石井幸和子2
金曜日、家に帰るとまだ桃香は帰っていなかった。今までもそんな事は多くあったが、今回は具体的に付き合っている男がいる事を知っているからか、桃香が帰ってこないような気がして不安だった。
今までだって恋人はいた事を知っている。だけれど、不安に思ったことは一度もなかった。現に、桃香は仕事以外、外泊をしたことはない。今は海外を飛び回る仕事をしているから部屋にいないことも多い。だが、それ以外は必ず二十三時には帰って来る。別に門限を作っているわけではない。桃香が自主的にそうしている。だからきっと今日も二十三時前には帰って来るだろう。そう分かっていても、時計を十分おきくらいに睨みつけるように見てしまう。
「俺って馬鹿だ」
溜め息が止まらない。どんなにビールを飲んでも焼酎を飲んでも酔うことさえできなかった。俺はソファに凭れながら、だらしなく焼酎を舐めていた。
「モモが結婚したらここは売り払おう。俺一人じゃ淋しいな」
口にした途端、どっと後悔が溢れだした。こんな切ない虚しいことは言葉にしてはいけない。途端に現実帯びて、孤独を意識させられる。
「もう、誰でもいいか……」
静まった空間の中、時計の針の音が一定のリズムを刻み、俺を一層不安にさせる。
桃香が幸せになるのであれば俺の居場所なんて譲るべきなのだと頭では分かっていても、心はまだついてはいかない。何年だろう。何年俺は桃香の笑顔のために生きてきたのだろう。桃香が笑ってくれるのならば俺は道化にもなれた。そのくらい俺は桃香の笑顔が大切で大好きだ。
「もう、淋しいだけのモモじゃないもんな」
俺は自分の身体に鞭を打つように立ちあがり、浴室に向かった。
ずっと握っていた手はいつしか離れた。ずっと確保していた近い場所はいつの間にか他の男に奪われた。それが大人になるということならば、悲しみから解放されるということならば、俺は桃香から放れるべきなのだろう。
朝目覚めるといい香りが俺の部屋まで届いていた。
昨日二十二時半過ぎに桃香は帰ってきた。こうきちんと帰って来ると、男の誠実さが痛いほど伝わって来る。
相手の男がどんなところに住み、どんな生活をしているのかは知らないが、次の日、休みなのに恋人が泊まらないというのはちょっと淋しいものなのではないだろうか。今の付き合いが健全な付き合いではないとしても、物足りなさはあるのではないだろうか。しかも結婚を約束するような仲なのだ。両親と俺の教育が行きとどいているお陰なのか、桃香のこだわりなのか知らないが、今時珍しいことは確かだろう。まあ、帰ってこなかったらその時点で俺が怒鳴るのだけれど。
俺は伸びをした後、布団から出て、寝巻にしているTシャツの上にパーカーを着た。
今日は石井と会う約束をしている。当日になった途端面倒くさくなってきた。時間が決まっていて、それに縛られる休日は久しぶりだ。何となくその束縛が気に食わない。平日、時間に縛りつけられているから休日くらいはゆったりのんびりしたい。だが、こんなことしていたら俺は全く成長しないで、桃香に心配されるだけなのだろうな。
「おはよう、モモ」
部屋から出ると、すでにダイニングテーブルにバケットとコーンスープとグリーンサラダが並んでいた。
「おはよう、お兄ちゃん。目覚まし鳴っていたけれど、今日どこか出かけるの?」
「うん、約束があるんだ」
「珍しいね」
「まあね。一人で部屋に閉じ籠っているのもなんだしね。モモは今日も出かけるんだろう?」
モモはにこりと微笑み、キッチンからコーヒーを二人分両手に持ってダイニングテーブルに来た。
「棚島さんと約束しているの」
「昨日も棚島と会っていたんだろう?」
「うん。昨日はお寿司を食べてきたんだよ」
「今日は?」
「うーん、分かんない」
桃香は誤魔化すように笑った。もしかしたら男の部屋に行くのかもしれない。俺の頭の中で思い描くのはいい。だが、桃香の口から望まない真実が零れ落ちるのはごめんだ。もう少しだけこの場所を俺に提供してほしい。
