私は……自分の人生が大きく変わったあの日を思い出していた。
今となっては誰も呼ばない私の名前は、『苗代 由紀』である。学校の成績はコンスタントに平均値を彷徨っていた、どこにでもいるような女子高生だった。
日本中の女子高生の平均をとったのかな? ってレベルの。中途半端な田舎で暮らし、のんべんだらりと生きていた。普通の女子高生だったのだ。それだけは主張させていただく。
あの日までは。なんていう注釈はつくけれども。
さて、あの日。十年に一度の寒波とやらが日本列島を襲った、とんでもなく寒い日。私は死んだ。
もうここはサラッと流したいというか……思い出したくない。一つだけ言えるのは、凍結した道ではちゃんとスノータイヤにするべきだってことくらい。
私は、スリップしてきた車と電柱に挟まれて死んだのだ。車から降りて逃げていったあの運転手は絶対に許さない。なんて、あの時の記憶はちょっとだけ曖昧で。そう思っていたことと、――雪が綺麗だったこと。それくらいしか思い出せないし、多分それでいいんだと思う。
思い出していいこともないし、まあ、苗代由紀は死んだのだから。そういうものなのかもしれない。
むしろ、私にとって最大の修羅場はこの後。
困ったことなのか喜ばしいことなのか知らないが、私の人生には続きがあったのだ。
(まさか、人形になるなんて思ってなかったなぁ)
死んだあとに意識があるのも訳分かんないけど、人形になってるのも本当に意味が分からない。
嘆息して自分の手のひらを見下ろすと、人間のものとよく似た……でも確実に違う皮膚があった。皮膚……なんの皮膚だろ。感触は割と皮膚なんだけど、なんだろう。
しかも、身体は柔らかくない。皮膚の下にはなんか……よく分からない機械っぽいものがある。たまに開いてメンテナンスされるので、自分でも見たことがあるのだ。結構気持ち悪い。
ああそうだ。ちなみに、私が彼をマスターと呼んでいるのは、一重に彼の名前を知らないからである。自己紹介なんてしてないし、されてない。
ただ、死んだと思った直後に目を開き――彼の何も浮かんでいない顔を見た瞬間。私は彼を守らなければならないと思ったのだ。彼が私を作ったのだと、頭ではなく本能で理解した。だから、彼は私のマスターだ。壊れるまでずっと、ずっと。
(……望まれたから)
側にいてくれと。味方でいてくれと。人形は持ち主に従うものだけれど、それだけじゃなく。私は彼に望まれた、彼に作られた、彼のためだけの人形だ。人間だった頃の記憶も意識も、今は彼のために押し殺せる。
(恋を)
これは、きっと恋だ。そうじゃなければ、愛だ。たった一人のためだけに生きて死ねると思うこの感情はきっと。
コーヒーを淹れ終わり、トレイに朝食を乗せて彼の部屋に向かう。それもまた、いつものように。
「……今日は客人が来るから、いいと言うまで籠っていろ」
これは、いつもと違う。マスターがどこか疲れたように呟いたので、私はおやと首を傾げた。まあ、客人が来るときはいつも遠ざけられるんだけど。ここまで露骨なのは初めてかな。
「ああ、いや。お前が邪魔なのではなくて……奴はその、お前に興味を持つだろうから」
はっはーん。嫉妬だな。違うか。
ただ単に、最高傑作であるこの私が取られる可能性を排除したいだけなのだろう。嫉妬なら嬉しいんだけどな、とか考えながら頷いた。私はマスターに絶対服従してるからね! ……ね!
「……面倒な奴なんだ、だから、頼む」
人形に、命令ではなくお願いをする。そんなこの人が愛しくて、そっと手をとった。
「なんだ」
いつまで。
いつまで、この人は世界に一人ぼっちみたいな顔をして抱え込まなければならないんだろう。『客人』が彼にとって快い人物だったことはかつて一度もない。彼が家から出るときはいつも私と一緒。
頼れるものがいない、信頼するものがいない。この人がどうしようもなく孤独だと、否が応でも理解させられてきた。なのに、まだ考える。
(どうしたら、この人は)
私なんかよりも自分のことを大事にしてくれるのだろうか。
籠もってろって言われたから大人しく籠もっておこう。マスターの言うことには一切逆らわない従順なお人形である私は、籠もる時にしか使わない自室の扉を開けた。
……開けた瞬間、なんだかなぁという気分になるのも、いつものことだ。
(マスターは、私のことを何歳児だと思ってるんだろう……)
そこは、間違いなく子供部屋だった。本棚には絵本、棚の上にはぬいぐるみ、パステルカラーで統一された家具は、女の子が好きそうな意匠のものばかりだ。どういうこった。
私が人形になってから、この部屋のものは増え続けるばかりだ。反対に、マスターの部屋に物が増えた気配はない。私はマスターの愛玩人形なのかもしれない。……いや、マスターがそれを望むんならいいけどさ?
