石井幸和子3
石井の部屋は2DKだった。想像より広くて驚いた。一つの部屋はリビングにし、一つの部屋は寝室のようだ。アジアン調の雰囲気の部屋は居心地がすこぶる悪かった。やたらにぎやかなのだ。
「お酒の準備をするので、適当なところに座ってください。加賀山さんは日本酒と焼酎どちらが良いですか?」
「そんなのいいからこっちにおいでよ」
「え?」
「だから俺の近くにおいで」
できるだけ甘く聞こえるように言った。
「あ、はい」
石井は戸惑いながら俺の近くに来て座った。俺は石井との距離を縮め、そっと頬を撫でた。こんなの久しぶりだ。まだ、心は冷えているけれど、時間が経つにつれて昂って来るだろう。肩を抱き、引き寄せる。甘く微笑みかけると、緊張していた石井の力が抜けた。
俺は遠慮なく石井にキスをしかけた。最初は軽く、徐々に深く。手は遠慮なく彼女の身体を触り始め、彼女の反応を確かめた。全く拒否をしない女。唇を離すと、石井は俺をじっと見つめた。
「寝室に行こうか」
俺の囁きに静かに石井は頷いた。学習能力がないのか、それともこれだけが目的なのか。俺はなるべく優しくなるように微笑んで見せた。そしてそっと額にキスを落とす。
寝室に入ると、そこもまたアジアン調の世界だった。眼がちかちかする。俺は、手を引いていた石井をおもいっきり引っ張り、ベッドに放り込んだ。石井は驚いた顔をしたが、俺はもう遠慮をするつもりはない。石井の上にかぶさり、遠慮なくキスをする。
「俺とどうなりたかった?身体の関係が目的ならこんな面倒な男じゃない方がいいだろう?俺自身が目的なら、俺のこの間の忠告を無視し過ぎている」
「え?」
「セフレ募集中だった?」
「え?違う」
「何が?」
俺の問いに石井は黙った。
「まあ、別にいいけれどね。だけど、これでおしまいだよ。俺はこの前言ったよね。自分を安くする女は好きじゃない。俺がいい奴に映ったわけじゃないよね。その眼は飾り物?人を観る眼がないのかな?」
「何を?」
「ご希望通り今日は抱いてあげるよ。でも、最初で最後だよ」
俺がニヤッと笑ってみせると、石井の眼が大きく開いた。もう遅い。
何度こんな思いをしただろうか。俺をアクセサリーと同じような感覚で隣にいた女たち。俺の本当の姿など見ていなかったのはすぐに分かった。俺を知ろうとしなかった女たち。どれだけ醜いのかも分からずに「好き」と囁く女たち。身体でつながっていれば心をつなぎ止められると勘違いしているような女たち。その度にがっかりした俺。なんだろう。虚し過ぎる。そんな女だと分かっていながら一緒にいた俺に嫌悪していたのに、学習していないのは俺の方だろうか。だが、俺がどれだけ誠意を見せても、相手が誠意を見せない以上、俺だって投げやりになる。
ごめんね、優しく愛してあげられなくて。
家に着いたのは零時を過ぎた頃だった。今日一日で俺はどれだけお金をつぎ込んだだろう。タクシーの支払いを済ませた時、そんな事を思った。もっと魅力的な女性相手ならそんなケチなことは思わなかっただろう。いや、どうなのだろう。今まで魅力的な女性と一日を過ごした事がないから、どう感じるかは分からない。
玄関の扉を開けると、リビングから桃香が顔を出した。俺の帰りを待っていたようだ。
「お帰りなさい」
桃香の声と笑顔を見るだけでホッとする。重症だと思いながら、低迷気味だった気分は一気に上昇した。それと同時に、何とも言えない感情が現れる。先程してきた行為。先程生まれた激しい感情。黒い感情。真っ直ぐ桃香の顔を見ることを躊躇う。
「ただいま。もしかして待っていてくれた?」
「うーん。そうだね。一時まで待って帰ってこなかったら寝ようと思っていたところ。お泊りかもしれないからね」
桃香はからかうようにウインクをして見せた。
「今日一緒にいた人とはもう会うことはないだろうな」
