10 地味だけど必要な修行回です
#10
「メイドさん、子供用キッチンの用意を」
『かしこまりました。調理指揮所を構築します』
今日は早起きしたので、ご飯を作る。
キッチンのデータを自家用空間に結合すると、何もない空間にコンロと流し台がポンと現れる。うん、小さい頃に使ったデータのままだね。
翼でふわりと気流を掴み、キッチン目がけて飛翔する。
『お嬢様。なんだか懐かしいですね』
「はいはい、集中させてね」
お味噌汁は意外と簡単。まっさらなお湯に、どうやって旨みを溶かし出していくか、という料理。
大根を刻み、鍋を沸騰させて、まずは大根の出汁をとる。旨みが出てきたら油揚げを入れて、足りない旨みを補う。大根に油揚げは伝統的な組み合わせだ。次に、昆布・椎茸・鰹節の自家製出汁をトロトロ入れる。粉末出汁でも大丈夫。気分によって豆腐や旬の野菜も投入。火を止めて、白味噌と赤味噌を混ぜたら出来上がり。
味噌汁を作って、おかずを温めて、ご飯をよそったら完成。人間はご飯を作れば生きていけるのだ。そう板前さんに習った。
「メイドさん、これでお願い」
『食生活指針を満たしません。規矩調整をしてくださいませ』
私がメイドさんと呼ぶのは、我が家の空間発生器の一体。特異点物質由来の組み込み子AI――通称メイド回路――を駆使して何でもできる。仮想世界でAIトレーニングされた第一世代の骨董品でいろいろ煩い。
「メイドさん、それは今度にして」
『お嬢様、縮みますよ』
「いやこれアバターだからね! 四次元造形だから縮まないからね!」
私はVR端末に、物質界への帰還を命じる。
「簡単終了」
『終了します』
【完全没入型VRゲーム推奨ベッド】から起き上がる。首の後ろを手刀でトンッとやってVR端末を外す。
「ふぁーー」
『大きくなられましたね、お嬢様』
「ぶはっ」
そりゃあね。そうね。子供キャラと比べるとね。
起き抜けのメイドジョークで力が抜けた。
生体印造で生やした翼をパタパタする。うん、羽根がきれい。
昨日ゲームをやりすぎたせいか、なんだか違和感がある。背骨のあたりとか。カルシウム不足かな? いや、メイドさんのサプリは飲んだし。ネルソン君のダイヤモンド粉砕パワーに当てられた? ……いやふつうに運動不足か。この前ネットで見たストレッチを試してみようかな。
……というか、冷静に考えると、ゲーム内時間で三日間、リアル十時間動けないゲームってヤバイよね。意味が分からない。ちょっとゲーム内では思いつかなかったけれど、私は怒ってもいいよね。
「メイドさん、運動部屋の準備を。あと、ゲーム・スタックの件で運営の上の方に文句言っといて! 第三種で!」
メイドさんに頼んでおけば、配下のAIをリレーして事務仕事とか色々やってくれる。朝食の準備とかも。
『かしこまりました。拡張教練を投影。タスク・レベル3にて質問状を作成、送付します。では、後程』
そう言って、メイド服の女性は綺麗な礼をしたまま姿を消した。物質界では立体映像と声だけの存在だ。
ところで、予防運動というものをご存知だろうか?
人間の脳みそはけっこう自由で、しばしば人間以外のものに適応しようとする。
例えば、自分が運転する乗り物のボディを自分の身体のように感じるとか。情報端末の指示印を自分の手足のように感じるとか。
それらは一見良いことのようで実は、過剰に適応すると、脳みそが戻ってこなくなる。自然主義者の宗教の話ではなく、国のデータをもとに統計局がまとめた医療の話だ。
精神的な不調の回復は早い。精神体についた変な癖は仮想世界で戻せばいいし、実のところ人間の精神は、自分で思うほどの個体差はない。文明圏が同じなら術式も同じ。ちょっと頭を捻ればバカにも天才にもなるし、紙一重の狂人みたいな人格破綻はフィクションの存在である。
しかし、肉体的な乱れは長引く。免疫系の個体差などは解のない複雑系そのもので簡単には治らない。細胞小器官の変異による老化が無くなっても、依然として寿命は存在するのだ。最悪、生体印造の定着率が下がって寝たきり状態になる。脳だけ元気に通信生活。
完全没入装置で重症化しやすいそれは、電脳失調――複合的な身体機能の低下症状――と呼ばれる。
予防運動とはつまり、電脳失調を予防するために意識して身体を動かすこと。
詳しい内容は国家資格のトレーナー――うちのメイドさんとか――でもないと知らないけど。筋肉を動かすのはもちろん、光を浴びたり、暗くしたり、反射神経を鍛えたり、呼吸をゆっくりしたり、臭覚を刺激したりする。
予防運動は、複雑な道具や概念デバイスを使う者の宿命みたいなものだ。
加速倍率が大きいと体感時間も長いので、予防運動のメニューは凄いことになる。もとい、なってた。ビバ! ストレッチーズ!