(私は、マスターの物だし)
そこに甘いものは含まれていない。私は、マスターの人形だ。一片たりとも事実と相違はない。まあ、私としては、もっと甘い関係になれたらいいなって思ってもいるんですけどねーうへへ。
棚の上からそろそろ溢れそうなぬいぐるみを一つとり、ぎゅっと抱き締める。くまさん、だと思う。なんか緑色してるけど。多分くま。
そのままベッドの上に座り、マスターを待機する体制を取る。ついでに、絵本も何冊かとっておこう。
ぬいぐるみと絵本、パステルカラーの部屋。ついでに、私が着ている服は少女趣味な淡色のドレスだ。マスターの趣味なら受け入れるけど、私が好きでこんな部屋にいると思われたくはないなぁ。
ぱらぱらと、何度も読んだ絵本を捲る。一番綺麗な絵の、お気に入りだ。声が出たら、マスターにもっと文字が多い本を買ってもらいたいな。なんて、人形としては図々しい願いか。
……彼は。一体どういう気持ちで、絵本を選んだんだろう。ぬいぐるみを、部屋の家具を、私の服を。
『――捨てないで』
うわ言のような声を思い出す。人形である私のことさえ信じられないと言った、あの孤独を癒やしたいと願った。その思いに偽りはなく。たとえ、それが『人形』の本能だとしても構わないくらい。
(あと、どれくらいだろ)
面倒な客人とやらは、いつになったら帰ってくれるのだろう。見ず知らずの人に対して申し訳ないが、私はマスターを煩わせるものは嫌いだ。さっさと帰ってくれたらいいと思う。マスターと一緒にいられないのも嫌だし。
……溜め息を吐いて、ベッドに倒れ込んだ。マスターの部屋にあるベッドよりも柔らかい気がするのは、多分気のせいじゃないんだろう。そういうところ。マスターはさ、そういうところだよ。
無機物でしかない人形のために、自分を犠牲にするのは止めてほしいのに。
(……マスターってば、なんかよく分かんないけど、自己評価ひっくいし)
自分よりも人形を大切にするちょっとお馬鹿なくらい優しい人なのに、自分に価値がないと思い込む。理由も分かんないけど、理由があっても理解できない気がする。
あの日、マスターを守るって誓ったのに。自分の無力がほとほと嫌になって、目を閉じた。
初めて出会った日を、今でも鮮明に思い出せる。一年前、死んだはずの私はマスターの作った人形に乗り移った。
……乗り移ったって言い方もあれだけど、他に言いようもない。私は多分、人形としての『ワタシ』と人間として生きてきた『私』が中途半端に混ざりあった存在なんだと思う。よく分かんないけど。
マスターは、あの日、ただ無感情に私を見ていた。英知の結晶らしい魔導人形を、ただのガラクタを見るようにただ無機質に。……この世界では至高の存在らしい人形職人である彼は、きっと、最初は私のことだって売ってしまう予定だったのだろう。
私は、マスターの顔を見上げ。自分の状況が一切理解できない事実に、呆然としていた。その数瞬後、目の前にある顔の美しさに見惚れもした。顔がいいってすごい。精神安定剤にもなるんだ。なんて、馬鹿なことを考えて。
『……綺麗な人』
そう、呟いた。
いや、正直に言おう。あの日、私は口が滑ったのだ。そして、多分……口が滑ったことで、私の運命は変わったのだと思う。
マスターは、私の声を聞いた瞬間に顔色を変え、こちらを凝視してきた。やだ、こんな綺麗な人に見つめられるなんて照れちゃう……とかは思えず、ただその必死な形相に恐れをなした。
『いいか、よく聞け。これからお前は喋ってはいけない。いいな、絶対に喋るな』
そのまま、初めて命令されたという事実になぜか本能的な喜びを覚えつつ、思いっきり頷いた。あの時から、私はただの一度も喋っていない。よく分かんないけど、なんかあるんだろうなって思う。
とにかく。私が喋ったからなんだろうけれど、マスターは私を売ることは止めたみたいだった。ただ、私を自身の『最高傑作』と呼び、身の回りの世話と護衛に任命してくれた。
……最初、さ。すごかったんだよ、マスターの部屋。散らかってるとかじゃなくて、人が住む部屋じゃないっていうか。ベッドの上に仕事道具が散らばっていて。床で寝ていた彼を見て、私は決めた。この人を人として最低限度の生活ができるようにしてみせると。
