石井幸和子1
金曜日の夜、俺は保坂に連れられてちょっと洒落た居酒屋へと行った。半個室のその席に案内されると、すでに二人の男が座っていた。保坂の大学からの友人らしい。飯橋と宮下だ。
飯橋は長めの前髪をピンで留めて、着古したような服を着ていた。聞いたところカメラマンをしているらしい。撮る側というより撮られる側の方が似合っているような風貌だ。とても同い年の二十八歳には見えない。昔はモデルもやっていたらしいが、撮られる側より撮る側がいいと、カメラマンを目指し始めたと言っていた。
宮下は自由人に見える飯橋と反して、とてもきっちりした風貌をしていた。短く切られた黒髪といいメタルフレームの眼鏡といい、生徒会長をしていましたと言った雰囲気だ。白いワイシャツもきっちりと着こなし、スーツ姿が様になっている。まあ、二十八歳なら様になっていてもおかしくはないのだろうが。
宮下は中学校の先生をしているらしい。それを聞いて生徒に疎ましがられている生真面目な教師を想像したが、話してみると見た目を裏切り、結構はっちゃけたおもしろい男だった。まあ、保坂と長い付き合いなのだから、そういう男である方が自然だろう。
数分後、四名の女性が登場した。石井幸和子と松島寧々子と星野夢と石垣聡里。
石井は自分を飾ることのないさっぱりした感じの女性だった。松島は化粧にどのくらい時間をかけているんだろうと思うくらい派手な女性だった。二人は同じ職場らしい。洋服の販売員をしていると言っていた。星野はかわいらしい女性だった。石井の高校時代からの友人ということで、星野は幼稚園の先生をしているという。言われてみれば納得という感じの雰囲気だ。笑顔がとてもかわいらしくて、この中でも一番幼く見える。石垣はとびきりの美女だった。それを自身も知っているようで、少し鼻にかけた雰囲気を持っている。自惚れも入っているのではないだろうか。彼女は松島と幼馴染なのだと言っていた。
みんな馴染み始めた頃、お気に入りが決まったかのようにそれぞれが散らばった。俺は来た事を後悔しながら、席の端で飲み物や食べ物の世話をしていた。このほうが、気が楽だったのが正直な話だが、それを不憫に思ったのか、石井幸和子が俺の隣に移動してきた。
ずっと保坂の隣に座り、松島寧々子と三人で話していたが、もしかしたら敵わないと思って諦めて俺のもとに来たのかもしれない。
「おつかれさまです」
にこりと微笑んだその姿は別に媚びているわけでもないのに違和感があった。
「保坂を諦めたの?」
「何でそう言う意地悪な言い方をするんですか?」
石井は口を尖らせながら拗ねたように言った。それがかわいらしいと思っているかのような見え透いた行動に俺は一気に嫌悪した。やはりここへ来るべきではなかったのだと感じた。
桃香よりも守りたいと思えるような女性がこんなところで見つかるはずがないのだ。
「見ていれば誰だってそう思うでしょう」
「わたし、寧々子には敵わないから」
「でも、頑張っていたじゃない」
「うん。でも、見て。わたしがいなくなっても保坂さんは全く気にしないでしょう?相手にされていない証拠」
「保坂を試してみたんだ」
「やっぱり嫌な言い方するね」
「これが性格だからね。嫌ならほかの奴に慰めてもらって」
「どこにもわたしの入る隙なんてないじゃないですか」
「それで俺か。まあいいか。で、何か飲みたいものはある?そのくらいの優しさは提供してあげるよ」
「加賀山さんって見た目は爽やかで優しそうなのに性格は結構きついんですね」
「面と向かって言われたのは初めてだね。結構石井さんもいい性格しているじゃん」
回りくどい言い方をする女よりはこう言ったストレートな言い方をする女の方が少しだけマシだ。分かりやすくて扱いやすい。
「仕方ない。今だけ少し慰めてあげようか」
俺の気まぐれだった。石井が甘えるような眼で俺をじっと見つめていたから少しだけ相手をしてやろうと思った。俺は石井の髪型が崩れないようにそっと頭を撫でた。そして、そっと耳元に口を近づけた。
「どういう励まされ方が好き?」
