早朝の模擬戦
ちょい長?
「ふぅ。」
レイヴァンは15メリル先の大男を見る。早朝に呼び出され、身元などを疑われ、終いには熱烈な(肉弾戦の)お誘い。
(因果律が狂ってんのかね?)
宿を貸してもらっていることをはじめ、大きな借りがあるので誘いを断るに断れない。
(今回は分が悪いな。諦めて誘いを受け入れるしかなかった。)
身体はいつ戦闘が始まってもいいように準備するよう心がけている。気にしすぎと言われるかもしれないが今から闘う相手にじっくり動きを観察されるのは好ましくはないからだ。
「小僧、手加減しようなどと下手なことを考えるんじゃないぞー」
レイヴァンは思わず苦笑した。
(手加減か。)
首についている黒い革製の装飾を撫でる。
(まあ仕方ないよな。今出せる全力ってことで諦めよう。)
頭を切り替える。手加減をする気なんて毛頭ない。余裕を見せられるような環境では生活して来られなかった。それに。
(十中八九、ただの大男ってわけじゃないだろ。)
視線の先にはヴォルドー。先ほどの素振りからしてただの宿屋の豪快なおじさんではない。どうして宿屋にいるのかが不思議だった。
(さ、て、と。)
ブゥン...と常人には近くできない揺らぎが青年を中心として生じる。
(師匠には最後まで合格をもらえなかったな。魔力の操作が他人より難しいってのは、やっぱり言い訳だろうか。)
別れた師匠のことを思い出して少ししんみりしていると。
ズオオオッ
レイヴァンではない異種の魔力が異常なほど急激に高まった。
(...。)
魔力の操作がうまくいかないと悩んでいたところにこれはないだろ、と絶句してしまう。
しかしヴォルドーの見た目には大変合っているのでなんとも言い難い。それにしてもなんて魔力だろうか。魔力の総量は簡単には比べられないが、精密さを嘲笑うかのように消費される魔力は密度が桁違いだ。
つつー...と冷や汗が伝う。正直ここまでとは思っていなかった。
(なんで宿屋の主人なんてやってんだよ?)
「小僧、準備はいいか?」
「ははっ」
乾いた笑いが漏れる。すぅ、はぁ、と深呼吸をひとつして気を鎮める。閉じた目を開きヴォルドーを視界に収める。
(試合前だ。余計な高ぶりは捨てろ。)
「あぁいいぜ。」
集中か、緊張か。今まで保ってきた言葉遣いが崩れる。
「合図は...よし、小僧お前から来い。」
こめかみがピクッと震えた。
(それは俺が言ってみたくて言われたくないセリフなんだがな。)
気を散らすな。師匠に教わった基礎だろう。
風はもう気にならない。静寂が落ちる。
(脱力...集中...)
そして
(解放ッ!)
轟ッと大気を突き抜けた。彼我の距離を一瞬で詰める。
駆ける、そして翔ける!
瞬きをする間にもう敵は攻撃可能な範囲に入った。速さに負けず、軸をぶらさず、弓を振り絞るように腕をぎりぎりと引き。
そして
顔面に
一直線に
左の拳を
放つッ–
レイヴァンがヴォルドーの実力の片鱗を見抜いたように、ヴォルドーもレイヴァンの実力にうっすらと気づいていた。だからこそその力が自らの愛する家族に向くことを恐れて、神経質になりすぎた結果あらぬ疑いをかける羽目になった。しかし、
(これは幸か不幸か、どちらにせよ予想外だな。)
試合前の立ち居振る舞い。そして纏った魔力のなんと精緻なことか。この歳でなぜここまで洗練されているのかが気になって仕方がない。
(俺は圧倒的な魔力密度の力押し型であり、事実それでも並の敵なら問題なく薙ぎ倒せていたと自負しているが、あれとは全く価値観が違う。最早芸術品だな。)
方向性が違うからこそなおさら羨望を抱いてしまう。
そして試合が始まって再び予想を打ち砕かれる。
(なンッ‼︎)
一瞬で距離を詰められる。先手を譲った、とはいえ、油断しているつもりは毛頭なかったのだが。
顔面真ん中正中線鼻筋を捉える一撃。
遅ればせながら防御に入った両腕に。
圧倒的速度で接近する青年の拳が。
遂に、衝突する–
ゴゥゥゥゥゥン!!!!