桃香の頭を撫でながら俺が呟くと、桃香は不思議そうに俺を見た。俺は誤魔化すように微笑んで見せた。何を言っても伝わらないような気がしたし、本当のことは言えない。不誠実な行為を先程してきたのだ。もしかしたら、桃香は気づいているかもしれないが、聞いてこない限り、いや、聞いて来ても真実は話せない。
石井は縋るような眼で俺を見ていた。俺に対する感情がどういったものなのかは聞いていない。聞いても仕方ない事だから、そのまま放っておいた。行為の後、俺はすぐに服を着てあの部屋を出た。その後、罪悪感だけが残った。どんなに苛立っても、彼女にしてはならないことを俺はしてきた。あの時生まれた凶暴な感情はなんだったのだろう。俺にも説明ができない感情だった。怒り任せに突っ走ってしまったと言うにはひど過ぎる行動だった。俺は自分がした事が怖くて逃げてきたんだ。
「お兄ちゃん、どうかしたの?」
桃香が心配そうに俺の後をついてくる。
「いや。別に何もないよ。もう疲れたから解放してよ」
俺は桃香を無視してバスルームに逃げ込んだ。ここならば桃香はやって来ない。桃香を誤魔化せても自分を誤魔化せない事を知りながら、今は何も考えたくはなかった。
シャワーを浴びて、リビングへ行くと心配そうにこちらを見ている桃香と眼が合った。俺はそれを無視して自室へと入った。無理に桃香はここへ踏み込んでは来ない。心配そうな不安そうな桃香を放っておくのは嫌だったが、だからと言っていつものように振る舞う自信はなかった。
ベッドに座ると、携帯電話が点滅していることに気づいた。石井からメールが届いていた。俺はそれに驚いた。どういうつもりで送ってきたのだろう。罵倒の言葉がここにはあるのかもしれない。そう思うと怖かったが、自分でしでかした事だ。罵ってくれるのであればまだ気が楽になれる。
俺はメールを開いた。何行にもわたる長いメールだった。ただただ、信じて欲しいと切々と綴られた文章は俺を締め付けた。
――罵ってくれればいいのに。
どんな気持ちで石井はこのメールを打ったのだろう。この文面から石井の涙が読み取れて切なくなった。悪いのは俺なのに。何度も『ごめんなさい』と書かれていることに戸惑った。そして、俺はどう返事をしていいのか分からず、またもや逃げ出した。
日曜日、勇気を出して石井に電話をした。まるで電話を待っていたようにすぐに石井は出た。
『もしもし?』
その声はとても不安げで、俺を締め付ける。
「昨日のメールを読んだんだ。何で君が謝る?」
『なんか加賀山さんを傷つけたと思ったから。とても辛そうで、わたしが加賀山さんをこんな表情にしてしまったんだって思ったから』
「辛そう?」
『はい。わたし、本当に身体だけの関係を求めていたわけではないんです。ただ、つなぎとめたかっただけなんです。ずっとそんな恋愛をしてきたので、そんな方法しか知らなくて。別に加賀山さんを傷つけたかった訳ではないんです』
後半になって、石井は泣きだしそうな声になった。俺には理解できない話だが、あの行動は石井の恋愛にとって当たり前だったということなのだろう。価値観の相違、そう言ってしまえば簡単だが、石井の恋愛観は切なすぎる。痛々しい。
『もし、チャンスをもらえるならもう一度デートをしてもらえませんか?』
あれだけ傷つけられた相手になぜこんな言葉を口にできるのか不思議だった。俺に本気になったわけでもないだろう。それほどまでに俺に魅力があるとは思えない。
「ごめん。きっとそれは無駄な時間だと思う。俺と石井さんと考え方が違い過ぎるんだよ。あんなひどいことして悪いとは思っているけれど、その誘いには乗れない」
きっと、また傷つけてしまうだろう。あんなコントロールできない自分がまた現れたらと思うと恐ろしい。
『あなたを裏切ったからですか?』