そっと囁くと、当たり前のように石井は俺に凭れかかってきた。甘やかしてくれる男なら誰でもいいということだろうか。見た目はまじめそうに見えたが、それは外見だけで中身は軽い女のようだ。俺はそれに乗じてやることにし、そっと石井の肩を抱いた。そして、そっと指の甲で頬を撫でる。がさがさした肌だった。
桃香の肌はすべすべしてきれいだ。ずっと触れていても飽きないくらいで、桃香は気持ち良さそうにいつも眼を瞑っているから遠慮なくずっと撫でている。だが、石井の肌はずっと撫でたいとは思えず、そっと指を離した。
「ねえ、わたし酔っ払ったみたいだから送っていって」
当たり前のように出てきた言葉にまた嫌悪しながら、ここから抜け出せるのならばそれもいいかと頷いた。
タクシーに乗り込み、石井の住むマンションを行き先に指定すると、途端に石井は俺に凭れかかった。そして当たり前のように俺の足に触れ、そっと撫でてくる。こうやってじわじわと誘ってくる女なのだと知るともうすでに限界に達するくらい嫌悪する。すると、途端に変な妄想が俺の脳裏をよぎった。
それは想像したくない世界だ。桃香が恋人である男に凭れかかり、甘えている姿。桃香もこんな風に男に凭れかかり、誘うのだろうか。いつでも俺の中の桃香は清純で穢れを知らない。だが、考えてみれば桃香にも恋人は今まで何人かいて、今の恋人とは結婚前提で付き合っているという。そう考えた途端、俺は俺を追いこみ、吐き気がした。そっと眼を閉じ、自分の妄想に終止符を打つと、別に何の魅力もない景色を眺めた。
多分石井が悪いわけではない。彼女にもいい部分はたくさんあって、それはきちんと見えているのだと思う。だけれど、俺はなぜか彼女のあらを探し、気に食わないと一蹴したくて仕方ないんだ。桃香がどれだけ魅力的なのかと確認したくて仕方ない。俺の守るべき人は桃香なのだと言い聞かせたい。だけれど、それはもう叶わないのだときちんと分かっているのに。だから、桃香の代わりを見つけようとしているのに。俺はどうしても気に食わないところだけを、眼の前の女性のあらを探している。
マンションの前にタクシーが停まると、石井は俺の手をぎゅっと握った。
「部屋に寄って行きませんか?」
これは多くの男たちに言ってきた言葉なのか、それとも渾身の勇気を込めて言った言葉なのか俺には分からなかった。だけれど、俺が口にするべき言葉はもう決まっていた。
「会ってすぐの男を部屋にあげるような軽い女には興味はない。自分を大切にできない女は魅力がない。もっと、自分を大切にしなよ。安い女になったらおしまいだよ」
軽蔑と少しの温情を混ぜた俺の言葉に彼女は言葉を詰まらせた。きっと俺に言われなくても分かっているのだろう。もしかしたら、おまえなんかに言われたくないと思っているかもしれない。
「なら、次につながるように携帯番号とメアド教えてくれますか?」
初めて俺は自然に頷いた。ジャケットのポケットにしまっておいた携帯電話を取り出し、石井と赤外線通信をした。もしかしたら俺が思っている程軽い女ではないのかもしれない。そう騙されてみてもいいかもしれないと思った。
部屋に帰るとパジャマ姿の桃香がテレビを観ていた。物音に気づき、俺の方を振り返ると優しげな笑みを浮かべる。桃香はいつもこうやって俺を迎えてくれる。
「お帰りなさい。今日は保坂さんと飲みだったんだよね。ねえ、保坂さんってどんな人?」
「どんなって、どんなだろうなあ」
俺は保坂を思い浮かべながらネクタイを緩めた。キッチンへ行き、グラスに水を注ぐと、それを一気に飲み干し、桃香の隣に座った。
「爽やか青年に見えるけれど実は計算高い男って感じかな。仕事もできるし見目もいい。何の欠点もないけれど、何かに執着するでもない。いつも弾けているように見せて、本当は冷めているような男、かな」
「すごい複雑。一度会ってみたいもんだな」
「あいつもモモに興味を抱いていたよ。でも、あいつには会わせられないな」
「なんで?」
くりくりの眼が瞬きをする。
「手が早いから。気に入るとどんな手を遣っても手に入れるんだ。ゲームを楽しむようにさ」
「執着しないのに?」
「そう。だから質が悪いだろう?まあ、俺はそういうところを気に入っているんだけれどね」
「お兄ちゃんの好みも分からないなあ」
