22 女神ですが神威の呪文ですよ
#22
あと少し……あと少し……。
喉まで出掛かっているのに思い出せない。心臓がドクドクする。
おぼろげな記憶に手を伸ばす。
つかみ損ねたなにかは、形を失ったまま忘却の彼方へ消えてしまう。
『そういえば、昨日言ってた人魚温泉ってこのへんですよ』
なんとなく出た言葉がそれだった。
兎狩りを切り上げた私たちは、細い谷間のような砂利道を歩いて、【三時門】が見える辺りまで戻ってきていた。
ツル植物が幾重にも重なる極相林を、街道がまっすぐ貫いている。テリトリーを奪い返そうと、若草色のツル草がウネウネと手を伸ばす。巻きひげが小石に吸い付き侵食する。しばらく放置すれば、緑で埋まってしまうだろう。
子供キャラの私は、ツル草に足を取られて非常に歩きにくい。オーレリア姉様は疲れて寝てしまい、ネコジンさんの腕の中だ。
穏やかな風が心地よく髪をなびかせる。
『レシピ欲しいな』
……あ、やばい。ネコジンさんの何かに火がついた。
そういえば温泉に反応していたのはオズさんだっか。
レシピといっても温泉のレシピではない。人魚のレシピでもない。亜麻髪ゴッドの競泳水着のほかにも、なにか心当たりがありそうだ。
『じゃあ、せっかくだし寄ってみます? 右のほう。上空から行けば丸い池が丸見えです』
『ちょっとバランス厳しいの……。飛ぶのを手伝ってほしい』
彼女は《飛行スキル》が苦手なようだ。
このところ色々お世話になっているので、全力で意に沿いたいところだ。
『後ろから押せばいいのかな。お姉様はどうしよう』
『子守帯でも作る? というか、気になっていたのだけれど、本当に姉なの?』
『いやー……どう説明すればいいのか謎だけど……。ネルソン君のNPCに会いに行ったら、妹にも会ってほしいと言われて、ログアウト前にちょっと顔見ようかって軽い気持ちで覗いてみたら、朝ベッドでちゅんちゅん。伯爵令嬢になろうクエストが発生して、超スピードの展開で訳わかんないうちに、気がついたら妹の妹になっていた。それが今朝の話』
『分かったような、分からないような……。はいこれ』
ネコジンさんは、オーレリア姉様を私に預けると、《裁縫スキル》を起動させてベビーキャリアのようなものを即席で作った。クッションの効いた小さなハンモックを、旅行者のリュックサックのように前向きに提げる構造だ。手を使わなくてもお姫様抱っこできる優れもの。匠の技である。
『おおおお!? よくこんなの即興で作れますね? 生産スキルってすごい』
『イメージすれば意外と簡単』
ネコジンさんは、青白いウロコ肌を紫色に染めてうつむいた。生産する人は意外と照れ屋さんが多いのかもしれない。
左手でお姉様の足を抱きかかえて、右手でネコジンさんの首にしがみつく。それから私は、お姉様の背中とお尻にひざを宛がう。プレイヤーは最悪落っことしても蘇生できるが、NPCはどうだか怪しいので安全第一だ。
『いつでもオッケー』
『5、4、3、2、1、ゼロ!』
ネコジンさんの口から、純白の羽毛が吐瀉物のように噴射された。予想以上のパワーで大空へ打ち上げられていく。
……アカン奴だこれ!
笑いをこらえて「プクククッ」とやっていたら、ネコジンロケットが「ブボッ」と噴き出してエンストしそうになった。構造的欠陥でいつか墜落するよこれ。
ぐいぐい後ろに押されるので、彼女のしなやかな背中に胸骨を押し付ける。力いっぱい斜め上に持ち上げるように飛ぶ。
茶色のフードがバサバサ動いて顔を叩かれた。ちょこっと息が苦しい。くっつく姿勢をミスったか。
一声掛けようとしたら、ネコジンさんがばたつくフードを押さえてくれた。
『あそこ。少しずつ噴射を絞ってプリーズ』
緑の絨毯に、小さな穴が空いている。空を映した、空よりも青く深い穴だ。
制御をミスっても、最悪あの水たまりに落っこちれば何とかなるだろう。
ネコジンさんを正面に、私たちは少しずつ高度を下げていった。
『女神が出てきそうな泉ね』
ネコジンさんが両手を伸ばして深呼吸する。
聖なる泉といった感じの円形の広場は、透明な水をなみなみと湛えている。
泉の中を覗き込むと、真昼の太陽のまっすぐな陽射しを受けて、怖いくらいに切り立った何十メートルもある壁面が見える。あいかわらず水底を窺うことはできない。覗き込んでいると、吸い込まれてしまいそうだ。
『……ん? 今なにか……』
動いた。
青いウロコの人魚が水面から飛び上がる。亜麻色の短髪。青い瞳。必死な表情で空中に手を伸ばしている。やけにゆっくりと水しぶきが広がる。
