棚島彩季3
金曜日、桃香から食事の招待を受けた。二人のデートを邪魔したくないと言うと、「棚島さんも望んでいるから」と言われ、頷いた。今回は二人でご馳走してくれるらしい。そんなそわそわ感が多分出ていたのだろう。俺のそんなところに的場は敏感だ。俺の様子を窺うように見る的場とよく眼が合った。その度に俺は溜め息を吐く。すると、保坂がクスクスと笑う。何もかもお見通しといった感じで怖い。こういう時、向かい合っている席というのは不都合だ。
「おつかれさまです」
佐原が、みんなに主張するように俺にコーヒーを運んできた。保坂はまた俺を見てクスクス笑っている。きっと変な顔をしていたのだろう。
昨日、佐原とヨリを戻したことは伝えた。保坂はびっくりしていたが「まあ、頑張れよ」と言ってくれた。頭ごなしに反対しないのは、俺の心の変化も成長も分かってのことなのだろう。保坂には敵わない事が多い。
「佐原さん、俺にだけではなくてこういう時はみんなに淹れてあげなよ。仕事中はそういうものでしょう?」
なるべく小声で言うと、佐原は頬を膨らまし、不貞腐れて見せたが、それがわざとの仕草だと分かった。
「はい」
彼女はそこまで馬鹿ではない。その後きちんと他の人たちにもコーヒーを淹れてあげていた。課長はそんな佐原を不思議そうな眼で見ていた。そりゃそうだ。ここでは女性がお茶を淹れてあげる習慣を持っていない。しかも、佐原はそういった事を進んでするタイプではない。それでも、進んでコーヒーを淹れてくれるという行為は嬉しいものだ。課長もほかの人間も嬉しそうにそれを飲む。保坂だけは少し違った。佐原がそうした理由を知っているからにすぎない。こういった展開を楽しんでいるのだ。そんな俺たちを見て、何かを感じ取ったのか、的場の視線が痛かった。
終始そんな一日で、俺は居心地悪い思いをしていた。こういう時は外回りに限るはずなのに、こういう時に限って事務仕事だけだ。そして、なぜか保坂も外回りをしていなかった。タイミングが総て悪過ぎた。
「加賀山さん、今日一緒に夕食どうですか?」
佐原がトイレに立った俺に話しかけてきた。
「ごめんね。今日は先約があるんだ」
「先約ですか?」
「そう。モモとモモの婚約者と会食」
佐原はきょとんとしていた。俺はその表情がかわいらしく見えてクスリと笑った。
「妹さん、婚約者がいらっしゃるんですか?」
「そう。つい先日決まったんだ」
俺の言葉に佐原はにこりと微笑み、「おめでとうございます」と言った。
「ありがとう。来週は大丈夫だから、食事を一緒にしよう」
俺の言葉に驚いたのか眼を丸くした佐原に俺はおでこを人差し指でポンと押した。失礼な奴だ。
「なんか、嬉しいです。来週楽しみにしていますね」
佐原は頭をかわいらしく下げた後、事務所に戻って行った。俺は彼女の後姿を見届けた後、歩きだした。
待ち合わせは一階ラウンジに十八時半。俺が待っていると、二人揃ってやってきた。二人並んでいる姿を見るのはこれで二回目。この間は後ろ姿だったから、真正面から見るのは初めてだ。何とも複雑だった。様になっていると思う。だけれど、それを認めたくない感情もまだ残っている。以前ほど意地になることはないけれど、眼を背けたくなる瞬間があるのも事実だ。二人して見つめ合った時などはどうしようもなくなり、二人の間に割って入りたくなる。そんな野暮なことはしないけれど。
「お待たせしました」
棚島は三十二歳とは思えない若さと同時に落ち着きを持っている。着ているコートも高そうだ。スタンドカラーのウールコートはカジュアルでもいけそうなものだ。とても若々しく見えるが、安っぽくは見えない。そのコートの前を開けた状態で着ている。その下のスーツはグレーの三つボタンで、ネクタイは無地の黒に近い紺色をつけていた。ワイシャツはクレリックカラーでグレーだ。俺は絶対しない着こなしだが、棚島には似合っていて、様になっている。俺たちが談笑しているところを多くの人たちが盗み見ながら過ぎていく。出来るだけ仲良さげにするところがポイントだ。何度か棚島の肩を軽く叩いた。桃香はそんな俺を見て嬉しそうに笑っていた。桃香がこういう風に笑ってくれるのであれば棚島とこのくらい仲良くしてやってもいいと言うくらいには思えた。
「さて、食事に行こうか」
棚島は桃香に言った。桃香は嬉しそうに頷き、俺の腕を掴んだ。
「今日はわたしのお気に入りのお店だよ。ちょっと電車に乗るけれど、そんなに遠くないから」
桃香はぐいぐいと俺を引っ張る。それを笑いながら棚島は見ていた。