鈍い重低音が響きわたる。
(これを止めるかよ⁉)
(何て威力をしてるんだ‼)
両者、顔がそれぞれの驚嘆に彩られる。
片やその大きな図体に見合わぬ反射速度に。片やその細い体格に見合わぬ重たい一撃に。
交差された両腕をしっかりとうち据えたものの、いつまでも余韻に浸ってはいられない。これは試合であって演舞や威力自慢大会ではない。
必要な箇所に過不足なく魔力を一瞬で纏い直し、トンと左足のつま先で地面を蹴りだしつつ腰をひねる。
重心を前に移動し体勢を崩しながら鋭い膝蹴りを相手の脇腹へ。
振り回される鈍器のようなレイヴァンの右足の一撃を、ヴォルドーはその右脚全体を下に滑り込ませた腕で上方に逸らして対処する。
しかし尚レイヴァンの追撃は止まない。足をはね上げられて体は開いたが、足を跳ね上げられた勢いを活かすことで体を後ろに逸らしながら後方に宙返り。満を辞してと言わんばかりに、先ほどまで軸足だった左足を鞭のようにしならせて繰り出した。
(まだ追ってくるか‼︎)
このままでは顎を下から強打される軌道。止むを得ず後ろに跳んで退避する。
レイヴァンも空振った勢いそのままに曲芸さながら宙返りを二度繰り返して距離をとった。
両者ともに後ろに下がったことで奇しくも試合開始前と同じ位置に戻った。お互いの身体能力を考えればあってないような距離ではあるが、一旦仕切り直しだ。
痛む腕を気取られぬようにヴォルドーがレイヴァンに言葉を投げる。
「おいおい、ここまでやるとは聞いてないぞ?」
「聞かれてないからな。それにそれはこっちのセリフだぜおじさん。あれを防ぐ宿屋の主人とは神様もびっくりだぜ。」
「お前におじさんと呼ばれる筋合いはない!」
「お義父さんとは言ってねえだろ!?」
ふん、と鼻を鳴らし、レイヴァンをじっくりと眺める。
(軽い身のこなし。速さだけなら俺にも真似できるがあそこまで曲芸じみた機動力は真似できん。とはいえ、それは小僧の体格を生かした得意な戦い方と考えられなくもない。だが...)
痺れる腕が先ほどの初撃の威力を思い出させる。
(一番の驚きはあの一点突破速度重視の攻撃力。完璧に防御することは不可能か。なるほど、速度重視を威力に転換させるとは末恐ろしいな。)
もちろんただ速くするだけではない。この世の中に根付く『魔法』という摩訶不思議な力は『放出系統』と『循環系統』とに大別される。
先ほどの攻防でレイヴァンとヴォルドーが用いていたのが循環系統。この中の『身体強化群』に属する四項目に体術の基礎の大方は尽きると言われている。。
(『強度強化』、『出力強化』、『柔軟性向上』、『反応向上』。どれを取っても上級者だな。ったく、こんな15歳くらいの少年がどこにいるってんだ。ははっ、つまり体術だけならこいつは十分通用するわけだ。)
思わず笑みが滲む。
(全く。)
目つきが、
(いい歳こいて、)
変わった。
(本気になっちまった。)
ゾワァっ。
レイヴァンは背筋が粟立つ錯覚を覚える。
(やぁーべ。本気にさせちまったか。)
このままいけいけ勢い押しも考えていたところだったが、どうもそうはいかないらしい。
(とはいえ俺にできる全力はあの拳撃だしなぁ)
歯痒い。恐怖すら覚える。
相手は気持ちを切り替えて段階を一つ上げたのに、自分の全力はすでに見せてしまった。
(少し出し惜しみとかできた方がいいのかね?でも全力の上限はどうしたって変わらないのだから、あんまり意味がある気がしないんだよな。)
だがどうだろう。先ほどの初撃を鮮やかに決めていたら勝っていただろうか。
(それなら相手を本気にさせずに油断させる効果は高いか。あーあ、戦略って観点からだと有効だな。)
ふん。息を整える。
