②
夜、久しぶりに兄に電話した。今兄が住んでいるのは会社から近いところ。だから、ここからは遠い。簡単に会える場所ではなく、文句を言うわたしに「これからは棚島に甘えないとね」と兄は言った。その通りだと思ったから、頷いた。兄は彩季にもわたしにも気を遣ってくれていたのだ。
『もしもし』
久しぶりに聞く声は、やはり優しい。
「久しぶり、お兄ちゃん」
『うん。どの位ぶりかな。どう?家族三人の生活は?』
香鈴が生まれた時、お祝いを言いに病院に来てくれた。その後、彩季の両親がわたし一人で面倒を見ることは大変だろう、と気を遣ってくれて、彩季の実家に世話になった。こちらに戻ってきて、すぐに一度兄はここに来てくれた。それからは来てくれていない。と言っても二ヶ月くらいか。
「うん。なんかね、疲れている」
『香鈴はよく泣くの?』
「ううん。結構いい子かもしれない」
『そう、ママ想いなんだね』
兄の声が一層優しく感じて、泣きそうになった。
「お兄ちゃん、会いたいよ」
『そうだね。最近会っていないもんね』
「的場さんも一緒でいいから、デートのついでに寄ってよ」
『デートのついでって言うのはちょっとなんだけれど、幸菜も一緒にというのはいいかもしれないな。幸菜も香鈴に会いたがっていたし』
「……幸菜って呼んでいるんだ」
『え?ああ、的場さんのことね。会社じゃ的場さんだけどね』
部下である的場と恋人同士になってから結構経っている。今まで兄は女の人とお付き合いしても長続きしなかったから、ずっと心配はしていた。だけれど、的場と長続きしている事を知ると、嬉しい半面辛い。兄がわたしが幸せになる事をずっと願っていたように、わたしも兄が幸せになる事を願っているのに、大切な人を奪われるような気がして辛い。わたしには彩季という優しい夫がいるのに。
『今度の休日にでもそっちに二人で行くよ。幸菜もお祝いを持っていきたいってずっと言っていたんだ』
「そうなんだ。なら、待っているね」
電話して、久しぶりに兄の声を聞けたことは嬉しかった。だけれど、的場も一緒にと誘った事は後悔した。なんか……顔を見たくない。
兄の加賀山陸とは血がつながっていない。彼と出逢った時の記憶はない。わたしは幼稚園児の時、両親を事故で失った。わたしはその事実をしっかりと把握できないまま、ショックを受け、心を失った。
わたしを引き取ってくれたのは、両親と結婚前から付き合いのあった加賀山夫妻だった。わたしの母、飯橋杏と加賀山の母、朱希葉が短期大学時代に出逢ってからの付き合いだったらしい。
感情を失ったわたしを引き取ってくれる親戚が見つからず、施設に行くことになっていたわたしを不憫に思い、引き取ってくれた加賀山夫妻にはわたしと同い年の男の子がいた。それが兄である陸だ。
話によると、加賀山の両親の指示で、兄はわたしの面倒を見てくれていたらしい。まるで赤ちゃんの面倒を見るようにわたしに食事を与え、手をつないで散歩をし、反応のないわたしに懲りずに笑いかけて、声をかけてくれていた。それは約一年続いた。
兄はよくわたしに語ってくれた。嬉しそうに懐かしむように。
『モモが俺を見てくれたのはうす雲が空を覆っている秋の日だったよ。穏やかな陽射しが暖かくて、俺はモモを連れて散歩に出かけたんだ。それは休日の日課のようなもので、二人で近所の公園へ行き、ベンチに座っておやつを食べて、家に帰るコースだったんだ』
小さい頃の記憶なのに、兄はよく覚えていた。まるで昨日の出来事のように語りだす兄。それは、眼を閉じれば浮かびそうな程鮮明だった。この話を聞くたびに、わたしは愛されているのだと感じられた。
『モモが妹になって一年近く経ち、小学生になった時の出来事だから、とても長い道のりだったよね。あの時はそんな風に感じなかったけど、振り返るとよくやったなって感じだな。――俺はいつものようにモモにおやつを手渡したんだ。あの時は確か母さんが作ってくれたドーナツ。珍しくモモが咽こんで、俺は慌てて水筒のお茶をモモに渡した。俺はいつも母さんがやっているようにモモの背中を軽く叩いたんだよ。焦ったな』
