新妻の失態
『皆で初恋ショコラ』企画参加作品です。
新婚生活、フライング(まだ番外編でも書いていないので)。
短いですが、お楽しみいただけたらと思います。
仕事を終えて帰宅する際のこと。
ほんの一ヶ月前と少しだけ変わったことがある。
家の鍵は当然持っている。だが、自ら開けようとはしない。チャイムを押し、ドアが開くのを待つのだ。
何故そんな面倒なことをするかといえば、理由はただ一つ。
ガチャッ。
「慎也さん、おかえりなさい!」
「ただいま」
愛しい新妻に出迎えて欲しい、ただそれだけ。
パタパタと駆け寄り、俺に突進してくる彼女を受け止め、笑顔で俺を見上げる妻の唇に小さくキスを落とす。毎日しているのに、彼女は常に頬を赤く染める。
それがかわいくて、愛しくて、疲れた俺を癒すどころか暴走し始めるのを押さえるのに必死だ。
家の中に入ると俺から鞄を受け取り、彼女は訊いた。
「ご飯にする? それともお風呂?」
「先にご飯がいいな」
そう答え、ふと数か月前の記憶が蘇ってきた。
「……そういえば、もう言わなくなったね?」
「何がですか?」
「『それともわたし?』」
そう答えると、彼女は固まり、ブンブンと大きく首を振る。
「二度と言いませんよ! 言ったが最後、どえらい目に遭いますから」
「そう。……残念」
クスッと笑うと、キッと睨み付けられる。
結婚前、その言葉を言われたときに夕飯そっちのけで寝室に直行したことを、いまだに根に持っているようだ。自分が言ったくせに。俺は悪くないぞ。
上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながら冷蔵庫を開けた。ビールを取り出して、ふと冷蔵庫の一番上の段に見慣れないものが敷き詰められていることに気付いた。一つ手に取り、視線を落とす。
チョコレートケーキだろうか。透明なプラスチックの容器と黒色のフタに金のリボンのパッケージ。
「初恋……ショコラ?」
聞き覚えのある言葉に、記憶を呼び起こす。
確か若い男性アイドルグループがやっている、コンビニスイーツのCMで『初恋ショコラ』って言っていたような気がする。
彼女は甘いものが好きだし、よくコンビニでスイーツを買っているのも知っている。
だけど……。
「明らかに買い過ぎだろ、これ……」
冷蔵庫の一段を占領するケーキ。一体何個あるのだろう。彼女はこれを全部食べるつもりなのだろうか……。
冷蔵庫の前に立ち尽くしている俺を怪訝に思ったのか、彼女が駆け寄ってきた。
「慎也さん? どうしたんですか?」
「ラナ、これ、何?」
手にしていたケーキを差し出すと、彼女は少し興奮しながら早口で言った。
「あ、これですか? これ、今すっごい人気のコンビニスイーツです。アイドルが宣伝してるからか、若い女の子の間で話題になってて売り切れ続出。だから見つけたら即買いが鉄則なんです。ずっと食べたかったんですけど、なかなか売ってなくて。でも今日たまたま見つけて、嬉しくて買い占めちゃいました」
「買い占めた?」
「それからもう一軒回って、さらに買っちゃいました」
一件目で見つけたんだから、そこでやめておけばいいのに。俺は呆れながら彼女に問いかけた。
「こんなに買ってどうするの? 賞味期限っていうものがあること、知ってる?」
「馬鹿にしないでください! それぐらい常識ですよ!」
「賞味期限は明日。全部食べられるの?」
その指摘に、狼狽えた彼女の声が小さくなる。
「……食べますよ」
「十個はあると思うんだけど」
「大丈夫です。いけます」
「太るよ」
この一言は女性には地雷なんだろう。彼女はムッとして反論した。
「太りません。普通のチョコケーキより、カロリーオフなんですよ」
「だからってバカバカ食ったらブクブク太るのは当然でしょう」
言い方がきつかったのだろうか。どうやら拗ねさせてしまったようだ。
「もういいですよ。今日の晩御飯はケーキにしますから!」
声を荒げてプイッとそっぽを向いた後、彼女はテーブルに並べていた自分の皿にラップをし、それを冷蔵庫に入れた。そのかわりに『初恋ショコラ』を五個、テーブルに置く。
「慎也さん、食べましょう」
椅子に座り、食事を始めるが、ケーキを開けながらも彼女の視線は俺の皿に釘付けだ。チラチラ見られて非常に落ち着かない。
「ラナ、ケーキをご飯代わりにしないの。バランス悪い。食後のデザートにしなさい」
「駄目です。食後のデザートは太ります」
「じゃあ明日にしなさい。俺も協力してあげるから」
「甘いの嫌いじゃないですか」
「カロリーオフなら、甘さ控え目だろ?」
「多分……」
自信なさそうに、彼女はフォークでケーキを切り、口に運んだ。モグモグ口を動かしていると、彼女の表情が綻んだ。
「うまっ」
「ふーん……」
少しだけ興味が湧き、彼女の手を掴み、フォークに刺さったケーキをそのまま自分の口に入れた。俺の行動に彼女が驚きの声を上げた。
「あっ!」
「……うん、そこまで甘くない」
予想以上においしくて、最近のコンビニは進化したな、などと感慨深く思う。
「これなら俺も食べられるから、ちゃんとご飯を食べなさい」
「……はい」
彼女は大人しく、冷蔵庫から皿を持ってきて、食事を始めた。
食事を終えた後、ソファーに移り、紅茶とケーキをテーブルに並べる。
彼女がキッチンからこちらに来るのを待つ間、テレビを眺める。すると偶然、『初恋ショコラ』のCMが流れた。
人気の若いアイドルたちが、ケーキを一口食べる。そして画面に向かって囁いた。
『ケーキとぼくのキス、どっちがすき?』
どうやら画面の向こうに好きな女の子、もしくは恋人がいる設定のようだ。
最近の若い子は、こういうタイプが好きなんだろう。詳しくは知らないが、人気があるということだけは知っている。
もしかして、ラナもこのアイドルのファンなんだろうか……?