(だからどうした。俺の持ち味は全力拳打だけだとでも思ったか。)
ニヤリ。
(久々に昂ってきた。)
なぜだろう。お互いの顔に浮かぶ笑みは等しく戦闘を楽しむもののはずなのに、全く違う印象を受けるのは。
久々の強敵を全力で圧倒しようと好戦的で豪快な笑みを浮かべる大男と。
自らが力で劣る相手をどう倒そうかと狡猾で細い笑みを浮かべる細身の少年。
間違いなく、ここから戦闘の段階が上がる。
実戦で相手の準備を待つ者はいない。二合目に合図はいらなかった。
ボコォッとお互いの足元の土が抉れる。
今度はヴォルドーが先手を取る。
『強度強化』で拳を硬化し、『出力強化』で筋力を増幅。岩を砕く一撃を『反応向上』で照準を定め的確に制御してレイヴァンの急所、鳩尾に叩き込む。
レイヴァンはその一撃を体を後方に倒すことで回避する。体勢を立て直し反撃に移ろうと顔を上げると、すでに第二、第三の攻撃がうなりをあげて迫っていた。目を見開きながらも冷静に体を左右に振ってすれすれのところで避ける。常人ならばこの左右への急激な体の振りで脇腹付近の腹筋が断裂するところだが、『柔軟性向上』で筋肉は以上なしなりを見せる。
空気を貫いたヴォルドーの伸びきった腕にコウモリさながら膝裏でレイヴァンがぶら下がり、勢いをつけて体を回転させてその腕を捻じ切らんとする。
「ぐぁっ、この!」
それを嫌がったヴォルドーが強引に腕を振り回してレイヴァンを投げ飛ばすも、レイヴァンは空中で一回転して危なげなく着地。
「...。」
ヴォルドーは既視感を覚えていた。
あの軽い身のこなし。人を馬鹿にする、あるいは嘲笑うかのような埒外な挙動。
回避が出鱈目なら反撃は無軌道、しかし時として見せる至極単純猪突猛進攻撃一直線。
(そんなことがあるのか?)
「おい小僧、お前に戦い方を教えたやつは誰だ。」
急な質問に疑問を感じたが、別に犯罪者でもないので嘘をつく必要はない。
「俺の師匠は元冒険者ハンザ・カラクリって名前だけど?。」
その奇抜な名前は聞き間違えようがない。かつて何度も手合わせをし、幾多の依頼を共にこなした旧友の名を聞いて懐かしさがこみ上げてきた。
「なるほどな。ふふ...ははっ、はっはっはっはあ!」
突然馬鹿笑いをしだしたヴォルドーを怪訝な顔で見る。
レイヴァンの視線を受け、ヴォルドーはいやいや、気にするなとばかりに首を左右にを振った。
「そいつとは知り合いでな。いやぁー参った。世間は意外に狭いのかそれとも巡り合わせというやつか…まあどうでもいいか、これでお前に気を使う必要がなくなった。そうか...あいつの弟子だったか。」
チリチリと、今までヴォルドーから感じていた魔力に少し性質の違うものが混じる。
「さっきの反応を見る限りまだお前にも奥の手があるだろう?なあ。『柳風流』なんてへんてこな流派の始祖を自称する男の弟子ならな。」
メラメラと、次第に魔力の正体が明らかになり始める。
「終始良いように扱われるのも癪に触るんでなぁ、大人気ないのは自分でもわかってはいるんだがそろそろ一発くらってもらおう。そのためには先程までの速さでは足りん。」
そして。
ボオオオォォォゥ‼︎
あたりに熱気がばらまかれた。その真紅の頭髪に負けじときらめき揺らめく炎。
(天性のものか、努力の賜物か、どちらにせよ上級冒険者に届き得る戦闘技術。しかし、それだけでは俺を超えられない。)
彫りの深い精悍な顔つきに野心的な笑みを浮かべ、ヴォルドーは思う。
(お前がなぜ循環系統しか、体術しか使わんのか。出し惜しみなのか、使えないのか。どちらにせよ、これを使えばお前に負けることはない。)
視線の先には赤や橙に揺らめく自身の拳。
(そんな状況で、お前はどうする?何か見せてくれると期待しても良いのか?)