連れて行かれたのは懐石料理の店だった。通された個室は和室だ。畳と障子と襖。掛け軸。障子が開けられていて、外は小さな中庭。見るからに重たそうなテーブルにセッティングされているのは箸とグラスと紙製のランチョンマットだ。すぐに和服姿の女性がやってきて、瓶ビールを二本置いて行った。俺たちはそれを注ぎ合い、乾杯した。
先付けから始まるそれは上品な味付けだった。隣り合って座っている桃香と棚島はとても仲睦まじく、俺はそれを微笑みながら見守る事ができた。俺も免疫ができたということだろうか。それとも、成長したのか。
食事をしている部屋は広くはないが、落ち着いた高級旅館のような趣で、和室に慣れていない俺は少々居心地が悪かった。だが、この空間と料理の彩りと味はまさしく格別で、この日はずっと思い出として俺の心の中に残るだろうと思った。だからこそ、楽しみたい。
桃香は俺たち二人の事を気にかけて、ビールを注ぐ。まるで接待だ。知らないうちに注文したらしく、運ばれてきたのは熱燗だった。
「今度は俺が招待したいな。よく食べに行くおでん屋なんだ。きっと二人とも気に入ってくれると思うよ」
「保坂さんと一緒に行っているところ?」
「そう。あとね、保坂がまたモモと話がしたいってさ。棚島さんの許可を得ないとね」
「保坂さんって……」
多分、保坂の姿を想像したのだろう。噂も聞いているかもしれない。もちろん悪い噂だ。棚島と接触する時どんな雰囲気でどんな調子で話したのかは知らない。もしかしたらずいぶん甘い口調だったのかもしれない。
「心配は無用だよ。俺もいるし、モモは知っての通り堅い人間だからね。二人のやり取りは俺も見た事がないくらい辛辣だったな。保坂が押され気味というより遣り込められていた」
桃香を見ると、余計なことは言うなという風で、口を尖らせていた。
「私も見てみたいですね」
「棚島さんも一緒だったら保坂が遠慮してそうはならないでしょうね。よろしければ陰で見守りますか?」
「それもまたおもしろいかもしれませんね」
楽しそうに話す棚島の背中を少し強めに桃香は叩いた。
「もう。お兄ちゃんも止めてよね」
「それはそれでおもしろい思い出になるかな。と思っただけなんだけどね」
棚島はクスクスと笑っている。こんな個室で桃香が愛している男と桃香と三人で笑いながら会食をする時が来るなんて想像すらしていなかったから、とても不思議な気分だ。
重厚な和食器の上にバランスよく飾られている食べ慣れないそれらのシンプルな食べ物は、次々なくなっていった。それと同じようにお酒のペースも進む。楽しく過ごす時間は早く流れ、食事を終え、デザートも食べ終え、三人で出されたお茶を啜っていた。
「またみんなでここで食べたいな。思い出の場所みたいで、いいな」
ほんのり頬を朱く染めた桃香は記憶するように部屋をしみじみと眺めた。
「今日は記念日だもんね。毎年予約をとってここで食べるのもいいかもね」
優しい暖かな口調で棚島は微笑みながら桃香に向かって言った。俺はそれに軽く頷いた。こんな関係が何十年も続いたら嬉しい。俺と桃香の関係の中に違和感もなく交わってきた棚島。きっと桃香と同じ波長なのだろう。そして、その波長はきっと俺にも合っている。不思議だけれど、そう思えた。
俺の部屋に布団が一組敷いてある。そこには棚島が眠っている。桃香が無理やり棚島を連れてきた。少し戸惑っている様子で俺の表情を窺っていた棚島に微笑んで頷いて見せた。俺としてはもう婚約者なので、桃香と一緒に寝るものなのだと思った。いくら桃香が棚島のために事前に父が使っていた布団を干して準備していたとしても、そんなもの無駄になるのだと思っていた。それと同時に、俺のいるところでコトが始まってしまったらきついとも思った。それでも、俺が我慢すればいいのだと思っていた。そのくらいは棚島の事を認めていたのだ。なのに、棚島は困ったように俺に縋り、俺の部屋で寝ると言ってきた。桃香はそれに対して別に不満を抱いている風では無かった。それよりも、俺と棚島が仲良くなっているように見えたのか、歓んでいるようにも見えた。俺は迷ったが、棚島の願いを聞いた。
眠る時、俺は不思議に思って棚島に聞いた。
「お兄さんも男ですから分かってくれると思います。結婚するまでは身体を大切にしたい、という願いは私としても素敵なことだと思いましたし、そういった願いはとても大切なものだと思えたので叶えてあげたいと思って我慢してきたんです。だから、引き止めるどころか、理性を失いそうだったので、桃香さんをきちんと家に帰していました」