私は困惑しながら、水しぶきの陰に潜む新たな人影を見て向き直った。回避主体の二次元戦闘では、斜めからの飛び道具がわりと鬼門なのだ。
飛沫の向こうに見えるのは、小さな子供。陽光に輝くプラチナブロンド。純白の腰羽。裸同然で武器は無い。そして肌色の水着……いや違うこれは亜麻髪ゴッドの……。
『私だーー!?』
なにがなんだか分からない。
得体の知れないコピー人間が、《飛行スキル》で突っ込んでくる。
『《吐息Ⅱ=風神砲》!』
『《飛行Ⅴ=螺旋回避》!』
反射的にぶっ放した紫ガスは、回避系アシスト効果の【スーパーアーマー】で綺麗にいなされた。
オーレリア姉様を両手でかばう。後ろに倒れそうな姿勢で羽根を打ち、厚手のタイツで守られた両足を思いっきり突き出す。
「ひゃわあああああ!?」
コピー人間はスカートの中に突っ込んだ。
素肌が露出しているふとももを触られた。
にゅるっと何かが入ってきた。
──青く暗い洞窟──銀色に光る足ヒレ──石灰岩のプール──
──小魚のおやつ──サーシャ──マーシャ──
──ログアウト──システム通知──
──賢者の権能──
「《賢者Ⅲ=ラチェットロック m.blu.0001.079103》」
“私”はささやくように呪文を唱えた。
機械仕掛けの時計のように歯車が噛み合い、ガチャリと音を立てたイメージが脳裏に浮かぶ。“私”の内部構造が変化して、強固な鍵が掛かったのだ。
『【システム通知】:《賢者Ⅱ=ワイドサーチ》! 《賢者Ⅳ=タルパユゴルム》! 全方位走査にも反応しませんか。そこに居るのでしょう? 貴方に憑いていた我々は何処へ?』
“私”は状況がよく分からないが、意図するところは知っている。
『【システム通知】:解析結果……NPCは囮ですか。やってくれましたね』
「サーシャ! 成功、だよ!」
『【システム通知】:…………』
“私”は【システム通知】を無視して、水しぶきと共に落ちてきた人魚にグッドニュースを届けた。そうするのが相応しい行動に思えた。
「よかったぁぁ……やったねぇぇ……女神ちゃん……」
人魚のサーシャは地面に這いつくばったまま、泣き笑いの表情をフニャリと浮かべた。
水しぶきの直撃を受けたネコジンさんはビショ濡れだ。
「ふぁ……わたくし……。魚!?」
お姉様が起きた。
「つまり、どういうこと?」
ネコジンさんが濡れそぼったローブのすそをピラピラさせた。
「はわわぁぁ!? 魔牙ぁぁ!?」
ヒト型爬虫類の顔を見た人魚さんが、目をまんまるくさせて仰け反った。
状況はカオスだ。
融合を果たした“私”は、意識の一部が冷静なまま混乱している。
冷静な“私”は、サポートAIに情報が漏れると、憑いているプレイヤーにまで被害が及ぶことを危惧した。一連の騒動で、幸いにもネコジンさんの目に“私”の姿は映っていなかったようだ。
「【ヒレ族】の友達。サーシャは、【青色絹】を知ってる。
【キバ族】の友達。ネコジンさんは、角ウサギの料理ができる。
そして、オーレリアねえさまは、わたくしの家族です」
「【青色絹】!!」
「きゃぁぁ……食べないでぇぇ……」
「……ノイシュ?」
混乱は収まりそうにない。
しかし、追い詰められてからのラストスパートに定評のある私はうろたえない。
ネコジンさんへ向けて《交易》の明示盤を開き、角ウサギの大量の死体を一括譲渡する。もうひとりの“私”がパンチとキックでコツコツ集めたものだ。
それから、《水泳スキル》を《伝授》した。もうひとりの“私”がコツコツ習得したものだ。
「ネコジンさん。それでサーシャたちに、お腹いっぱい食べさせて。
サーシャ。あとはお願い。
ねえさま。昼食に戻らないと、怒られそうです……」
「そうね……。ネコジン様、ごきげんよう。わたくし達はお暇いたしますわ」
「ごきげんよう、オーレリア様」
「待ってぇぇ……待ってぇぇ……待ってぇぇ……」
音を置き去りにして大空へ舞い上がる。オーレリア姉様と私は、【六時門】へ向けて一直線に飛んだ。
さあ、やることが山積みだ。頑張ろう私。
「ねえさま? ねえさま?」
「ううん……」
見張り小屋の屋根の上で、ほっぺたをペチペチする。
お姉様はまた寝ていたようだ。
そんなことをやっていると、ガタッと物音がして、ドカドカ足音が響いた。
「お嬢様が見つかったぞぉぉぉぉ!!」
金属鎧のおじさんが叫んだ。
お城は大騒ぎになった。
オーレリア姉様と私は震え上がった。




