保坂連5
一月、仕事が始まり、年始のあいさつ回りが落ち着いた頃、事件が起きた。それは保坂から聞かされた。有無を言わさず、昼に俺を外に連れ出し、会社の人が来なさそうな店に入った。店の奥の角の席を選び、俺たちは向かい合って座った。保坂は乗り出して、ひそひそ声で話し始める。
「いいか、落ち着いて聞けよ」
最初がそうだったから、嫌な予感がした。
「変なメールが会社中にまわっている。犯人は不明だ。秘書課の女性から情報を得た。モモちゃんがおまえと棚島さんを二股かけているという内容のものだ。しかも写真入りだ。もう出回ってから五日程経っている。俺たちのところにはメールが届いていないのは多分意図的だろうな」
俺は呆然とした。どんな悪意なのだろう。
「その人から俺のパソコンへメールするように言っておいたから、仕事終わり待っていろよ。人が少なくなったら一緒に見よう」
「それって、モモを傷つけるような内容なのか?」
「現物を見て決めろよ。ただ、誰に対しての悪意でも最低だな。別に事実じゃなくても構わないんだろう。いたずらにしてはやり過ぎだ」
「そんなのいたずらでは終わらないだろう」
そのメールは桃香の眼に止まっているのだろうか。棚島は知っているのだろうか。桃香は周りから変な眼で見られていないだろうか。俺は不安で仕方なかった。桃香を傷つけるもの総てが俺の敵だ。
「落ち着け。熱くなり過ぎるなよ。こういう時冷静さを保った方が勝ちだ。分かるよな」
俺は保坂をじっと見つめ、頷いた。その通りだ。冷静になって考えなければならない。桃香のためにどうすればいいのかを考える必要がある。
俺たちのテーブルに注文した定食が届いた。俺はから揚げ定食で、保坂はとんかつ定食だ。変な話だが、みそ汁を飲んで気分が少し落ち着いた。相変わらずおいしくない。
「俺としては会社にそういった低レベルの人間がいる事が許せないんだよな。人を傷つけることに労力を遣うより、ほかで頑張ってほしいもんだよ。言えば、同じ会社で働いている俺たちも同レベルという事なんだよ」
極論だが言いたい事はよく分かった。保坂はこれでもかという程ご飯を頬張り、食べている。きっと女の前ではこんな姿は見せないのだろう。基本、保坂は几帳面だ。おでんの食べ方でもわかる。育てられ方が違うのだろう。
「陰湿極まりない」
「おい、おまえの方が落ち着けよ」
俺は可笑しくなって笑った。俺に冷静になれと言った本人の方が熱くなっている。
「あのなあ、俺は落ち着かなくてもいいの。被害者じゃないからね。第三者はこのくらいが丁度いいんだよ」
保坂は大きな口を開けてとんかつを一切れ口に放り込んだ。
「まあ、お陰で俺は落ち着いた」
「だろう?モモちゃんにとって最善の方法を見つけ出せよ」
保坂に見せてもらったメールの内容は『バイヤーの加賀山桃香は淫乱。二人の男を手玉に取って遊んでいる』と題がつけられていた。写真が四枚貼られており、俺と桃香が手をつないで歩いている写真と寄り添っている写真がある。多分、いつだったか俺を気にかけてくれて、桃香から手を握った時のものだろう。寄り添っているのは桃香の両親の命日前日のものだろう。確かあの時は的場も一緒だったはずだが、彼女の姿はない。棚島との写真も二枚。一枚は仲良く手をつないで歩いている写真。もう一枚は駅で向き合っていて、棚島が桃香の腰を抱き桃香とすごい近くで笑い合っている写真だった。何とも眼を背けたい現実がそこにはあった。保坂は俺のその心情に気づいたのかおもいっきり後頭部を叩いた。
「イタッ」
