加賀山桃香2
家に帰ると、桃香がトランクの中から荷物を取り出していた。今日、海外から戻ってきたのだ。俺を見るなり満面の笑みを向ける桃香に俺もまた笑みを返す。
「おかえり、お兄ちゃん」
「ただいま。仕事はうまくいった?」
「うん。もうわたしは一人前だよ」
桃香は慣れた手つきで荷物を片していく。この会社に入って六年だ。バイヤーとしては三年。それなりの経験をして、ベテランの域に入っていることは分かっているが、今でも心配でならない。できる事なら俺も桃香と一緒に海外に行き、一緒に世界を回りたいと願う。だが、それは叶わない。いつでもどこでも桃香の一番近くにいて、桃香がピンチの時に一番に手を差し伸べてあげられるようにしていたいのにそれが大人になるにつれてできなくなっていくことがもどかしい。
「ねえ、夕飯どうする?」
「俺が作るよ。そのくらい待てるだろう?」
「でも、お兄ちゃんも疲れているでしょう?ピザかなんかとっちゃおうよ」
「モモ、イタリアでピザ食べてこなかったのか?」
「食べてきた」
「なら違うものがいいだろう?」
「まあね」
桃香はクスクスと笑った。俺は桃香の茶色い髪を掻き雑ぜるように撫でる。小さいときから桃香はこれが好きだった。気持ち良さそうに眼を閉じ、総てを俺に委ねる。だから、俺も桃香の頭を撫でるのが好きだった。桃香の心が解放されているように感じるから。
結局俺が夕飯に作ったのは蕎麦だった。俺が作れるレパートリーは少ない。料理のセンスは皆無に近いので余計だ。その中での得意料理で、簡単ですぐできるものが蕎麦だ。温かい蕎麦で具は長ネギと鶏肉だ。
「ねえ、お兄ちゃん」
桃香が下を向いたまま言った。それだけで俺は嫌な予感が走った。ずっとそばにいたんだ。何となく雰囲気や口調などで分かる。
「わたしね、お兄ちゃんに会ってもらいたい人がいるんだ」
俺は箸を持つ手をぎゅっと握りしめた。
――ああ、それ以上言わないで
――ああ、零れ落ちていく
――ああ、崩れ落ちていく
「わたしね、三ヶ月前から付き合っている男性がいるの。その人がこの間、結婚を前提として付き合っていきたいって言ってくれたの。それくらい真剣だって」
「どこの誰?」
これ以上何も聞きたくないのに俺は言葉を口にする。その言葉を誘導するように口にする。
「同じ部署の先輩」
「それで、何で俺が会わなければならない?」
「だって、お兄ちゃんにはきちんと分かってもらいたいから」
「そんな必要はないよ。俺は会わないよ」
「なんで。何でそんな事を言うの?」
「何で、って」
ああ、この先の言葉が続かない。もう、桃香にとって俺は必要のない存在なのだろうか。そう思うとはち切れそうなくらい苦しくなる。
俺はずっと桃香のために生きてきた。そして、これからもそうなのだと信じてきた。そうであろうと思っていた。こんな可能性がある事を知っていながらずっと意識から逸らしてきた。眼を逸らしてきた。こんなことなら心構えのためにきちんと対峙しておくべきだった。あらゆる可能性を考えておくべきだった。そうすれば、嘘だって吐けただろう。桃香を傷つけない嘘を。そして、俺はどうすればいいのだろう。俺は――。
「お兄ちゃんに認めてもらいたいと思うのは当たり前でしょう。たった一人の家族だもん。きちんとお兄ちゃんに紹介したい」
「そんなの必要ないって俺が言っているんだ。それならそれでいいじゃないか」
俺は苛立ってきて、大声でどなりながら箸をテーブルに叩きつけた。
「もういい大人なんだから勝手にしろ!」
思いっきり走って辿り着いたのは駅前。
もう十一月だけあって肌寒い。上着も着ていなければお金も持っていない。逃げるように出てきて、息が切れた場所が徒歩十五分程の距離がある駅。そして、やっと俺は冷静を取り戻した。
「何やっているんだか」
部屋を出る時桃香が叫んでいたような気がする。無我夢中だったから確かではないのだけれど。
「何でこうなるんだよ、まったく」
俺は歩いていた足を止めた。そしてゆっくりと来た道を振り返った。
――桃香を守るべき俺が桃香を傷つけてどうするんだよ。
――俺だけは桃香を傷つけても泣かしてもいけないのに。
訪れるのは後悔ばかりだ。何も考えず、部屋を飛び出してきたけれど、もしかしたら今桃香は泣いているかもしれない。泣いていたら俺はどうすればいいのだろう。桃香を守らなければならない俺が桃香を泣かすなんて許されるはずがない。
俺は来た道をおもいっきり走り出した。少しでも桃香が辛い時間を短くするために。
――俺は桃香を笑わせるためだけに存在しているのに。あの笑顔のためだけに存在しているのに。
「ごめん、モモ」
