一話
深瀧の国。深く清らかな湖と、雪降る山の要塞に囲まれた、美しい里。この国を守護する我らが一族は、代々、深い水の如き蒼髪を持って生まれてくる。かつてこの地を災いから救い、豊かな国として育て上げたとされる土地神“龍神様”の血族の証として。
けれど。
「……赤毛の子」
傍を通り過ぎる女中たちが、声を潜めて囁き合うのが耳に入った。恐れるとも、見下すともわからぬ、嫌悪の交じった声。その理由は、今更誰に聞くまでもなく分かりきったこと。父も、母も、たった今低い聲で私を嘲った女中達も、屋敷中を行き交う全ての人々の頭髪から着物まで、何もかもが晴れを映す湖面のように煌びやかな蒼色に染め上げられたこの家で、私だけが赤かった。そこに、一滴落とされた穢れの色のように。
家の中を歩き回れば、必ずこうして白い目で見られ、棘のような声を刺された。父はそれを知っていて、私を毎日、屋敷の端から端まで歩かせた。湖を越えた先の離れに隔離された母親に、日々の食事を届けさせるために。
西の戸から、中庭に出る。澄み切った湖の一角が眼前に広がる。欄干橋を渡るあいだも、すれ違う者が口々に囁く。
「赤毛の子だ」
「忌むべき子だ」
「なぜ、のうのうと生きていられるのか」
責苦の雨は私の身体を貫いて、蒼き湖面へと落ちてゆく。湖は、波ひとつ立てず静謐を守っている。
「母上、朝餉を届けに上がりました」
離れの中は朝だというのに薄暗く、湿気た空気で満ちていた。母は私の声に返事も示さず、伸ばしたままの、長くもつれた蒼髪をこちらに向けて座っていた。
「今朝は寒うございますね。これから、だんだんと冷えが厳しくなってくるでしょうか」
反応はない。
「お風邪を召されぬよう、大事になさってください」
私は、食事の載った盆を置こうと、母の側に膝を折った。途端、母が甲高い叫びを上げ私の顔を打った。食事の盆が返り、派手な音とともに器の中身がまき散らされる。その間にも母は瞳孔の開き切った眼を血走らせ、両の手で立て続けに私を打った。
「消えろ!」
地の底から湧き上がるような母の呻きを聞きながら、私は返った器を必死に盆に拾い集めて、すぐさまその部屋を出た。
「消えろおぉ」
背中越しに迫る声を断つように素早く、後ろ手に戸を閉める。長く息を吐いて動悸を落ち着かせながら、盆の上ですっかり空になっている器たちを見つめた。
もう、一往復。
私の脳裏には激高し蔑みの目を向ける父の顔が浮かんでいて、踵を返す足は鉛のように重くなった。
「赤毛の子……」
欄干橋を引き返しながら、私はその言葉を反芻していた。
いったい、なぜ自分だけが“赤かった”のかは知らない。ただ、何の因果か私の生まれた年から国には不作や災いが起きたこともあり、家の者は皆ひとえに「災いの兆し」「不幸の象徴」などとして私を見ているのだ。美しかった母もあのように心身を病み、以前は優しく聡明な領主であったという父までも、私が生まれてからはすっかり狂ってしまった。そんなことを思えば私は、ひょっとすると本当に、龍神様から見放された子……謂われ通りの「忌み子」だったのかもしれない。
父さま、母さま、私を憎んでいますか。
そう尋ねれば、返ってくる答はきまってひとつ。けれども、一度として尋ねたことはない。そんなことは尋ねずとも明らかだし、何よりおそろしい。だから両親とはこれまでも、ほとんど一方的な言葉のやり取りか、儀礼的な会話を交わすばかりだった。京紅という名の「京」の字が、もとは「凶」から来ているというのも、つい最近になって知ったことだった。
* *
「お早うございます、母上」