俺はそれ以上突っ込む事を止め、バケットをコーンスープに浸しながら食べた。幸せそうな笑顔を眼の前にし、何とも言えない切なさを抱きながら、サラダをフォークでぶっ刺すようにして食べた。サラダに八つ当たりなんていい大人がする事ではないけれど。
十一時に駅前の銅像の前で待ち合わせだった。石井はすでにそこに立っていた。決して気合の入った服装ではないが、何となく違和感を覚えた。何かが違う。チェックのジャケットと柔らかそうなシフォンのスカート。そしてブーツ。とりわけ普通だが――そうか、化粧が違うんだ。あのシンプルだった化粧から一変、結構時間をかけて化粧しました感がにじみ出ている。マスカラを塗りたくった睫毛や何度も重ね塗りしたのではないかと思うくらいのアイライン。慣れない化粧なのかもしれない。あまりにも似合わなくて、俺は逃げ出したくなった。
「待たせてしまったね、ごめん」
だからと言って逃げ出せるわけでもなく、俺は自分を誤魔化しながら石井の前に立った。ああ、またここでも違和感。気合いが入っているのは別によいが、慣れないことはしない方がいいとは思わないのだろうか。甘っとろい香水の匂いは、鼻を突くほど強く香る。
桃香も香水はつけているから別に抵抗があるわけではない。ただ、つけ過ぎなのではないだろうか。俺は必死に顔をしかめるのを抑え込んだ。今日でさようならだな、なんてデートの初めに思えるくらいに最悪だ。
俺は一気にやる気がうせ、彼女任せのデートが始まった。ずっと観たかったと言う話題の映画を観て、ずっと入ってみたかったと言うレストランで遅い昼食をとった。そこはイタリアンレストランで、女性が好みそうな内装をしていた。ランチもお手頃価格で、味も良かった。ただ、石井が纏っている香水の香りが鼻に付いて、味が半減したのは確かだ。俺がそんな気分なのに、石井は満足げにパスタを食べていた。計算しつくされた笑みがまた気に食わなかった。俺がこれだけ匂いが気になるのだから、香水を纏っている本人が気にならないはずはない。なのに、なぜ気づかないのだろう。それを指摘する気力さえ失せていた。
その後、石井のショッピングに付き合った。桃香の買い物に付き合うことはよくあるから、別にそれが苦というわけではないはずなのだが、時間が経つのが遅く感じ、疲れた。
桃香の洋服の好みと石井の洋服の好みは違っていた。だから、余計に苦に思ったのかもしれない。
「これ、どうかな?」
まるで恋人に話しかけるように、甘えた口調で石井は言った。試着した服はブラウンのジャンバースカート。結構丈が短い。彼女は確か二十五歳だったはずだから、まあこのくらい短くてもいいのかもしれない。と思いながらも、若づくりではないかとも思った。
「似合っているよ」
俺はどうでもよくなっていたから、彼女が求めている言葉を口にした。
「そう?」
石井は俺に背を向け、鏡で自分の姿を確認した。
「じゃあ、決定」
嬉しそうにそう言って、振り返り俺に微笑んで見せた。仕方なく俺も微笑んで見せた。
俺も大人になったと思う。大学生の頃はこんなふうに女性に合わせることなんてしなかった。だからだろう。必ず女性から別れ話を切り出されたし、長くは続かなかった。
石井は満足げに買った洋服を抱え、歩きだした。まだ何かを買うつもりだろう。俺は何も言わず、石井の後ろを歩いた。
「ねえ、手をつないでもいい?」
石井は振り返り、不安げに言った。まあ、デートなのだし、そうしたいのは分かる。俺は仕方なく、石井の手をとった。これが桃香なら、買った荷物を持ってあげるし、言われなくても手をつないで歩く。それができないのは、やはりおとなげないのだろう。
石井の手は冷たかった。それしか感想がないのだから、これから先も彼女を好きになることはないだろう。ここで終わりにする方がいいのかもしれない。そんな風に思いながらも流されていたのは、多分、俺が優柔不断だったからだろう。
