065.隣の部屋
「部屋の外に出るのは初めてだから緊張するね。」
そう言うサヤカの声に緊張感はなく、むしろ楽しそうだ。緊張よりも外に出ることへの期待の方が大きいのだろう。
ジーヤコブズは「準備する」と言って出て行った2~3時間後に、多くの人を引き連れて戻ってきた。引き連れてきたのは現存する魔法に詳しい人物を2人とその従者2人に護衛騎士が3人。勇者召喚の儀式の調査に担当者1人と護衛騎士3人。ジーヤコブズ氏自身にも従者1人と護衛騎士3人が付いてきていた。
ジーヤコブズは連れてきた者たちの紹介を早々に済ませると早速実務に入りたいと言ってきた。クラス全員で慌てて作業分担に入った。場所割りと担当分けを済ませると各々がやるべきことを始めた。
僕とサヤカは「勇者召喚の儀式に関する調査」を担当することになった。「勇者召喚の儀式に関する調査」の担当は、初めは僕一人が立候補していた。一人でも構わないと言ったのだが、周囲から一人では不味いと言われてもう一人担当を付けることになった。それに立候補したのがサヤカだった。サヤカはシズカに付き添って火魔法の習得メンバーに入っていたのだが、メンバーが多過ぎて習得場であるシャワー室は人口密度が飽和状態だった。そのため一人抜けるのは好都合ということで立候補したサヤカがそのまま担当に選ばれた。
一方、ジーヤコブズが準備した「勇者召喚の儀式に関する調査」の担当者はルンケイオスという名の老人だった。ルンケイオスは白髪痩せ型で西洋系の顔立ちをして少し背の曲がった老人で、神聖語と呼ばれる魔石に刻まれた模様を研究する学者だった。ルンケイオスは勇者召喚の儀式に使われた魔石を予てから調査したいと思っており、今回の調査にやる気を漲らせていた。ルンケイオスは僕達と挨拶を終えるとすぐに、「儀式の調査ならばまず魔石を見に行かねば。」と主張した。その主張が通り、僕達は思いの外あっさりと大扉を抜けて外に出ることになったのだった。
僕とサヤカはクラスメイトの中で始めて部屋の外へと足を踏み出した。大扉の外は部屋の中と同じ黒っぽいレンガで作られた床と壁でできた通路だった。ジーヤコブズ達が出入りする時にその様子は見えていたため特に感動すべきところはないのだが。
「何だかドキドキするね。」
サヤカが僕の耳元に小声で囁いた。
「うん。ドキドキする。」
耳元で囁かれてサヤカと違う意味でドキドキしていたが、初めての部屋の外なので緊張の瞬間であることには間違いなかった。
大扉からまっすぐに伸びた幅の広い通路は数メートル先で十字路となっている。分岐を左に曲がり、少し歩くと再び十字路に出る。そこを再び左に曲がった突き当たりが目的の部屋だった。初めての部屋の外は、5分と掛からずに目的地へと着く呆気ないものだった。
『ここが先ほどの部屋の隣の部屋じゃ。先ほどの部屋から見ると扉の無い壁の向こう側じゃな。そしてここが勇者召喚の儀式の要と言える魔石が置かれている場所でもある。王家に伝わる秘宝級の巨大魔石が使われたそうじゃから、どんなものか楽しみじゃわい。』
ルンケイオスは翻訳の魔石を介して話している。翻訳の魔石の凄いところは話者の微妙なニュアンスまでもが表現されるところだ。ルンケイオス氏は神聖語と呼ばれる魔石に刻まれた文字の研究者であることから今回の「勇者召喚の儀式に関する調査」の案内役に選ばれた。いやむしろ買って出た。彼の役割は単なる案内役なのだが、研究者としての情熱と喜びか漏れ出ており、僕達以上に調査にやる気を出している。
『ルンケイオスさんも勇者召喚の儀式に使われた魔石を見るのは初めてなのですか?』
『勇者召喚は秘密裏に進められておったからのう。それが作られていることも秘密にされておったのじゃ。大規模な工事などもしておったから何かしていることは分かっておったが、巨大魔石を使った新たな魔法のことは勇者召喚成功後に始めて存在を知ったのじゃが、その後は何故か勇者が話す言葉の調査をさせられていたのじゃ。神聖語学者なら言語に強いというのは大きな誤解と思うのじゃが。』
『それは大変でしたね。神聖語?に関しては僕らも全く分かりませんので、僕らの言葉とは全くの別物でしょう。』
ルンケイオスと話している間にお供の騎士達が魔石の安置されている部屋の大扉の閂を外した。そして大扉を開かれる。すると強烈な臭気が漏れ出てきた。生臭い。開かれた大扉の中を除くと、そこは僕達がここしばらく暮らしていた大部屋と同じくらいの広さの大部屋なのだが、部屋中に大量のゴミが散らばり悪臭を放っていた。
『これは強烈じゃ。すまんが一旦締めてくれ。』
ルンケイオスの指示で大扉は一旦閉められることになった。扉を閉めると全員が大扉から一旦離れる。
『酷い惨状でしたがどういうことですか?』
『うむ、ちと甘く見ておったのう。勇者召喚後はこちらの部屋を誰も確認しておらなかったのじゃが。とりあえず口と鼻を覆う布でも用意するとしよう。』