明くる冬の日、私はいつものように母に食事を届けに行った。母はその日は気性が落ち着いていて、私が畳に盆を置いても突然暴れ出すことはなかった。相変わらず私の言葉には反応を示さず、雨戸を閉め切ったままの窓をじいっと見つめている。
「早朝は雪が降りましたよ。今日の天気だと、また昼間あたりには降ってくるかもしれません」
母の背中が、前へ後ろへと揺れはじめる。ぎこぎこと、古びた骨の軋みが聴こえてきそうなほどに、固く、ぎこちなく。私が立ち去らないことが、どうにも居心地悪いらしい。
「……下町の様子を見てきます」
諦めの色を吐き出して、戸をゆっくりと閉める。暗がりのなかに閉ざされながら、座り込んだ影は乗り手の消えた木馬のようにぎしぎしと、不気味に、その躯を揺らし続けていた。
街に下りると、冬の朝の淋しげな空気は徐々に、雑多な音で彩られてくる。染屋の水車の水を繰る音、どこかの家の湯沸かしの音、軒先ではしゃぐ、子どもたちの声。災害の影響で決して豊かとは言えないまでも、街には今も損なわれぬ活気のよさがあった。しっかりと雪かきのされた街道を歩きながら、聴こえてくる音のひとつひとつに耳を傾ける。
「そこの若旦那、瓜はお好きかい」
はたと足を止めてその声の方を見やると、八百屋の娘が大ぶりの白瓜を手に期待の目をこちらへ向けていた。
「おや、この時期に瓜か。それもこんなに立派な」
「珍しいだろ?外国から仕入れたのさ。味だってちゃんと保証するよ」
「ふふ、そうか……よし、貰おう」
懐から代金を取り出し手渡す。娘が目を大きく見開いた。
「こんなに貰っていいのかい?」
「うん、ちょうど瓜が食べたかったんだ。私の好物だが、冬には無いから」
そう言うと娘は嬉しそうに白瓜を差し出し、顔を輝かせながら店の奥へ戻っていった。
さて、この立派な瓜をどうやって食べようか。そんなことを考えながら、もう少し街をぶらつこうと八百屋をあとにする。そのとき、空からはらはらと白い粒が落ちてきた。
「……ああ、降ってきたか」
雪は、灰色の雲から次々と舞い降りて、地面を覆う薄氷の上に重なっていく。
この調子だと、すぐに積もりそうだ。今日は帰ろうかと踵を返しかけたそのとき、何かが動いたような、ごそりという妙な音が耳に届いた。野良猫か何かだろうか。そう思い、目をやった途端、店の脇の細い路地でうずくまる小さな影と目が合った。
「…………!」
まだ、12、3くらいだろうか。みすぼらしい風貌の少年が、ごみに紛れて座り込んでいる。ぼろ布のような衣服を纏い、痩せ細った手足を投げ出し、ぼさぼさの汚れた栗毛の下から、生気のない瞳をこちらに向けていた。血の気の失せた肌はまるで屍体か人形のようだったが、ぼろ布の下の胸が微かに上下しているのを見て、その子が瀕死の状態でまだ生きているのだとわかった。
「何をしている、こんな寒いところで……」
急いで少年のもとに駆け寄り、羽織を掛けてやる。少年はぐったりとしたまま、返事をしなかった。私は瓜を脇に投げ出し、両腕で少年を支え起こした。そして、その体を服で包みながら、はっとした。枯れ枝のように細い首周りに、固い帯で縛られたような青黒い痕がある。まさかと思い、ぼろ布の袖の部分を捲ってみると、二の腕に外国の奴隷商を表す小さな焼印があった。
事情はわからないが、この子は奴隷で、外の国から凍てつく山脈を越え、ここまで逃げてきたに違いない。そうして、夜のうちにどうにか寒さを凌ごうと路地裏のごみ溜めに紛れ込んだまま、力が尽きて動けなくなってしまったのだ。もし、あのまま見つけられなかったらと思うと、ぞっとした。
「とにかく、うちへおいで」
私は少年を慎重に肩で担ぎ、瓜を片方の手に提げ直して、雪降る家路を引き返した。