あれから一年。マスターの部屋よりも私の部屋の方が充実している事実はさておき、マスターの部屋は人が生活している部屋らしくなった。私のおかげだ。もっとマスターは私に感謝していいと思う。ご褒美としてほっぺにチューとかしてくれないかなぁ。無理だな。そんなことするマスターはマスターではない。
なんて、昔のことを思い出したり、妄想したりしている時だ。
「……さて、ここかな?」
マスターじゃない誰かの声が扉の向こうから聞こえてきた。……侵入者か。と、嫌に冷静な思考が判断し、そっと隠し持っていたナイフに触れる。マスターが護衛用に買ってくれたナイフだから、汚したくなかったんだけどな。護衛用のナイフは汚してナンボ……? そんな馬鹿な。
ノックの音もなく、扉が開く。
「ああ。きみ――っか!?」
油断しているところ悪いけど、マスターは私に『籠もっていろ』って命令をしたので。それはつまり、部屋に入ってきた奴は敵だということだ。そう、こいつは敵だ。
入ってきた瞬間に腕を掴み、床に引き倒す。そのまま、動けないように体重をかけ。
「ま、まままって! そのナイフしまってよ、ね!?」
首を傾げる。ごめんなさい、私言葉話せないのでー。ほっぺたにナイフをペチペチと当てながら、目を細めた。
「ごめん! 謝るから! 勝手に入ったことは謝るから! 殺さないでごめんなさ――っあ、やめて! ナイフをしまって!!」
すっごくうるさい……。死んで人形になったことで倫理観が変わっている自覚はあるけど、流石に人を殺す気はない。ただ、マスターのご命令に背かなければならなかった原因に腹が立ってるだけで。
「くっそ、なんだよ! ルーファスの奴、こんな隠し玉持ってるなん……て!?」
なんかムカついたのでデコピンをした。ルーファスっていうのは、もしかしなくてもマスターの名前なのだろう。私が知らないマスターの名前を知ってるところ、非常に腹が立つ。当然なんだけどさ。……ああはい嫉妬だ嫉妬ですよ!
さて。マスターにはこの男のことを報告しなければならないんだけど、ここでこいつを離す訳にはいかない。大声をあげようにも、私は喋っちゃ駄目だし。……やだ、詰んだ?
「……きみ、ルーファスの……なんなんだい?」
首を傾げた。
「この部屋を、見るに……ずいぶんと大切にされてるみたいだけど」
逃げることは諦めたのか、四肢を投げ出した男に問いかけられる。しかしながら、……私にも私が彼のなんなのかよく分かってない。人形なんだけど、そういう扱いはされてないっていうか。マスターが私のマスターなのは確かなのに。
「はっ。俺とは口も効きたくないって?」
自嘲的な物言いに、私はそっと首を横に振った。話せないんですよ。すごく頑張ったら命令違反もできるかもだけど、したくないし。
私の顔を見上げながら、男は少し考えて――何かを言おうと口を開いた。
「おい」
瞬間。聞いたこともないくらい冷たい響きの声が、上から落とされた。思わず肩を跳ねさせて、恐る恐る見上げる。
「なにを、しているんだ?」
マスターが、ひどく冷たい顔をしてこちらを見下ろしていた。綺麗な顔から表情が削げ落ちると、こんなに怖くなるんだな、と。思考が変な方向に逸れる。
私の下にいる男もまた、顔を引きつらせていた。分かる。今のマスターすっごく怖い。
「何をしているのか、と。聞いているんだが……」
「ご、ごめんルーファス! 違うんだ、俺はただあの噂の真相を確かめようと――」
「よし死ね」
マスターが男の頭を踏みつけた。わ、わぁあ……。私がどれだけ皿を割っても怒らなかったマスターが! 間違えて毒キノコをご飯に入れても注意するだけだったマスターが! すごく怒ってる! 逆に、私はマスターにもっと叱られてくるべきだったかもしれない。
「……大丈夫だったか?」
私が震えていると、それが怯えからくるものと誤解したのか、マスターは気遣うように聞いてきてくれた。マスター優しい……好き……。こくんと頷いて、笑顔をつく――れないんだった! 表情筋が欲しい。切実に。
「そうか、よかった。……少し待っていてくれ、今、この不審者を片付けてくるからな」
「お、落ち着いて聞いてくれよルーファス! いえルーファス様! この国で最も優秀な人形職人様! お前が隠しているその存在はもしかして……っ!」
「最近のゴミは喋るんだな、初めて知った」
マスターが本気でゴミを見る目で男を見下ろしている! どうしよう、このままではマスターが人殺しになってしまう。あと、流石にそこまで悪意もなさそうだった人が死んでしまうのも……ちょっと。