……というわけで、運動部屋へ。
いろいろ怖い話をしたけれど、恒常因子がいきなり悪くなる事はそんなにない。徐々に良くなったり、徐々に悪くなったり。それをさざなみのように繰り返す。
つまり、難しいことは考えないで、積み上がった予防運動を消化すればいいんだよ! 修行するぞ! 修行するぞ!
身体に意識を集中する。腕に。脚に。肺に。どのように動くか確かめる。
運動中は情報端末などには触らない。対話型AIとの会話は仕方ないとして、厳密にいうと紙媒体に至るまでダメらしい。とても暇。ものすごーく暇。
柔軟体操。身体操作に集中……集中……。ガイダンスに沿ってゆっくり身体をほぐしていく。
……あれ? 翼のストレッチってどうすればいいのかな??
柔軟が終わったら、次は自由種目。
骨董品の弓立てから弓を取る。本物の和弓。竹の合板に似せた合成素材だけど。実物があるとやっぱり違うよね。これ実は植物細胞じゃなくってキノコ細胞みたいなんだけど。
たわめた弓に弦を張る。胸当てと弓懸を付ける。準備完了。
ちなみに部屋は立体映像で弓道場っぽくして、壁の一面に奥行きのある仮想の庭を投影してある。雰囲気は大事だよね。こういう拡張風景は運動中に使っても特に問題ない。
姿勢を正し、庭の奥にある的場を見る。
弓を構える――立体映像の矢をつがえる。
矢を放つ――模擬反作用のベクトル演算。
弾着、今!
弓道は、正しく射ると必ず命中する。
射場と的の位置は決まっているので、平らな床に両足を開いて、しっかり腰と背骨を乗せ、正しい姿勢で構えれば、矢は同じ弾道を通る。
弓道は神前礼拝なので、厳密には呼吸のリズムまで茶道のお点前のように四拍子とか八拍子とか決まっていて、入場から退場まで作法を守れば、同じ位置で同じ姿勢になる。
つまり心技体が揃えば必中。
中らない時は、風が吹いたか、体の歪みか、心の歪みか、道具の手入れが悪い。
慣れてくると、一筋の矢に身を任せて身体操作を忘れることになるけれど、それが逆説的に身体操作の極みへとつながる。
どうですか? 予防運動には最適のルーチンなのです。超おすすめ!
弓道は弓道場でしか鍛錬できないから応用が利かないと思われがちだけど、これは建物全体を使った『武道の形』なので極めればどうとでもなる。たぶん。
本物の矢も使ってみたいけど競技免許がいるんだっけ? トレーナーが居ればオッケー? まあ、奥行28メートルの天井の高い部屋がないとダメだし、特異点物質は重さが一定ではないので建築基準法的に無理なのです。
一般的には歌ったり踊ったり手軽な予防運動が人気っぽい。楽器を演奏するのも人気がある。どんなに頑張って練習しても数値演奏には届かないのだけど、生身で本番というものにはそれなりの意義があるらしい。めちゃ流行ってるし。
そもそも論だけど、有意義な運動というのは結構難しい。
意味のある運動って何だろう? 古代の人々は生きるために運動していた。生き残るために命懸けで肉体を酷使した。その遺伝子を受け継ぐ現生人類は、そういう基本設計の生き物だ。
メイドさんに頼らずに掃除や洗濯をする……のはちょっと無理だし。全身運動は水泳がいいらしいけれど、プールは髪が痛むし……誰か髪の痛まないプールを発明したりしないかしら。あとは……免疫系に問題なければ、本格的にクワを持って地面を耕してみたり?
そういえば、学校で運動部に入ろうか迷ったときに迷いすぎて、「もし文明が崩壊したら、どの部活動が役に立つのかな?」って思って真剣に考えた。剣道部なら刀で無双できるし、弓道部なら獲物を狩れる。お父様曰く、剣道をやっていれば30センチ定規を持つだけで大男に勝てるらしい。世紀末でも安心だ。素手戦闘はやっぱり厳しい。そしてお母様曰く、楽器をやれば音楽で平和になるらしい。話をよく聞いていなかったのかな?
ちなみにどうでもいい情報だけども、お父様は水泳部でキャプテン。つまり30センチ定規でやられた方。お母様は茶道部と華道部でお姉様をやっていたそうだ。お姉様?