ここで必ず兄は苦笑して見せる。兄も小学生の頃だったから、焦るのは当然だったはずだ。
『咽たのがおさまった頃、モモは水筒のコップを俺に手渡しながらじっと俺を見つめてくれた。だから、俺は精一杯笑って見せたよ。その時モモは微笑み返してくれなかったけど、何となくあの冷たい無表情ではなくて、表情があったように感じたんだ。だから俺は嬉しくなって、モモの頭を撫でてあげた。モモは気持ち良さそうに瞼を閉じた。俺はその反応が嬉しくなってモモの頭を掻き雑ぜるように撫でた。あの時は嬉しかったな。モモが俺を見てくれた。モモが気持ちよさそうに眼を閉じている。それだけで俺は幸せだったんだよ』
兄は当時と同じようにわたしの頭を撫でる。優しく愛しそうに。わたしは子供の頃と変わらず、兄にそうされる事が好きだった。だから心地良くていつも眼を閉じる。兄はいつもその姿を見ては笑っていた。「変わらないね」って。
『その日から少しずつモモは表情を取り戻し始めたんだ。それが嬉しくて何度も俺はモモの頭を撫でた。すると、モモがクスリと笑った。俺は嬉しくてモモを抱きしめた。やっと待っていた声が聞けたんだ。ずっと待っていた。どんな表情で笑うのだろう。どんな声をしているのだろう。そんな事ばかり一年間考えながらモモと接していたんだ。それが報われた瞬間だった。
「桃香、さっき笑ってくれたね。お兄ちゃんって呼んでよ」
俺のこの言葉にモモは戸惑いの表情を見せたんだよ。そんな表情も初めて見るから嬉しくて仕方なかったな。しかもだよ
「……おにいちゃん」
ぎこちない響きだったけれど、俺を呼んでくれたんだ。俺にはそれが相当嬉しく感じられて、泣いたよ。感動だったんだ。ずっと夢を見ていたからね。やっと俺はモモの役に立てたんだって思えたから。あまりにも愛しい響きに俺の涙は止まらなかったくらいだよ』
よく兄は愛しそうにわたしを抱きしめてくれた。そして、優しく頭を撫でる。いつものパターンだったけれど、それが嬉しくて、一人ではないのだと感じる事ができた。少なくとも兄はわたしの味方で、わたしのために頑張ってくれる人だと感じられたから。
手をつないで学校に行き、手をつないで帰って来る。それが当然だったわたしたちを加賀山の両親は嬉しそうに見ていた。わたしが心を取り戻した時、加賀山の母はお祝いだと言ってわたしの好物をいっぱい作ってくれた。ナポリタンスパゲッティーと唐揚げとフライドポテトとオムライス。それを一つの皿にきれいに盛り付け、彩りにミニトマトを添えてくれた。今でも覚えている。とても美味しかった。
そんな両親だったから、四六時中一緒にいるわたしたちを優しい眼差しで見守ってくれていた。
小学生の頃は兄以外の人と話をする事に抵抗があった。特に男の子は兄とは違い、乱暴で口調も行動もわたしにとっては怖かった。そんなびくびくした態度が出ていたのだと思う。彼らはわたしをからかった。今思えば可愛い行動だったけれど、当時のわたしにとっては恐怖だった。
数人の男の子がわたしを囲み、ニヤニヤしながら話しかけてくる。馬鹿にするような言葉を口にし、ちょっかいを出してくる。ただ、それだけだった。でも、兄はそんな事をしなかったし、加賀山の父も穏やかな人だったから、わたしの周りにそういう人もいなく、恐ろしいものに囲まれているような恐怖を感じていた。
ある時、泣いたわたしを見て、兄は怒りをあらわにした。
「ごめんね。僕がきちんとしていないから、守ってあげられなかった」
眉を下げて、今にも泣きそうな表情でわたしに言った。相手の男の子たちを責める言葉ではなく、兄自信を責める言葉を口にして。
「明日は大丈夫だよ。僕がきちんと言ってあげるから。ね。だから、泣くのはやめよう。帰って、お母さんの作ったおやつを食べよう」
わたしの手をぎゅっと掴んで、微笑んでくれた。わたしは兄の笑みが大好きだ。幸せな気持ちにさせてくれる。だから、わたしも笑った。幸せな気持ちになれたから。
