③
香鈴に母乳をあげて、人心地ついた。わたしの時間は短い。キッチンでリンゴジュースをグラスに注ぎ、先日彩季がお土産で買ってきたクッキーを数枚皿に出した。リビングのテーブルに置き、ソファに座る。このソファは結婚する前から遣っているもので、愛着がある。
この部屋は加賀山の両親が残してくれた部屋だ。会社には遠い場所にあるが、わたしにとっては思い出の場所で、離れがたい場所だ。加賀山の両親がわたしを家族として迎え入れてくれた場所であり、自分を失っていたわたしが、わたしを取り戻した場所でもある。そして、何よりも兄と共に暮らし、助け合ってきた場所で、目一杯の思い出がある場所だ。今は兄はいないけれど、このソファに座り、眼を閉じると様々な思い出を思い出す事ができる。
兄は本当に世話焼きで、何でもしてくれる。わたしを取り戻してからもしばらくは、食事の時はわたしの事を気にかけていて、口の周りに何かがつくと、すぐにそれをとってくれた。みんなで取り分ける食事だと、自分の分より先にわたしの分を小皿にとってくれた。わたしの好き嫌いも知っていて、嫌いなものを食べないと、母親のように無理やり食べさせようとした。それを加賀山の母は微笑みながら見守っていた。わたしにとって兄は兄であり母であり父だった。
小学生の頃は一緒に眠っていたから、怖い夢を見た後は、必ず兄を起こしていた。兄は嫌がらずに起き上がり、わたしを抱きしめてくれた。小さな手で頭を撫で、「お兄ちゃんがいるから大丈夫だよ」と呪文のように何度も言ってくれた。それだけで安心できた。多分今もそう。兄の手はあの時より数倍も大きくなっていて、それは一層安心できるものになっている。温かくてそこから優しさや愛情がにじみ出ているのではないだろうかと思えるくらい心地良い。今、あの手は恋人である的場のものなのだろう。あの手に癒され、愛され、満たされる。彩季もまた、とても優しい手つきでわたしを撫でてくれる。だけれど、やはり違うのだ。子供のころからずっと慣れてきたあの手とは違う。それが時々淋しく感じる。
的場が羨ましい。惜しみない愛を注がれている的場が羨ましい。休日はずっとあの温もりに包まれているのだろう。ずっとわたしだけのものだったのに。
「性格悪いな」
マイナスの思考を打ち消すように口にしてみた。そして、クッキーを口に放り込む。サクサクしていて甘くておいしい。彩季は本当に優しい。わたしの好きなものをよくお土産に買ってきてくれる。このクッキーもそうだ。会社の近くにあるケーキ屋で売っているもの。独身の頃はよく買っていた。兄と一緒に食後のデザートとして食べた。仕事帰りに店に寄るから、ケーキは大抵売り切れていて、偶然残っていると、サービス品として売ってくれたので、クッキーと一緒に買ったこともある。あの店にはもう行かないけれど、とても思い出のある店だ。
わたしは最後のクッキーを口に放り込み、味わった後、ジュースを飲みほした。
「よし、がんばるぞ」
気合いを入れて、夕飯の支度の仕上げにとりかかる。香鈴が寝ている間に出来ることはやっておきたい。彩季も外で頑張っている。彩季の仕事がどんなに大変なものか同じ職場だったから知っている。そんな彩季に気を遣わせてばかりでは駄目だ。いつもわたしは甘えている。なぜかみんなが甘えさせてくれるものだから、いい気になって甘え過ぎる。わたしだってもう立派な大人だ。結婚もした、出産もした、育児中だ。甘えてばかりでは駄目だ。わたしができること、すべきこと、きちんとしなければならない。
昼に一度煮込んだ鶏の手羽元とじゃがいもと人参に再び火をかける。ラストにインゲンを入れるため、忘れないように準備をしておく。鮭とキャベツでみそ汁を作る。後は彩季が帰ってきたらグリーンサラダと作り置きしてあるひじきを出せば問題ないだろう。今日はそんなに遅くならないと言っていたから、一緒に食べる予定だ。