……まあ。趣味ならともかく。あれを踏めばいいのです。あれ。自然主義者が大好きな。あれ。運動部屋で発電素子を踏むのです。発電するのです。その方が多分マシなのだわ。デ・ベリスの飛行訓練やってたほうがウルトラ有意義だけど。
あ、腕がプルプルしてきた。一番軽い弓なのに。疲れてきたぞ。背中の肩甲骨のとこ。リアル天使だったらハネの生えてるとこ。
あ、リアル飛行訓練もやらなきゃね! グライダー免許でいいのかな? 空力面の超格子は? ゲームから取り込んでる? ダウンロードは。今は端末が見れないよ。だめじゃん。
それにしても。ついに。やったのです。私の羽根キャラ。動けるように。なったのです。ゲームの世界で。とりあえず条件付きだけど。喜びもひとしお。なのです。たのしー。わーい。
動くと、純白の羽根が、闇の波動に汚されるけれど……。あの赤黒い発光現象は何とか封印できないものか。聖なる天使パワーとかで。
「うーん。しばらくは魔眼スキルを頑張ろう」
水晶から抜け出すための移動手段、魔眼スキルはスタミナ技なので連続使用できる。MPのような明確な限界がない。
そして、気軽に使える反面、肉体系の能力は疲れる。力が抜けて動けなくなる。
スタミナの限界は感覚的なもので説明しにくいのだけど、スタミナ量そのものが回復力で、疲労を抑えるパワーになる。マラソンの持久力みたいなものだ。元気があればずっと走れるし、無理をすれば直ぐに限界が来る。
当たり前だけど、体力的なリソースは何かにつけて消費される。走ったら疲れるし、能力ならもっと疲れる。
息長く連続使用するコツは、無理をしないこと。それだけ。
「今までMPは垂れ流しだったけれど、風纏スキルにも手が回るかなあ。いや動けるならもっとかわいい系のスキルも――――」
ちなみに肉体的なスキルは《飛行C》《魔眼D》《吐息E》《疾走E》。
精神的なスキルは《祝福A》《風纏E》。
ゲーム開始からリアル三日。ほぼ戦闘なしでここまで育った。ゲームに居すぎてちょっと記憶があやふやだけど、ガッツリ二百時間はプレイしていると思う。飛行スキルは伝授で下がってしまったけれど、ユニークなスキルを三つも覚えた。レベルもスキルもそれなりに上がった。
モンスターを一匹も倒していないので、お金とアイテムはお寒い状態だけど……。なんでこんなことに……!
それはともかく、レベルアップで飛びやすくなった気がする。大陸を飛び越えた私の経験からしても、飛行スキルの下がった今の方がよほど飛行能力が高い。スタミナ的なものだけでなく、強風の中で目を開けたまま飛びやすくなったり、ちょっとした空気の渦で羽根が乱れなくなったり、肉体の強さ自体が上がった。
HPとMPはレベル20くらいから伸び悩んでいる。特にHP。初期と比べるとMPは数倍に増えたが、HPは三割程度。最近ますます伸びなくなって、成長曲線は対数関数的にペッタンコだ。黄金比φで螺旋を描きそうな低空飛行だ。
たぶん《精神AAA》が良い感じに仕事をして、《筋力F》《耐久F》あたりが嫌な感じに仕事をしたのだろう。
身体能力は恐らく、レベルアップでは増えない。スキルを鍛えるとボーナスがつく感じだと思う。これまでスキルの上下に応じて、《感覚C》と《反応AA》が微妙に減ったり増えたりしているし。筋肉が増えそうなスキルも探してみないとね。
私は羽根キャラ育成計画を練った。
身体を動かした後、身だしなみを整えて食堂で待つこと暫し。
仮想世界のご飯が物質界に届いた。私が作ったものとそっくり同じものだ。
今日も温かいご飯を食べられることに感謝して。
――いただきます
辛い大根を茹でるだけで、なんともいえない旨みが出る。海の幸と山の幸と、ほんのり甘い白味噌と香ばしい赤味噌を合わせたら、味の深みが違ってくる。味噌と醤油って誰が発明したんだろうね? 和食の調味料を考えた人は天才だ。
「メイドさん、なかなか美味しいです」
『それはよろしゅうございました』
「メイドさん、わたし料理の才能あるかも」
『それはよろしゅうございました』
「メイドさん、お母様にも送っておいてね」
『それはよろしゅうございますね』
私は、ふうとため息をついた。
ああ早く純白ふわふわの羽根を愛でたい。パタパタ。
そういえば、あの世界に味噌ってあるかな? 後でゲーム食材をダウンロードしなきゃ。潮見予報によっては、お高いディナーになるかもしれない。