「イタッじゃない。まったく。本当に娘を見守る親父だな。いい年をした女性なんだから仕方ないだろう。もう結婚だって約束しているなら尚更だよ。キスシーンじゃなかっただけありがたいと思わないとな」
保坂の言葉に年末の桃香の言葉を思い出した。身体の関係はまだ持った事がないようだが、過去キスをした相手はいたようだから、きっと棚島ともキスはしているのだろう。キスだけで済んでいてよかったと思うべきなのだろうが、俺の心はついてはいかない。
「一番簡単なのは加賀山陸と加賀山桃香は兄妹だと公表することだろうな」
「あのな、そんな簡単な問題じゃないんだ。俺たちは同い年だけれど、誕生日が違う。それだけの資料で血がつながっていない事が丸分かりなんだよ。そうしたら変な詮索してくる奴だっているだろうし、妄想だって膨らむ」
「なるほどな。年が離れていれば問題ないけど、同い年が痛手か」
「今まで何度も経験している」
「へえ」
保坂は機嫌悪い俺を一瞥した後、メールの画面を消した。これ以上機嫌を悪くしてはいけないと思ったのだろう。賢明な判断だ。
「それにしても、はっきりとは分からないけれど、棚島さんもいい男だな。モモちゃんと向き合っている写真なんてすごくいい笑顔をしている」
「いい奴なのはモモから聞いて分かっているよ。でもさ、いくらいい奴だからって、やっぱり違うだろう?どんなパーフェクトの相手でも駄目なものは駄目なんだよ」
「まるっきり親父だ」
保坂は楽しそうにクツクツ笑う。俺だって分かっている。こんな俺がはだかってはならないことも分かっている。
俺たちは帰る準備をして、事務所を出た。保坂に送られたメールはすでに消した。誰かに覗かれる心配はないだろうが、もしかしたら何かの拍子で見られる可能性がある。これも保坂の気遣いだった。
「今日はモモちゃんの様子を窺ってみろよ。だけど、おまえは不審な行動はとるなよ。感づかれたらおしまいだからな」
保坂は無茶を言う。俺に桃香相手にポーカーフェイスをしろと言うのか。
「その感じだと無理そうだな」
保坂はまたクツクツ笑う。俺を見て楽しんでいるのだ。悪趣味もいいところだ。
「丁度金曜日だし、明日はデートの予定もない。これは神のお導きということで、今日はおまえの家にでも泊めてもらおうかな」
「止めろよ、そういう冗談」
「冗談じゃないよ」
「モモの身が危ない」
「いくら俺でも兄貴のいる部屋で妹は襲わない」
「それくらい分別あるって言いたいのか?」
「ないとでも?」
「いや、来てくれたら助かる。だが、布団がない。両親が遣っていたものはずっと干さずにしまわれているし、俺のベッドはシングルだ」
「なら、モモちゃんと一緒に寝ようかね」
「分別あるんじゃなかったのか?」
俺をからかっている言葉だとは分かっている。分かっているけれど、やはり許せないものは許せない。
「じゃあ、陸君を抱きしめて寝てあげるよ」
保坂は俺の肩を抱きながら言った。こっちの分別はなさそうで怖い。
「分かった。俺がモモと一緒に寝るよ。保坂は俺のベッドで寝ればいい」
「なんだよ、冷たい男だな」
保坂はわざとらしく口を尖らせた。
帰った時はまだ桃香はいなかった。多分棚島と一緒なのだろう。あの写真を見たせいかなんとなくキツイ。
保坂は遠慮することなくリビングのソファに座り、部屋の中を眺めていた。
「スーツ皺になるだろう」
俺は自分の部屋着を保坂に渡した。
「ありがとう」
保坂に俺の部屋で着替えるように促し、俺は酒の用意をし始めた。夕飯はもう食べてきた。酒を楽しめばいい。料理はできないから、缶詰やチーズを用意した。
「お、準備万端だね」
保坂はソファに座り、グラスに焼酎を注いだ。すでにグラスには氷は入れてある。俺は温めておいた冷凍食品のシュウマイをトレイのまま出した。