兄と一緒に住んでいる時から、料理はわたしの担当だったから、料理を作ることは苦ではない。仕事で疲れていても、夕飯の支度はしたし、朝食の支度だって休まずにした。兄は本当においしそうに食べてくれて、皿の汚れまできれいに食べてしまう人だ。だから、作っていて楽しかった。彩季もまたそうだ。兄のように皿まできれいになるような食べ方はしないけれど、きちんと「おいしい」と言ってくれるし、味が濃ければそう言ってくれる。兄の豪快さと違い、とてもきれいな手つきで食べる人だ。年齢の違いもあるだろうが、育ちの違いもあるのだろう。彩季の母親を見てそう思った。とても穏やかでおっとりとした人だったから。
わたしの両親の記憶はあまりない。だから、親との思い出と言うと、加賀山の両親との思い出になる。加賀山の母は結構活発だった。加賀山の母の妹である菜々葉よりはおっとりしていたけれど。
加賀山の両親は似た者夫婦で、旅行を趣味にしていた。夏は海に行ったし、山にも行った。冬はスキーやスケートに行った。秋は紅葉狩り、春は花見。そうやってその季節の定番行事は網羅していた。だから、様々なイベントもしていた。クリスマスやお正月は当たり前だが、月見や豆まき、お雛様やこどもの日なども加賀山の両親がなくなるまで続いていた。そんな両親だったから、兄はとても豪快だ。ただ、なぜかアウトドア派にはならなかった。休日は家にいたいと言うのが口癖だった。子供の頃、網羅してしまったからだろうか、それとも嫌な思い出でもできたのだろうか。わたしにとっては何もかもがいい思い出で、アルバムの写真を見るたびに昨日のように思いだせる。
家族旅行に行くときは小学生だろうと中学生だろうと関係なく、兄は手をつないでくれた。迷子にならないように、心細くならないように。加賀山の両親はそんなわたしたちを愛しそうに見つめてくれていた。これが愛情なのだといつも感じられた。わたしに向けられるそれぞれの微笑みは本当に温かかったから。
キッチンで火をかけている煮物を見ながら、カモミールティーを淹れてホッと一息入れている時に彩季が帰ってきた。久しぶりにわたしは玄関にかけて行き、彩季を出迎えた。そんなわたしを見て彩季は驚いた顔をしたけれど、すぐに嬉しそうに微笑んでくれた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
この「ただいま」がとても優しい響きで好きだ。ここに、わたしのもとに帰ってきてくれた。そう感じられるし。彩季の言い方はとても丁寧できれいな響きがする。
「今日、お兄ちゃんに電話したよ」
彩季の着替えを手伝いながら、わたしは報告した。
「お兄さん、なんて言っていた?」
「うん。週末来てくれるって。的場さんと一緒に」
「そう、それは楽しみだね。久しぶりでしょう?」
「うん」
そう、兄に会うのは久しぶりで楽しみだけれど、それと同時に恐怖もある。兄の姿を見た途端わたしがどんな態度をとってしまうかが分からない。嬉しくて抱きつくのならいいけれど、会いに来ない兄に詰め寄るかもしれない。泣き叫ぶかもしれないし、兄をとった的場を責めるかもしれない。それが見当違いだとしても、理性を壊してしてしまいそうで怖い。
「あれ?なんか浮かない顔をしているね」
彩季は笑みを浮かべたままわたしの顔を覗きこんだ。年の功なのか、こういう事に彩季は敏感で、わたしは隠しごとさえできない。
「うん、ちょっとね」
「夕飯を食べながら聞こうかな?何をそんなに不安に思っているのか、ね」
わたしの鼻の頭に軽くキスをすると、彩季はそっとわたしの肩に腕をまわした。
「さあ、行こう。おなかぺこぺこなんだ」
一緒に夕飯の支度をして、ダイニングテーブルに並べる。そんな立派な食事ではないけれど、いつも彩季は嬉しそうに準備をする。
「ビールは飲む?」
「今日はいいよ。桃香とゆっくり話をしたいからね」
彩季はそう言って、ダイニングの椅子に座る。わたしは冷たいお茶をグラスに注ぎ、それを持ってダイニングに行った。
「では、いただきます」
両手の平を合わせ、親指と人差し指の間に箸を挟み、頭を下げるのが彩季の作法だ。わたしはそれに倣って同じようにあいさつをする。