朝食の仕込みは済んでいるが、調理はまだだ。そろそろ良い時間である。これが最後の攻防になる。
「行くぞ小僧!」
両手に灯した炎で空気を燃焼。手中の空気を高温で加圧する。身体強化で高圧の空気を抑え込み-噴流ジェット生成
ズバンッッッッッとおよそ人体の許容範囲を越えた加速。
(さすがに現役の時ほどの火力は出さない方がいい。下手したら両方怪我するしな。)
先程の身体強化のみのときの三割増しほどに抑えた加速、とはいえこれなら回避は間に合うまい。
(これで)
加速する身体。
(終いだあッ!)
炎を灯した瞬間、レイヴァンは呆れていた。
(火属性は町中で使うもんじゃないだろう…)
ヴォルドーは両腕を後ろに伸ばしている。通常放出系統単体特化型の魔導師であれば手を砲台に見立てて火炎球を飛ばすような攻撃の型をとるだろうが、循環系統をある程度修めている者であれば話は変わる。
(手の向きと魔力の揺らぎの方向からして後方への放出…まさか)
火を単純に放出しないところを見るとヴォルドーも流石に気を遣っているのだろう。勿論レイヴァンに対してではなく建物や客に対してだが。
そしてヴォルドーの意図に気付く。
(加速、だろう。まあ道理だよな。さっきと同じ速さでの攻防なら俺は十回やって十回正確に返せるって気づいているよな、やっぱ。)
戦い慣れした無駄のない思考。既存の戦術に固執し過ぎず、通用しなければ即座に切り替える、戦い慣れして無駄がなく、いっそ冷徹とも言える思考。放出系統は相手に向かって放つもの、という固定観念にとらわれることなく、自分の持ち味を強化するための補助的な扱い、という発想の転換。
(すげえな、さすが師匠と張り合ってたというだけはあって突飛でありながら理に適った賢い戦術をとる。)
多分次が最後の攻防になる。残り少ないのだ。時間も、手の内も。
(ここまで俺に見せてくれて、俺がまだ手を隠していると期待してくれて、嬉しいことだな。)
こちらからも、返礼を。いささか泥臭く、あまり褒められた戦法ではないが。
(相手の移動速度がさらに早くなると、俺もいよいよ捌けなくなる。結構さっきまでも苦しかったし。)
自分に残っている手札はない。放出系統は訳あって使えない。ヴォルドーほどの目に見えるパワーアップは望むべくもない。
ならば、ならば。
(今回はこうしよう。今までに切った手札を切り捨ててもっと身軽に。)
簡単な話だ。
相手が狙ってくる場所を読み、必要最小限の防御を。残りは全て速さと威力に回す。
削って、削って、削って。
(勝つッ!)
ボォァァァァアッ...ズバンッッ!
燃える手から放たれた圧縮空気の反作用で加速する。
ザリぃぃ...パンッ!
地面を足の裏全体で掴み、踏み込み、地面を蹴り飛ばす。防御を削ってまで手に入れた純粋な力で。
両者の目の端には高速で流れる景色、正面には倒すべき敵。
(ぐぁッッ...!)
今ままでと循環する魔力の割合が変わったことで天秤が傾いた。自壊寸前でなんとか持ち堪える。
そんなレイヴァンの様子に、ヴォルドーは目を剥いた。
お互いが防御を捨てた。正確には防御は魔力で硬化した身体の強度に任せた。振り絞った剛腕が唸るッ...
「やめなさぁぁぁぁぁい!」
カンカンカンカンカン!