玄関の扉を開けて駆け込むと、桃香は玄関で膝を抱えて座っていた。ゆっくりと頭が上がり、眼が俺を捉えると、桃香は勢いよく立ちあがり、その勢いのまま俺に飛びついてきた。情けないことにこんな展開を想像していなかった俺は、あまりにも桃香が勢い良く抱きついてきたものだから、バランスを崩し、よろけ、玄関の扉に思いっきり頭を打ちつけた。
「モモ?」
後頭部の痛みに耐えながら、痛い表情を見せないように取り繕い、そっと桃香に微笑んで見せた。
「置いて行かれると思った」
振り絞るように出されたその言葉は、俺を一気に締め付ける。桃香は俺に力強くしがみついてきた。
「ごめん。動揺した」
「動揺?」
「なんかさ、娘をとられる父親の気分?」
耳元でクスリと笑う声が聞こえた。ゆっくりと桃香は俺から離れた。そして、じっと俺を桃香は見つめる。
「お兄ちゃんはお父さんでもあるんだ」
「そりゃあ、保護者みたいなもんだし」
「よかった。そんな理由で。お兄ちゃんが帰ってこなかったら嫌だもん」
淋しそうに微笑む桃香を見ていたくなくて、俺は乱暴に桃香の頭を撫でた。
「俺の居場所はここだから、ここに必ず帰って来るよ」
桃香の隣に。桃香を守るためだけに。
俺の居場所を作ってくれたのは桃香だった。傷心の桃香を守ることが俺の価値だった。存在価値はそこにあった。だからこそ、もう俺の役目が終わったのかと思うと喪失感でいっぱいになり、何も手に付かない。桃香が結婚したら俺はどうなってしまうのだろう。
俺は安心しきったかわいらしい顔で隣で寝ている桃香の髪をそっと撫でた。桃香の両親と俺たちの両親の命日以外で俺のベッドに潜り込んできたのは初めてだ。それくらい今日の出来事は桃香にとってショックだったのだろう。
俺たちの両親は高校生の頃、交通事故で亡くなった。皮肉な偶然に俺は言葉を失った。ずっと大切なものを失った時、桃香の心がどんな風に傷ついたのか分かっているつもりだった。だけれど、いざ自分の身にそれが降りかかり、大切なものを失った時、それが全く次元の違うものなのだと思い知らされた。俺は何も知らなかったのだとその時知ったんだ。
幼かった桃香が背負った喪失感は想像以上だっただろう。言葉では言い表せないくらいの膨大なものだったに違いない。そして、桃香はそれをもう一度経験しなくてはならなくなったんだ。それがどれほど追い立てるものなのか俺は知らない。だけれど、俺も同じように大切なものを失ったのだから、その喪失感は共に感じることができた。
俺は桃香を守ることで精一杯だった。俺のことを気遣ってか泣くことも俯くこともしなかった桃香。そんないじらしい桃香がかわいらしくて痛々しくて、俺はそっと桃香を抱きしめ、何度も何度も「泣いていいんだよ」と囁いてみせた。だけれど、桃香は首を横に振るだけで懸命に涙を堪えていて、なぜかそれが本当に嬉しくて優しくて、温かく感じたんだ。
両親が残してくれた遺産やマンションなどだけでは生活ができず、アルバイトも始めた。一緒に暮らしてくれる叔母はいたが、彼女は俺たちを甘やかさなかった。だから、実質俺たちは自分たちで生きていかなければならなかった。
高校の時は桃香もお転婆なくらい元気だったから、同じ場所でアルバイトをした。それは悲しむ暇がないくらい忙しい日々だった。きっと俺は桃香を助けているつもりでいて、桃香に助けられていたんだと思う。もし桃香がいなかったら俺はここまで頑張れなかっただろう。何もやる気が起きず、総てを投げ捨てていてもおかしくなかったと思う。桃香がいたから頑張れたんだ。泣く暇さえないくらい頑張れた。
そして、大切なものをまた失ってしまった桃香はその喪失感のあまりか、恐怖なのか分からないが、命日前日に一人で眠ることを嫌う。心が一層敏感になり、それを俺は敏感に感じ取らなければならない。そして、今日きっと、俺を失うかもしれないと桃香は感じたのだろう。それほどまでに俺は桃香を追い詰めてしまった。
俺が帰ってからずっと桃香は俺を眼で追っていた。風呂から出ると、俺の姿を確認し、ホッと息を吐く。その姿を見るたびに先程した行いを悔いても悔いきれない痛みを得た。
俺が寝るために自室に向かった時、桃香は俺のシャツの裾を掴んだ。その力は強かった。振り返って桃香を見ると、俺を強い力でじっと見つめて唇を噛みしめていた。手が震えていることが分かった。思わず桃香を力いっぱい抱きしめた。桃香は泣くことはなかったけれど、その姿は泣く以上に痛々しかった。もう、あんな姿は見たくない。桃香は笑っていなければならないんだ。
「ごめん、モモ」
そっと頬を撫で、俺は桃香を包み込むように眠りに就いた。
話が少し進めばそれなりに充実した読み物になるはず……。
なので、懲りずにお付き合い願えれば嬉しいな、と思っています。
ずっと悩んで、一つの手段を。意図的にお話を進めればいいのです。うん。ということで、次のお話も同時更新しちゃいましょう。うん。そうしましょう。
次回は数年目の真実。別に大した真実じゃありません。