チリッとした嫉妬を覚え、そんな自分に呆れた。
アイドルに嫉妬とか、どこまで心が狭いんだ、俺……。
自己嫌悪に陥っているうちに、彼女がやって来た。
「お待たせしました、慎也さん。食べましょう」
俺の隣に座ろうとする彼女の腕を掴み、自分の膝の上に乗せた。後ろから抱きしめると、彼女は文句を言い出す。
「もう、食べにくいのに……」
そう言いながらも、彼女は俺の膝の上でケーキをあっという間に平らげた。なかなかケーキに手を付けない俺に、彼女は振り返っておずおずと訊いてきた。
「やっぱり……食べたくないですか?」
俺を不機嫌にさせたのかと不安そうに、彼女の瞳が揺れている。
「ラナが食べさせて?」
そう言うと、真っ赤になり目を伏せた。それでも動揺しながら身体を俺の方に向け、彼女はケーキを手にした。
「はい、どうぞ」
差し出されたケーキを口に入れ、咀嚼し、飲み込む。
その直後、ケーキに視線を向けていた彼女の後頭部に手を回し、引き寄せる。唇を重ねると、彼女が硬直するのを感じた。あっさり解放すれば、彼女は顔を真っ赤にしながらどもる。
「し、し、し、慎也さん!」
「口直し」
飄々と言ってケーキを催促する。彼女も自分の買い過ぎのせいで俺に苦手なケーキを食べさせている負い目があるのか、一口食べるたびにキスをせがんでも嫌がらない。
ある意味、役得。
食べ終えると羞恥のせいか、彼女はぐったりとして俺にもたれ掛る。
「ごちそうさま。おいしかった」
そう言うと、顔を上げた彼女が潤んだ目で睨み付けてきた。
そんな目で睨まれても、煽るだけなのに……。
ああ、そうだ。
ふと思いつき、俺は彼女の耳元に唇を寄せた。
「ケーキと俺のキス、どっちが好き?」
ビクッと身体を震わせた彼女。耳まで真っ赤だ。その様子を見て、顔が緩むのを止められない。
しばしの沈黙の後、小声で呟いた。
「……ケーキ」
その返事を聞いた途端、俺の嗜虐心に火がついた。そのままソファーに彼女を組み敷き、驚きで目を見開く彼女に微笑みかけた。
「じゃあ俺の方がいいって言うまで、いっぱいかわいがってあげる」
ジタバタする彼女を抑え込み、非難の言葉を出そうとする唇を塞ぐ。
チョコレートの甘い香りに酔っているのだろうか。普段よりも彼女の全部が甘く感じる。
「や……慎也さ……」
キスの合間に息も絶え絶えの状態で言葉を紡ぐ彼女を見て、危機感を感じた。
まずい、止まらない……。
火照った全身、潤んだ瞳、赤い唇、媚薬のように俺を惑わすチョコレートの香り……。
俺は早々に理性を手放し、本能のままに彼女を貪った。
『初恋ショコラ』
これを見るたび、思い出すだろう。
俺を翻弄した、彼女との甘美なこの一夜のことを……。
「もう、ぜーったいに買わないんだからっ!!」
「……まだたくさんあるよ? いい運動になるし。今夜も楽しみだ」
「勘弁してください!! 身体がもちません!!」
翌日ベッドから起き上がれなかった愛妻は、しばらくチョコレート断ちしたとかしないとか。
それから数日後。昼休みに設楽と蕎麦屋へ行ったときに、彼女がケーキを買い占めた話をすると設楽はこう言った。
「冷凍すればよかったんじゃね? 麻理も『初恋ショコラ』好きでさ、うちの冷凍庫にも入ってるぜ。半解凍で食べるとうまいらしい」
「ふーん」
ラナには絶対に言えないな……。
結局、冷蔵庫のケーキはすべて賞味期限内に食べきってしまったのだから。
俺としては『初恋ショコラ』様様だ。思わず笑みを浮かべる。
設楽はそんな俺を一瞥し、ニヤリと笑う。
「お前、ケーキをだしにしてラナちゃんに何かしたんじゃね―の? その顔、黒いぞ」
「秘密だ」
「ケチ」
誰が言うか。もったいない。