次の日、いつものように男の子たちはわたしを取り囲んでいた。黙って俯いているわたしの頭上で笑っている男の子たち。
「おい、僕の妹をいじめるなよ」
聞き慣れた声は、少し怒っていて、荒々しかった。
「え?」
「桃香は僕の妹だ。妹をいじめた奴は僕が許さない」
わたしを守るように兄は後ろからわたしを抱きしめた。
「女の子は大切に扱うのが基本だよ。からかって遊んでいたら嫌われるだけだからね。嫌われたくなければ、優しくすること。それが大事なんだ」
兄は男の子たちにそう言った。後で聞いた話だが、加賀山の父に相談した時、こう言えばいいとアドバイスを受けたらしい。多分彼らはわたしに興味を抱き、仲良くなりたいだけだろうから、と。
「な、なんだよ」
男の子の一人が兄に食ってかかった。でも、兄は余裕だった。
「桃香は少し怖がりで人見知りなんだ。だから、乱暴な人間は苦手なんだよ。だから、優しくお願いできないかな」
小学一年生とは思えない大人びた口調だった。まるで加賀山の父のような口調。多分総て真似したのだろう。身近な大人の男は彼しかいないから。
「桃香、みんなは桃香と仲良くしたいだけだから、怖がることはないんだよ」
兄が耳元でそっと囁いた。その声が心地良くて、わたしは自然と微笑んだ。
それから、幾度となく男の子たちに囲まれてからかわれたが、少しだけ恐怖は薄れ、余裕が生まれた。怖かったけれど、兄がついていてくれていると言う余裕と、嫌われているわけではないと言う余裕がわたしを救った。だから、わたしは俯くことなく、じっと微笑んで耐えていたのだ。まだ、彼らにどう対応し、対処していっていいのか分からなかったから。
小学校高学年になると、とても優しくしてくれる男の子が現れた。名前はすでに忘れた。その程度の存在だったけれど、初めて優しくしてくれた他人だったから、印象的だ。それは今思えば当たり前の事に近い。みんなから集めたノートを職員室に運ぶ時、思った以上にそれは重かったのだ。二回に分けて運ぶしかないと考えていた時に彼は声をかけてくれた。そして、それを一緒に運んでくれた。それだけだったけれど、兄以外にも優しい男の事がいるのだとその時に知った。ずっと引っ込み思案でおとなしかったから、女の子は話しかけてきてくれても男の子は話しかけてこなかったのだ。
その男の子は他の男の子にからかわれても平気そうに微笑んでいるだけだった。それがとても印象的だった。
「おまえ加賀山の事が好きなんだろう?」
この年齢ではよくあるからかいがわたしたちを襲った。わたしは申し訳なさもあり、俯いていたが、彼はそれを相手にする事はなかった。
「困っている人がいたら助ける、それは当然のことだろう?」
彼は大人だったのだ。他の男の子と比べてませていたのだろう。そんな彼と職員室に行った時、兄とすれ違った。兄は話しかけてくることもなく、爽やかに微笑んだ。まるで、良かったねと言っているようで、わたしは兄に微笑み返した。
「加賀山さんって双子なんでしょう?」
兄を見た男の子はそう聞いてきた。本当は違うけれど、そういうことになっている。わたしがいじめられないように、ということらしい。嘘を吐くのは後ろめたかったので、微笑んで返した。
「あまり似ていないよね」
まあ、似ていたらまた変だけれど。
「でも、仕草やその微笑み方はそっくりなんだよね。やっぱり双子だなって思うよ」
そう言われて、驚いたのと同時に嬉しさが込み上げた。兄と似ていると言われて嬉しい。ずっと一緒にいたから、似てきたのだろう。それが嬉しくて仕方なかった。だって、それは本物の兄妹だと言われているようだったから。
陸と桃香の話は、いろいろ考えればいろいろなお話に展開できるんですよね。でも、私の選択は血のつながらない同士の兄妹愛。結構頑張ったのですが、少し単調だったかもしれませんね。書き方を変えれば昼ドラのようなドロドロな展開もいけたのにな。
次回は桃香と彩季。桃香は甘え上手なので、彩季といると少し幼くなります。
次回もお付き合いください。