「俺を?」
『はい。あの時、部屋に誘ったのがいけなかったんですよね。最初に忠告されていたのに』
別に馬鹿だったわけではないのだろう。分かっていてしでかしたのはどういうつもりだったのか。
「もしかして、俺を試した?」
『はい。ごめんなさい』
素直に謝る石井は好ましい。好感ももてる。だが、一度マイナスになってしまった感情は、プラスに戻すのに時間がかかる。最初からマイナスだった彼女に対し、プラスになる保証はどこにもない。況して恋愛感情など。
「俺の誠意を試した?それとも、愛を試した?」
『どちらも、です。わたしを愛してくれる人かどうか、わたしが愛せる人かどうか、それを知りたかった』
「なら、答えは簡単だよ。多分俺は石井さんを愛せない。あんなことした後で言える立場ではないかもしれないけれど、多分、距離は縮まらない」
『――分かりました。本当にすみませんでした』
彼女の沈んだ声がずっと耳に残った。未だに石井の真意がどこにあったのか分からないが、価値観がそれほどまでに違い、理解し合えないのだからこれ以上そばにいても仕方ないだろう。それが俺の誠意だと思う。
部屋を出ると、リビングのソファでぼうっとしている桃香と眼が合った。
「おはよう」
もう昼近い時間だ。おはようと言われるとバツが悪い。
「今日はデートじゃないの?」
俺が尋ねると、桃香は頷いた。もしかしたら、不安がらせたかもしれない。俺は不安になり、桃香の隣に座った。そして、優しく頭を撫でる。
「昨日はごめんね。気が立っていたんだ」
「ううん」
桃香は下を向いたまま首を横に振った。
「もうすべて解決したよ。だから安心して」
「ねえ、わたしはお兄ちゃんの力にはなれないの?」
やっと顔をあげ、こちらを向いてくれたと思ったら、こんな事を口にした。俺としては桃香の気持ちだけで嬉しいし、桃香の存在自体が俺の生きる力なんだ。だからと言って、こんなこと恥ずかしくて桃香には言えない。
「モモ、充分力になってもらっているから心配いらないよ」
桃香の頭を軽く叩くと、俺は微笑んで見せた。
「いつもそれで終わるんだもん。わたしはお兄ちゃんにいっぱい感謝していて、それをお返ししたくてむずむずしているのに」
「それなら、俺にご飯を作って」
「もう」
かわいらしく頬を膨らませながら、桃香は素直に立ち上がり、キッチンへ消えた。もう二十八歳、いい年だが、ああいった仕草は今もやはり愛らしくかわいいと思う。他の人間があれを見てどう思うかは別だ。
小学生の時と変わらない愛らしさがあるし、無邪気さもある。あのかわいらしさを誕生させたのは外でもない俺だ。だからこそ、安心するし大好きだ。
数分後、後は焼くだけになっていたピザトーストが運ばれてきた。俺はダイニングの椅子に座り、ピザトーストに齧りつく。とろけたチーズが上の歯の裏に貼りつき、やけどした。それを見越してか、今日はコーヒーではなくオレンジジュースがグラスに注がれていた。
トーストにはケチャップとオニオンスライスとサラミとチーズが乗っているようだ。
「この時間にこれだけ食べればお昼は要らないよね」
なぜか俺の正面に座り、頬杖をついた姿勢でじっと俺を見つめていた桃香が言った。
「二枚あれば充分だね」
「じゃあ、わたしも何か食べよう」
桃香は立ち上がり、何かを作り始めた。本当の兄妹ではないけれど、なぜか一緒にいるとホッとする。あんなに荒れていた気持ちが吹っ飛ぶのも桃香のお陰だ。普通の態度が心地良い。もし、桃香を失ったら俺は本当にどうなってしまうのだろう。恐ろしくて想像できなかった。
読んでくださってありがとうございます。まだまだ、展開的にはさわりですけれど、これからどんどん展開していく予定。まあ、このくらい淡々と事は進みます。
次回は新人の女の子登場です。
次回もお付き合いください。