考えた末、マスターの服の裾をちょっと掴んだ。部屋を出ていこうとしていたマスターが、すぐに止まって私と視線を合わせてくれる。
「どうした? 寂しくなったか?」
首を横に振る。そして、男の方を指さして、次に指でバッテンを作った。これで多分通じる、はず。
案の定、マスターはすぐに嫌そうな顔をした。
「だが、こいつはお前のことを知った。厄介だ、消すべきだ」
「俺本当に殺されるの!? この程度で!?」
私も男と同意見だ。しかしうるさい。じっとマスターを見上げてバッテンを突きつけていると、困ったように視線を逸らされる。勝った。
「――お前が、そこまで願うなら」
「どうやって通じ合ってんの……? こわ……」
どうやって通じ合ってんのか、実は私もちょっとよく分かんない。ただ、マスターが私の意図を読み違えたことはないので、多分私達は言葉とかじゃないところで通じ合っている。運命、かな……? マスターが人並外れて賢いだけかもしれない。流石マスター。好き。
「ほら、向こうに戻るぞ」
「本当にこの娘はこのままでいいの? ……ルーファスの立場としては」
「…………あまりこいつを見るな、目を抉るぞ」
「こっっわ!!」
こっわ。マスターに引き摺られていく男と心をシンクロさせながら、私は二人を見送った。
あれが、面倒な客人かぁ。ちょっと散らかった部屋の中を片付け、マスターを待つことにした。
「すまなかった」
しばらくしてから、マスターが扉を開けると同時に土下座をしてきた。ひえっ。この人また人形に対して謎の礼節を尽くしてる……。そういうところ好き。
とにかく顔をあげてくださいな。ね? ね? と、手を頬にそえ――わぁ肌なめらか……しゅごい……。毛穴がない人種だぁどうやって皮膚呼吸してるの……。……って、いやそうじゃない。そこはいま大事じゃない。私はマスターに謝られるなんて事態、まったく望んでないのだ。
無理やり顔を上げさせる。顔が近い。すぐ近くにある綺麗な顔は……なぜか、苦しげに歪んでいた。
「あれが、ここまで入り込んでくるほど馬鹿だとは思わなかったんだ」
自責の念に駆られたように、マスターが唇を噛みしめる。血が出ちゃうから止めてよ……。頬にあった指を、唇に滑らせる。
「お前を、知られてはいけない相手の前に晒してしまった」
あのうるさい男の人そんなに駄目な相手だったの。
「あいつはあれでいて優秀な男だ。きっと、お前のことに気づいてしまう」
私にどんな秘密があるというのか。中身人間の人形だって事実かな。それは、マスターも知らないはずなんだけど。
「なあ」
なぁに。首を傾げると、マスターはちょっと困ったみたいに笑った。
「もう、喋っていいよ」
それは。一年前の命令を打ち消す言葉だった。時間が止まったような錯覚を覚え、一瞬固まる。そして、マスターの顔から手を離した。自分の喉に触れる。そして。
「よろしいん、ですか?」
一年ぶりのくせに、声は掠れてなどいなかった。ただ、ちょっとだけ音量調節が難しい。
「ああ、構わない。……俺は、お前にずっと甘えていたんだ。お前が一切不満そうにしないものだから、それが当然だと思い込んでいた」
「むしろ、私はマスターにもっと甘えてほしかったんですよ。このくらい平気です」
「……そうか。ああ、ああ……。そうか」
初めての会話は、ほんの少しぎこちない気がした。それでも、一年分の何かを埋めるように、私は言葉を紡いでいく。
「マスターは、どうして私に喋るなって言ったんですか?」
「……お前が」
離した手を掴まれる。マスターの手は、私の手よりもずっと温かい……生きている温度がした。
「魂を持ってしまったから」
「魂?」
「人形は、普通喋らないんだ」
なるほど。つまり、マスターは初っ端から私が人形ではないと分かっていたと。流石マスター。
「私には魂があるから、こうしてお話できるんですか?」
「そうだ」
そうか。……そっかぁ。だったら、私は私でよかったな。マスターのために考えられる頭と、心と、思いを伝える言葉があってよかった。マスターにとっては、よくないのかな。
「魂って、あったら駄目なんですか?」
「駄目なんだ、……人形は人形でないと、壊されてしまう」