夕飯は薄暗い照明で雰囲気を作り出しているレストランだった。ちょっとしゃれた居酒屋という感じだろうか。お互い電車だったため、お酒を飲みながら夕飯を食べた。昼食がイタリアンだったのに、ピザを注文するってどういうつもりだろう?なんて思いもしたが、お昼はパスタだったから、彼女的には別なのだろう。ワインをボトルで注文し、それを二人で飲んだ。
「俺、ワインの味って分からないんだけれど、やはり高いものは違うものなの?」
店で売られているものは、総て三千円以上だった。彼女が飲みたいと言ったのは、一万円近かった。遠慮がない。別にケチではないつもりだが、味が分からないのに値段だけでとか、名前だけでとか、そんな注文をするのは好きではない。その味を知って、おいしいと感じてくれるのであれば、別に一万円だろうが二万円だろうが投資してやっても構わない。
「うーん、どうかな。でも、これは一度飲んでみたかったんだ」
何口か飲んだ後、この言葉はないのではないだろうか。味の違いが分からないと言っているようなものだ。ならば、三千円でいいのではないか、とは口が裂けても言わないけれど、つまらない女だなとは思う。値段や名前に踊らされている、そう思うだけでつまらない。
「で、飲みたかったワインの感想は?」
「うーん、おいしい」
誤魔化すように微笑まなくてもいいのにと思いながら、俺はワインを飲みほした。桃香ならどんな感想を言うのだろう。まあ、その前に、桃香はこんな値段のワインは注文しないだろうけれど。
それにしてもテーブルに並んでいるつまみの数々。イタリアン風ばかりだ。昼も夜もイタリアン。何をアピールしたいのだろう。せめて無国籍ならいいのにと思いながら、つまむ。まあ、何でもいいのだが。
ボトルを一本飲み干し、俺は当たり前のように伝票を手にした。俺の行動に驚いた石井は、慌てて帰る支度をし始める。これ以上一緒にここにいてもイライラするだけだ。会話もあまりおもしろいものではない。俺が気を遣わないから余計なのだろうが、だんだん仕事の愚痴になり、一緒に働いている松島の悪口へと移っていた。
仕事の愚痴ならばまだ耐えられる。だが、仕事仲間の、しかも合コンを一緒にした友人の悪口はあまり耳触りのいいものではない。彼女がどんな人間だろうと、どんな恋愛をしていようと俺には関係ない。
自分のことしか話さず、自分が魅力的なのだと勘違いしているような会話程苛立つものはない。売り込みたい気持ちは分かるが、だからと言って友人を売るような悪口はよくはない。
松島が男遊びが激しいことくらいは保坂の話を聞いていれば分かるし、そんな女は眼中にないのだから、そんな女と自分を比べているあたりレベルが低過ぎる。
俺が石井を無視して席を立ち、支払いをするためレジへ向かうと、石井は小走りで俺の後を追ってきた。そしてお決まりのようにバッグから大きな財布を取り出した。本当に割り勘にしてお金を請求してやろうかとも思ったが、やめた。
「いいよ。ここはご馳走させて」
まあ、最初で最後だから。そう心で呟き、金を払った。いつも金を遣うような生活をしていないから、こういう時くらいは金を遣ってもいいと思った。別に太っ腹なわけではないし、彼女にいい顔をしたかったわけでもない。気まぐれとしか言いようがない。
「石井さん、今日はありがとうね。タクシーで帰る?」
石井は俺の言葉に少し驚いた表情を見せた。まだ一緒にいるつもりだったのだろうか。
「あ、あの。もし良ければわたしの部屋でもう少し飲みませんか?」
「ああ、いいよ」
俺のこの返事で彼女はまたしても驚いた表情を見せた。予想していない言葉だったのだろうか。だが、期待していないのなら言わなければいいのに。
――いいよ。踊ってあげる。君の望むように動いてあげる。今日だけはコマになってあげる。
こんな風に言ってあげたら、彼女はどう行動するのだろう。
君には幻滅したよ。だから、君が望むように堕ちてあげよう。
書きながら、デートしながら欠点ばかり心の中で指摘されていたら嫌だな、と思っていました。性格悪すぎです、陸君。
次回は自己嫌悪?陸君はずっと彷徨って行くのです。