ここまで聞くと、棚島が何を言いたいのか分かった。きっと触れたいが触れたら最後、どうなるかが自分でも分かり、我慢に我慢を重ねてきたのだろう。だからこそ、我慢が利かなくなって理性が簡単に壊れてしまいそうで怖いのだろう。いい男だ。きちんと約束を守る棚島を俺は尊敬する。隙あらば、なんて心はこの男には存在しないのだ。一度箍を外したら締めることは難しい。俺が理解をして笑うと、棚島は年上とは思えないかわいらしい表情を俺に見せた。口を尖らせているのだ。
「私が三十過ぎだからって侮っていはいけませんよ。まだまだ盛りのついた男です。枯れてなんいませんよ。しかも、お預けをずっとくらっているんです。お兄さんに言うことではないと思いますが、一緒に寝たら最後、途端に理性なんて一瞬で吹き飛びますよ。確信できます」
「ごめんなさい。意地悪を言ってしまいましたね」
聖人君子の男などいないのだから、俺が棚島という男の見方を間違えてしまったのだろう。こういった男でよかった。オールマイティーでは俺が恥ずかしくなる。
「結婚したら激しそう」
それでも俺はからかうように言ってしまった。
「ええ。俺も怖いくらい」
やっと壁が崩れたのか。ずっと遠慮がちに『私』と言っていた男が『俺』と口にした。
「想像しそうで怖いんだけど」
「想像なんかするな!せっかく結婚を許してもらえたのに撤回されそうで怖い」
わざとらしく頭を抱えながら言う姿に俺はまたもや笑った。この男、結構おもしろいのかもしれない。酒と時間帯のせいか。被っていた猫は脱げてきているようだ。
「想像したら俺は本当に狂いそうだから、止めるよ。というより、多分想像なんてできないね。俺の中の桃香はいつまでも清廉な姿なんだから」
「俺、少し怖くなってきた。何かをきっかけに意味もなく殴られそう」
俺は床に敷いた布団の上に胡坐をかいて座っている棚島の肩を軽く蹴ってやった。
「不誠実な事をしたら半殺しな」
俺の言葉を冗談とは取れなかったらしく、何とも複雑そうな表情をした。脅しておくのが一番だ。
月曜日、興味ありげな保坂を無視し、的場と外回りに出た。的場も何か言いたげで、俺は逃げたい気持ちでいっぱいだった。外でも内でも居心地の悪さは同じなのだ。
「今日はご機嫌ですね」
俺の様子を窺いながら、でもとても楽しそうな笑みを浮かべて的場は言った。俺は単純で表情にしっかり出るタイプらしい。最近は俺の心の中が読み取れるのではないかというくらい、的場の言葉は的確だ。びくりとした俺を見て、的場は楽しそうに笑った。
「別に変なことではないんだよ。ずっと妹の結婚が嫌だと思っていたけど、そんな気持ちも薄れてきて、解放されつつあると言うのかな。だから、なんか晴れ晴れなんだ。楽しみになってきたというかね」
金曜日の夜見た棚島の表情を思い出していた。コロコロと変わった表情は、その日ずっと硬かった表情とは全く別で、棚島の優しさやおもしろさなど様々なものを垣間見ることができた。これから先、俺自身も棚島とうまくやっていけそうな気がしたんだ。堅いだけの男ではなく、柔軟な部分を持ち、TPOを弁えた素晴らしい人間だった。俺も負けてはいられないと思ったくらいだ。
「へえ、妹さん、結婚されるんですね」
「このまま順調にいけばね。いくといいな。やっと俺が認めた男だからね。また違う男なんて言われたら、俺はおかしくなりそうだよ」
俺の言葉に的場はクスクスと笑った。飛び跳ねるように俺の隣を歩く的場はとても楽しそうだ。
「結構シスコンなんですね」
俺を見上げてからかうように言う的場の顔を右手で掴み、少し力を入れた。的場の右頬に親指、他の四本は左頬に触れている。的場の口がおちょぼ口になっていて、俺は思わずクスリと笑った。的場はずっと動作を忘れたように止まったまま動かなかった。そして、俺はやっと理解した。俺はまたしでかしてしまったのだ。これではまるで街中でいちゃつくカップルだ。歩道の真ん中で急に立ち止まり、迷惑千万。俺が一番いやな恋人同士の姿を今の俺は再現してしまっている。俺の思考は少し止まった。この状態の回避の仕方を考えようとして、許容の範囲を超えてしまったのだ。
きっと停止していた時間は一瞬のようなものだったのだと思う。俺はハッと気づき、その手を離した。そして、逃げるように歩きだした。的場がついて来ているのか、どんな表情でいるのか、振り返って確認する勇気はなかった。
3人で和やかに会食。陸君が心配するほどでもなく、彩季はとても大人の男。
次回は陸君おいた。
桃香にはいい兄なのになんで他の人には……不誠実……。呆れずにお付き合いください。