それは駄目だな。え? 私って、壊されるところだったの? やだ怖い……。死んだと思ったら人形になってて、更にすぐに壊されるって。人生波乱万丈すぎじゃん。
硬直する私を見て、マスターは軽く笑う。今日はなんだかマスターが表情豊かで、私はとても嬉しい。
「私を、壊したくなかったんですか?」
「……最初は、壊すつもりだった」
「でも、私に喋らないように言いつけて、その後ずっと……ずーっと、マスターは私のことを大切にしてくれました」
微妙に心遣いがずれている気もしたけど。マスターが私にくれたものは全部、優しさだった。だから、私は彼を好きになったし、愛したいと思った。この孤独な人を。
「お前は、いつも……俺の言葉一つ一つを嬉しそうに受け止めてきたな」
「気づかれちゃってましたか」
えへへ、と表情は動かないまま笑い声を零す。うわ我ながら不気味ぃ。それなのに、マスターはどこか嬉しそうに目を細めた。
「お前と一緒にいると、自分がまるで……まともな人間になったようで」
手放し難かった。と、まるで懺悔でもするように吐き出すものだから。苦しくなって、縋りつくみたいに掴まれた手を握り返す。
「私は、マスターが好きですよ」
それでもこれは愛の告白ではないから。そう誤魔化して、本音を口にした。マスターが目を見開く。そこで驚かれるのがやっぱり悲しくて、私は目を伏せた。
「好きです。マスターは、私のために絵本を、ぬいぐるみを、家具を服を、いろいろなものを与えてくれました」
だから? いや、だからじゃない。この想いに理由なんてない。こんな薄っぺらい理由なんていらない。これはこの人の優しさの証明にはなるけれど、私の愛の理由じゃない。
「でも、私に何もくれなかったとしても。……マスターが、好きです。この世界の何よりも、愛おしい」
マスターは、泣きそうな顔をした。私もきっと、表情が動くならそんな顔をしてたんだろう。やっぱり、人間でありたかったな。今更、そんなことを考えた。
「俺は、お前を信じていない。そんな言葉、信じられない」
「いいんですよ、信じられる日が来るまでここにいます」
「俺は、……お前にそんなことを言ってもらえるような権利なんてない」
「権利なんて必要ないんですよ、私にとってマスターがマスターである限り」
あなたは私のたった一人だから。唯一無二の存在だから。伝わってくれと願って、手に力を込める。
「いいのか?」
「いいんですよ」
「――そう、か」
握り締めた手に、マスターの額が当てられる。それはまるで、祈りでも捧げるかのような仕草だった。……マスターはちょっと人智を超えて美しいからこの光景を切り取って宗教画にでもするべき。
「だから、私をずっとお側においてくださいね」
「残念だが、俺はお前を捨てる気はないよ」
「残念な要素は一つもありませんよ」
これから先ずっと一緒にいたい。壊れるまでずっと。マスターが私を必要としなくなっても、きっとずっと。……私ってば、人形としてはありえないくらい我儘だなぁ。
「いいな、これからお前は、俺と二人きりの時しか喋ってはいけない」
「じゃないと、壊されちゃうんですね」
つまり、二人だけのときは話してもいいと。何それ幸せ。
「ああ。……特に、あの男には気をつけろ」
「面倒なお客さんですね、分かりました。会ったら逃げます」
「……ああ」
静かな声は、どこか満ち足りたような雰囲気を持っていて、私はなぜか泣きたくなった。マスター、マスター。私はね、マスターが望むのならなんだってできるんですよ、本当に。
「なあ、俺は……お前のマスターでいて、いいのか」
本当にそれでいいのか、と問いかける声に。私は笑ってあげたかった。笑い飛ばして、あげたかった。
今は、今だけは。人間でありたいな、と思った。あなたに笑いかけて、笑い飛ばして、あげられるような。
でも、それは無理だから。せめて。
「あなたがあなたである限り、マスターは私のマスターなんですよ」
それだけが真実だと、私は言い切る。私のマスターではないあなたなんて知らないと。あなたを傷つける言葉なんて一つたりとも信じないと。そう言い切って、自分の盲目さに内心ちょっと苦笑した。恋は盲目らしいし、いいんだけどね。
「ああ、そう……だな」
マスターが顔を上げる。そして、綺麗な顔を綻ばせて。
「お前が壊れるまで、俺はお前のマスターだ」
俺だってそうありたいのだと、マスターは綺麗に微笑んだ。