「この煮物おいしいね。いつも思うけれど、俺と桃香の味覚って似ているよね」
「彩季ってうす味が好きだもんね」
「年寄りとか言わないでよ」
彩季は苦笑した後、おみそ汁を飲んだ。兄は音を立てて豪快に飲むが、彩季はそういう飲み方は決してしない。
「言わないよ。わたしだってうす味が好きだし、それをおいしいと言って食べていたお兄ちゃんだってそうだもん」
「そうか、そうだよね」
彩季はそう言って冷たいお茶を一口飲んだ。
「じゃあ、桃香、本題。お兄さんの声を久しぶりに聞いて恋しくなった?」
こういう時、そう思ってもオブラートに包んで言葉を選んでくれるものだと思うのだが、彩季はそういうことはしない。きちんと気持ちが伝わるように遠慮はしない、そう決めているようだ。
「恋しくなったと言う感じじゃなくて、不安になったって感じかもしれない」
「ん?どういう意味?」
「お兄ちゃんがわたしに会いに来てくれないのは的場さんがいるから。そんな風に思っちゃうわたしがいるんだよね。それだけじゃない事は分かっているのに、変だよね」
突然、彩季はクスクス笑い出した。
「似ているね。本当に」
「え?」
「確かお兄さんも桃香を俺に取られるって不貞腐れていたんでしょう?それで会ってくれなかった」
「うん」
「桃香もお兄さんと一緒ってことだよ。仕方ない事かも知れないね。二人で力を合わせて生きてきたんだから、お互いに執着していてもおかしくないと思うよ。今になってあの時のお兄さんの気持ちが分かったんじゃないの?」
彩季はいつも大人だ。
「だから、不安がる事ないんだよ。当然の感情なんだから」
彩季はにこりと微笑み、最後のご飯を口に運んだ。
「ごちそうさまでした」
いただきますと同じように挨拶をした彩季は立ち上がった。
「何を飲む?カモミールでも飲む?それともミントにする?」
「わたしが淹れる」
わたしも立ちあがり、食器を一緒に片した。
透明のカップを二つ用意し、透明のポットにカモミールの茶葉を淹れた。そこにお湯を注ぎ、トレイに乗せてリビングへ運ぶ。こんな優雅な時間は最近なかった。
「ああ、いい色が出ているね」
透明のポットからはカモミールティーの鮮やかな黄色が覗いていた。
「あと、あのクッキーだ」
「うん。わたしはちょっと摘まんだんだけれどね。彩季とも食べたいと思って」
「いっぱい食べなよ。なくなったらまた買ってくるから」
いい色になったカモミールティーをカップに注ぎながら彩季は言った。とても優しい響きに、嬉しくなってくる。眼の前に出されたカップを手に取り、ゆっくりと味わう。一人で飲む時よりもおいしく感じる。
「どう?いい味が出てる?」
「うん。ちょうどいい」
彩季は嬉しそうに微笑み、わたしの肩を抱いた。
「ねえ、お兄さんの愛情はずっと変わらないと思うよ。的場さんに愛情が注がれていても、それとは全く違う愛情が桃香には注がれている。無償のきれいな愛情がね。それは、多分、どんな事があっても消えなくて傷つかないもので、永遠だよ。憎らしいくらいにね」
彩季の囁く声はいつも穏やかだ。暗示のようにわたしの心に這入り込んで来る。いつもわたしを甘やかし、助けてくれる。
「きっと、桃香がどんなにひどく悪い事をしたとしても、お兄さんだけは味方でいてくれる。もし、俺が耐えられないような事が起きたとしても、お兄さんは笑顔で抱きしめてくれる。その愛は限りないんだよ。悔しいくらいにね」
彩季の言葉と声とカモミールティーの相乗効果かもしれない。わたしの心は凪ぐ。穏やかな時間が流れていく。
「ありがとう、彩季」
「ううん。これは俺の仕事。お兄さんと同じように桃香が笑ってくれると俺は幸せなんだよ。だから、こうやって不安要素を除いてあげる事が俺の幸せ」
彩季を見ると、にっこりと微笑んでくれた。
「うん。もう大丈夫だよ」
元気なわたしじゃなけりゃわたしじゃない。わたしを守ってくれる兄と彩季のためにも元気でいなければならない。
彩季はとても甘い男です。だから桃香はいっぱい甘える。
次回は最終回。陸と的場が訪れます。
最後までお付き合いください。