割り込んできた大音声にヴォルドーが気を取られた。そのヴォルドーの様子に気づいたレイヴァンも拳をヴォルドーから外す。
ヴォルドーの唐突な攻撃中止に驚き、ヴォルドーの方を向くと、冷や汗をダラダラ流すヴォルドーとその先に妻のカレア。
「ねぇ、あなた?」
「...はい、何でございましょう?」
「何しているのかしら?」
「...朝の体操をし、ヒッ!?」
ドスッとヴォルドーの足元にカレアが投げた大きなナイフが突き刺さった。
「何をしているのかしら?」
「すいませんでしたーッ!!!」
バッと身体強化を施したかのような速さでヴォルドーが地面に頭を擦り付けた。
「ねえあなた、わたしいつも言っているわよね。謝るだけなら、」
「ハイ、赤ん坊にもできますッ!」
「そう、それは良かったわ。また教育し直すのは手間ですもの。それなら私が求めている答えはわかるかしら?」
「はい、何で小僧ッ...レイヴァンと戦っているのかでございますかっ!」
「よく分かってるじゃないですか?早速釈明をお願いできますね?」
ブルブルと震えるヴォルドー。それを見てさっきまでの戦いの中でのヴォルドーとのあんまりな落差を見て、レイヴァンは徒労感に襲われた。
ヴォルドーはカレアに事情の説明もとい釈明をし終えるやいなやすぐに朝食の準備に取り掛かった。一方レイヴァンは、ヴォルドーに呼び出されて戦いを挑まれた側なのでお咎めなしだったが、しょんぼりして後ろ姿が小さくなってしまったヴォルドーを見ていると申し訳ない気がして自ら進んで中庭の整備をかって出た。
長さ1メリル程の木の板の真ん中にこれまた木の棒をくっつけた器具を使って地面を撫でていく。深々とえぐられた地面は特に念入りに整備するが、めくれた芝生は元通りにはならなかった。
(最後の一撃...もし静止が入らなかったらどうなっていただろうか。)
自身がそうだったように、ヴォルドーも防御など眼中に無かったよう気がする。我ながら狂っていたと思う。たかが模擬戦で怪我など気にせず相手を倒すことに全力を尽くすなんて。
(一応強度強化は間に合っていたけど、なんせヴォルドーが放出系統を使って速さと威力を上乗せした一撃だ。まず間違いなく骨に罅は入ったはずだ。)
一度怪我をしてしまえば形勢は一気に傾く。
(つまり俺の一撃がヴォルドーに致命傷を与えられなかったら)
と、そこまで想像を進めて、レイヴァンは首を軽く左右に振って思考を振り払おうとする。
(たかが模擬戦だろうが。何をこんなに熱くなっているんだ。)
しかし、一抹の不安がまるで油汚れのようにこびりついて離れない。
もし、ヴォルドーと同等、あるいはそれ以上の実力者をあの国が差し向けてきたら...
(俺の自由はすぐに奪われてしまう。)
いつかのように地面に這いつくばり、空を見上げることもできず、視線の先には土のついた、金属の鎧に覆われた片方の靴しか映らずに、もう片方の靴で頭を踏みつけられて、上からは下品な汚い哄笑が降ってきて、屈辱と無力の苦汁を嘗めることしかできない。
(このままでは足りない。)
手を握りしめる。細い体に力が入り筋がうっすらと盛り上がる。
(俺は二度と鎖には縛られない。)
「怖い顔して、どうかしたのかしら?」
声を掛けられて驚いて下がっていた顔を上げた。カレアが話しかけてきた。
「ごめんなさいね、あの人ったら熱中すると周りが見えなくなってしまうの。私からようく言い聞かせておいたからどうか許して上げて。」
「はい、俺も熱くなってたし、こちらこそ中庭を荒らして悪かったです。」
カレアはふふっと軽く笑った。優しい笑みを浮かべる人だ。ヴォルドーはこの笑顔に惹かれたのだろうか。
「そう言ってくれると助かるわ。さあ、早く整備を済ませて食堂に来て頂戴。あの人には謝罪の意も込めて美味しい料理を作るように言ってるから、期待できるわよ。」
レイヴァンに背を向けて立ち去る途中に思い出したかのように、ああそれと、と言って
「あの人、レイヴァン君のことを小僧とか坊主って呼んでたけど、どうもアレアが同年代男の子を連れて来たのが衝撃だったみたい。ふふっ、どうして男の人って娘の事となるとつまらない意地を張っちゃうのかしら。」
同じく男のレイヴァンに言われても反応に困る話だ。
「それも含めて反省するように言っておいたから、そのこともついでに許してあげてくれると嬉しいわ。」
模擬戦を中止させた時のカレアの剣幕とそれに怯えるヴォルドーのことを思い出してレイヴァンは少し怖くなった。
カレアが扉をあけて建物の中に戻っても、しばらくレイヴァンは一人立っていた。
日の出はとうに過ぎているが太陽はまだ低く、空は綺麗な群青色が薄く伸びている。カレアと話しているうちに顔の険はとれ、ぼぅっとしたレイヴァンの横顔が金の日差しで照らされる。不意に感じた暖かさに、昨夜の眠りの浅さも手伝って、大きく間抜けなあくびが漏れた。
読了お疲れ様です。
本筋より先にこちらで戦闘描写が入ってしまったけど、まいっか。