ルンケイオスの指示で鼻と口を覆う布や手袋が用意された。
用意している間に部屋の惨状について説明があった。この部屋は勇者召喚の儀式に使われた部屋なのだが、部屋の中には儀式の代償となる供物が納めてあったとのことだった。この部屋は儀式に使用した魔石が置かれている部屋であるのと同時に、神託で指示された供物を納める部屋でもあったのだ。供物は儀式により失われるということであったため、きれいさっぱり無くなる物だと思われていたのだが、実際には先ほど見た通りに一部が残されていたようだ。供物には生肉や食品に類する物が多くあり、その一部が残されて放置された結果が先ほどの惨状だろうということだった。
『部屋の造りは僕たちが居た部屋と同じようでしたが、こちらの部屋は上から覗けるようにはしていなかったのですか?』
『うむ。あの設備は召喚された勇者を観察するために用意されたものじゃからな。供物を監視するために態々あのような設備を造りはしなかったのじゃろう。』
僕の質問にルンケイオスが答えた。そして今のやり取りで予想していた通りに大部屋の上から観察されていたことが確認できた。観察の目的などは分からないが、このルンケイオスは計画段階では勇者召喚の儀式には参加していなかったようなので聞いても分からないだろう。
しばらくすると布が配られ、全員が口と鼻を布で覆った。騎士達も被っていた兜を脱ぎ口と鼻を布で覆っている。鍛え上げられた騎士も悪臭には勝てないようだ。
『準備は良いかな。それでは気を取り直して調査に入るとしよう。』
ルンケイオスの指示で再び扉が開かれた。再び強烈な臭気が鼻を突く。布だけは完全には防げなかった。
「うぅっ。鼻が曲がるってこういうときに使う言葉なんだろうね。」
サヤカが涙目に成りながら言う言葉に頷くしかなかった。
「辛かったらサヤカさんは外で待っていてくれてもいいよ?」
「ううん。大丈夫。アロー君にだけ任せたら悪いもの。」
小声で話す僕たちを他所に、ルンケイオスは勇んで進んでいた。足元には生理的に踏んではならないと思わせる黒い物が散らばっており、二人はそれを避けながらルンケイオスについていく。そして向かって左側の壁、中央付近に辿り着いた。
『ふぉー!これは大きい!これほどの大きさの魔石とは、随分と奮発したのう。』
『これが魔石ですか?確かに随分と大きいですね。』
ルンケイオスが驚きの声を上げた先には、サッカーボールくらいの大きさの灰色の球体が置かれていた。
『うむ。これが召喚に用いられた魔石じゃ。これほどの大きさになると一般人が目にすることはまず無いであろうな。わしも初めて見るわい。勇者殿もこれほどの魔石となると見たことはないようじゃな。』
『僕らの居た世界にはそもそも魔石という物が無かったので、当然初めてです。』
『魔石が無いとはまた不便な世界じゃのう。わしなど、魔石が無かったら生きている意味が見出せん。』
そう言うとルンケイオスは懐から紙の束とペンを取り出して魔石に書かれた模様を模写し始めた。
『魔石ごと外に持ち出すことはできないのですか?』
早く外に出たい僕はルンケイオスに尋ねた。
『魔力を使い果たした魔石は脆く崩れ易くなっているのじゃよ。灰色は魔力を使い果たしたことを意味しておる。このサイズの魔石じゃと下手に持ち上げようとすれば崩れてしまうじゃろう。』
『そういうものですか。それで魔石の模様を書き写しているのですね。でもそういうことならここは僕に任せてください。僕らの世界にも魔石の代わりとなるような物があるのですよ。』
そう言うと、携帯端末を取り出して魔石の写真を撮り始めた。
『それは何かのう?』
『僕らの世界で作られた道具です。目に見える物を見たままの姿で記録することができます。』
『どれどれ、ほう。これは便利だのう。何っ!幾つも記録しておけるのか!それならばここも、ここも記録して欲しいのう。はははっ!これは楽じゃわい!』
ルンケイオスは携帯端末の写真機能に喜び、あれこれと撮影を指示した。
『これを持って帰ればよいのじゃな。これは思いの他早く調査が済むのう。正確に書き写すために長期滞在も覚悟しておったのじゃが、いやはや、勇者とは凄いものじゃのう。』
『いや、携帯端末が凄いのは認めますけれども、僕たちが凄いわけでは無いですよ。これを作った人というか、作られるようになるまでの歴史が凄いのだと思います。一人の人間だけで為し得ることではありませんから。もちろん僕らでは作れません。これが勇者の力だと思われると困ってしまいます。』
『そうかのう。何にせよおかげでここから出られるのう。出られると思うと耐え難い臭いじゃ。』
こうして僕達の勇者召喚の儀式に関する調査は、魔石の写真を撮るだけの滞在時間10分程度の作業で引き上げることとなった。