桃香は不思議そうに俺を見た後、グラスに入っていた安い赤ワインを飲みほした。
グラスは耐熱ガラスの水などを注ぐような普通のグラスだ。ワインを飲むからとグラスにこだわったりはしない。こういう大雑把なところは俺に似ている。ずっと俺を見てきたから、あまりこだわりを抱かないのだろう。
ワインも千円もしない安いもので充分のようで、味を楽しむというよりもアルコールを楽しんでいるような感じだ。見た目の繊細さとのギャップに男たちは惹かれるか興味を失うかどちらかのようだ。
「そう言えばモモはデートだったんだろう?ずいぶん早いお帰りだったんじゃないか?しかもワインを飲んでいるしさ」
「棚島さんとは軽く食事をしてきただけだよ。少しお酒をいただいたけれど、棚島さんは車だからどうしても遠慮しちゃうんだよね」
「恋人の名前は棚島って言うんだ。そういえばそれさえも聞いていなかったな」
「そうだったね。棚島彩季さんというんだ。三十二歳」
「へえ、今度覗きに行こうかな」
「そんなことしなくたって紹介するよ」
「いいの。最初に心構えを、ね」
「もう」
桃香の照れたような仕草と口調に俺は切なさというか淋しさというか、そんなマイナスの感情を抱いた。こんな表情にさせる男が桃香のそばにいる。そう思うだけで苦しい。
「で、その彼とは何を食べてきたの?」
「今日は中華だよ」
桃香はグラスに赤ワインをダボダボと注ぎ、それを半分ほど飲んだ。顔に似合わず豪快な飲みっぷりだ。棚島にもそんな仕草を見せているのだろうか。
「へえ、中華か。それはいいな。フカヒレや北京ダックと店でしか食べられないものが多いもんな」
「そんな高級中華料理じゃないよ。別に記念日でもないんだからさ」
「なんだ、おまえの上司はケチなのか?」
「毎週そんな豪華なもの食べていたら破算するでしょう。もう」
「まあ、な」
桃香はクスリと笑い、ワインを飲みほした。かわいらしいところと豪快なところを持ち合わせる俺の妹はやはり最強だと思う。
風呂からあがると、携帯電話が点滅していることに気づいた。メールを受信していたらしい。開くと石井からのメールだった。別れてすぐに送られてきていたようだ。こまめというか健気というか。
とても女の子らしいメールを読みながら、なんとなくその文面が俺の精神を疲れさせた。要らない絵文字は眼がちかちかする。多分、どんなメールが送られてきても気に食わないのだろう。それは分かっているけれど、少しだけ俺を逃がしてくれるのであれば、石井のこの健気さに縋っていたい気がした。
だから、もう遅い時間だったけれど、俺はきちんと返信した。単純な簡潔な内容のものしか俺は返せないけれど。
「あれ?お兄ちゃんが携帯電話をいじっているなんて珍しいね。いつもどこかに放っておいて、どこにあるか分からなくなるのに」
「まあね。女の子にはこまめに接しないとね」
「え?彼女ができたの?」
「できそうなの」
眼を見開いている桃香に笑みを向けながら俺は言った。つられるように桃香も微笑む。
「へえ、久しぶりだね。お兄ちゃんに恋人ができるなんて」
「妹に先を越されそうだからね」
「妹って言ったって同い年でしょう」
「そうだけれどさ、置いてけぼりは淋しいでしょう」
俺はいつものように桃香の髪を掻き雑ぜた。桃香は気持ち良さそうに眼を閉じながら、笑っている。
「合同結婚式になったりしてね」
無邪気な桃香の発言が俺を追い詰めているなんて、桃香は気づかないのだろうな。だけれど、こんな気持ちなんて気づかない方がいい。気づかれてしまったら、桃香を苦しませてしまうだけだから。
「一緒の結婚式なんてごめんだよ」
「まあ、同じタイミングなんてそうはないもんね。でも、久しぶりのお兄ちゃんの恋人だし、どんな人か会ってみたいな」
「一年くらい続いていたらな」
「期待している」
にこりと微笑んだ桃香はそのまま手を振って自室へ入って行った。
初めて出逢った時は考えられなかった笑顔は、多くの男性を惹きつける程魅力的になっている。桃香がこんな風に成長してくれたことは嬉しいが、何となく淋しく感じる。
まあ、合コンはどうでもいいのです。女性と出逢えればそれでね。
次回は過去の陸と桃香。