part 1
「どうしましょう……」
広大な城の片隅の、西の塔。その小さな厨房から、可憐な声がきこえてくる。
西の塔の一階にあるその厨房は、かつては戦などの有事の際に使われていたが、今はもっぱら王や姫に用意するお茶やお菓子のために利用されることがほとんどだ。
せまい室内の中央におかれたテーブルのうえに、まるい形の小さな菓子がのっている。ついいましがた出来上がったばかりなのか、またほんのりあたたかく、やわらかい。こげ茶色のその塊は、かぐわしい甘い匂いを放ってつややかに光り、たいそう美味しそうに見えた。
そんなすばらしい菓子を前に、さきほどから一人の少女が悩ましげにためいきをついていた。この国の姫、エリカ王女である。
女性というにはまだいくぶんあどけなさが残るものの、幼いというほどでもない。御年17才になられたばかりの、花のように美しい姫君である。
王女は台の横の小さな丸椅子に腰かけ、長いこと自らの手で作り上げた菓子を見つめていたが、やがて小さく首を振り、菓子を小箱につめこんでフタをしめると、悲しげに瞳をふせて、それを暖炉に投げ入れようとした、そのとき。
「お待ちください」
ふいに聞こえたその声に、王女がおどろいて振り向くと、だれもいなかったはずの室内に、いつのまに入り込んだのか、黒いマスクで顔を覆った長身の男がこちらを向いて立っていた。
「どなたですか?」
長いマントに身を包んだ、素顔のわからない男に不審なものを感じながら、しかし王女は礼儀正しく尋ねる。すると男は慇懃に片手を胸に当て、頭を下げて礼を取った。
「不躾にお邪魔してしまい、お詫びしたします。私はチョコレートの精でございます」
「……チョコレートの精?」
「カカとでもお呼びください」
おかしなことを言う相手に姫は困惑したが、なぜだかその男から危険は感じなかった。妖精などという存在を信じるほど幼くはなかったが、カカと名乗る男の、どこかで聞いたような低く優しげな声音に、不思議な親しみをおぼえた。
「それで、カカは私になにかご用でしょうか」
「は……王女殿下は、そのチョコレートの箱を暖炉にくべておしまいになるのですか?」
「はい、燃やしてしまおうと思いました」
「せっかくお作りになったものを、なぜ?」
「それは……」
なんと答えて良いのかわからず口ごもる姫に、チョコレートの精はさらに訊ねてきた。
「失敗なさったわけでもないのに、なぜ捨てておしまいになるのです? それではチョコレートがかわいそうではありませんか」
「かわいそう……そうですね。ごめんなさい」
チョコレートの精にとって、チョコを暖炉に投げ込むなど、まるで自分の身を焼かれるような、とんでもなくひどいことであったろうと思い、王女が心からカカにあやまると、彼はいいえ、と首を振って優しく言った。
「なにか理由がおありなのでしょう? 私でよろしければお力になりますよ」
姫ははじめは躊躇っていたが、さあ、とやんわり促されて、次第に重い口をひらいた。
「……じつは、これはある方のために作ったチョコレートなのですが、差し上げることのできないものなのです」
つらそうに眉根を寄せる姫に、男は不思議そうに首を傾げた。
「なぜ差し上げられないのですか?」
「私の立場では、殿方に気安く贈り物を差し上げることはむずかしいのです。よしんば差し上げられたとしても、おそらくは周りをはばかって受け取ってはもらえないでしょう」
「侍女などに頼んでこっそりお渡ししては?」
「いいえ。侍女の口から噂にでもなれば困りますし、それで侍女があらぬ疑いをかけられでもしたら気の毒です」
「なるほど、それはたしかにありうることかもしれませんね」
カカは顎に手を当てて、大きくうなずいた。想う人にささやかな贈り物すらできない身分や立場のむずかしさ、王女という不自由な世界に住む少女を、男はかわいそうに思ったようだった。
「王女である私が、理由もなく一人の方に贈り物をすれば、周囲はよくは思いません。すぐに噂になって、国中、あるいは他国にまで風のように広まり、ついには相手の方にご迷惑がかかってしまうでしょう。ですから、せっかく作ったチョコレートであろうと、こうして暖炉にでもくべるよりほかはないのです」
悲しげに瞳をうるませた姫は、そっと白い瞼をふせ、花びらのような唇をふるわせる。
「周りがよく思わないとおっしゃるのはなぜなのです?」
「……あのかたが、私の臣下だからです。私は来年には隣国、カンタリッジへと嫁ぐ身、その私が、特定の臣下に何かを贈ることは許されないのです」
「来年ですって!?」
男が急に大声をだしたので、王女はおどろいて思わずビクリと身を縮こませた。
「王と重臣との会議で、急に決まったのです」
「そういうことでしたか。しかしそれならば、なんとしてもこのチョコレートを渡すべきです」
男はきっぱりと言ったが、姫はさびしそうな微笑みを浮かべ、ただ首を振るばかり。
「姫君、どうかこの私におまかせください。私なら、だれにも見つからずにお相手にチョコレートを渡すことができます」
「だれにも見つからずに? そのようなことができるのですか?」
「もちろんです。チョコレートの精ですから」
自信に満ちた男の言葉に、王女もすっかり安心して、ならばお任せしようかしらなどと思いはじめていた。
「けれど、相手の方にご迷惑ではないかしら? もしかしたら、もうどなたか恋人がいらっしゃるかもしれませんし……」
「さて、それはどうでしょう。失礼ながら、お相手のお名前をうかがってもよろしいですか?」
「そ、それは……」
とたんに頬をそめて、恥ずかしそうにしていた王女だが、カカがある名前を口にしたとたん、真っ赤になった顔を、両手で覆ってしまった。
「なるほど、護衛隊長のクリス・レイモンドどのでしたか」
「ご存じなのですか?」
「はい、チョコレートの精に知らないことなどございません」
まあ、国の事情から兵士の名前まですべて知っているなんて、妖精とはなんと博識なのだろうと、姫は感心した。
やがて男は背を伸ばして立ち上がり、うやうやしく姫に頭を下げた。
「ではさっそく今夜、姫君のお作りになったこのチョコレートを、かならずレイモンド隊長に届けます。どうか安心してお部屋にお戻りください。三日後の晩、またここでお会いしましょう」
はい、とうなずきながらも不安そうに瞳を揺らす王女に、男はマスクの下の優しげなまなざしを向け、そして部屋をでていった。