「モモちゃんは?」
「デート」
「なら俺来る必要無かったんじゃないか?」
「あるよ。今日中には帰って来る」
「嘘」
「本当。律儀に相手はモモを帰してくれるんだよ」
俺は乾杯をすることなく焼酎を飲んだ。ロックだけあり、強いアルコールだ。
「俺には無理だな」
「愛のなせるわざなんじゃないか」
箸を遣わず手でシュウマイをとり、パクリと食べた。保坂は箸で上品にシュウマイを食べた。
「結構いいマンションだよな」
「親が残してくれたものだよ。ここを売って会社の近くに住もうと思ったんだけど、モモが嫌がった。モモが結婚をしたら、ここを売るつもりだよ。俺一人でここは広過ぎる」
「確かに独り暮らしは淋しいかもな」
「あまり金にもならないかもしれないけれどね」
「俺と住む?」
保坂は本気か冗談か判断付かない口調と表情で言った。
「一緒に住んだら部屋に女を連れ込めないよ」
「俺は連れ込まない主義。まあ、陸君が連れ込めなくなるのが辛いか。いや、今でも連れ込んでいないんだからその辺は問題ない?」
「蓮君、モモがいなくなったら連れ込むと思うよ、俺はさ」
保坂はおかしそうに笑った。
「でも、モモちゃんはここを残して欲しいんじゃないのか?」
「かもね」
「ならさ、本当に俺ここでシェアしてもいいよ。家賃は払う」
どうやら本気だったようだ。
「ありがとう。考えておくよ」
保坂は焼酎を飲みほした。
しばらく他愛ない事を話しながらお酒を飲んだ。
「なあ、変な事を聞いてもいい?」
俺の言葉にとろんとした眼をした保坂がこちらを見た。この眼にじっと見つめられるのはちょっとお断りしたい。色気を放出し過ぎだ。
「おまえの保坂はどこからきたの?」
「え?どういう意味で聞いているのか分からないよ。きちんと頭で整理してから聞け」
「本名は葉迫だろう?どうやって保坂という偽名を決めたのかと思って」
「ああ、そういうことか。今更か?」
「ずっと気になっていたんだよ」
保坂はにやりと笑った。
「おまえの事だから解決済みだと思っていた」
「何をどうやって解決?」
「どういう意味だと思う?」
「保坂?母親の旧姓、とか?」
「ああ、そういう方向で考えちゃったわけね」
保坂はとても楽しそうだ。俺が答えを導き出せない事がそんなに楽しいか?というくらいニヤニヤとしている。
「簡単だよ。アナグラム。ローマ字に変えて並び替え」
「は?」
「HASAKOとHOSAKA。単純なお遊びだっただけなんだ」
「言われれば単純か」
本当は聞いてはいけないことなのだと思っていた。踏み込んではいけない領域のような気がしていたけれど、お酒の勢いで踏み込んでみようと思って勇気を出したのに、答えは想像以上に呆気なかったな。現実って意外にこんなものなのかも。
「アナグラムか……」
これは考えもしなかった。言われてみれば一番決めやすい方法だよな。
お互い眠くなり始め、俺がシャワーを浴びている頃、桃香が帰ってきた。
「あ」
桃香の声が響いた。俺は急いで身体の石鹸を流し、浴室から出た。
「こんにちは。お邪魔しています」
保坂の声が聞こえる。桃香は楽しそうに笑っていた。
「兄はお風呂ですか?」
「ええ。グッドタイミングですね。邪魔者がいませんから」
「焦ってすぐ出てきますよ」
「なら、キスシーンでも兄上に見せてあげましょうか」
保坂は楽しそうに言う。冗談だとしても聞きたくないセリフだ。俺は身体を拭くのを程々にし、服を身につけ、急いでリビングへ行った。
「残念ながら兄が来てしまいましたね」
保坂は先程と同じところに座り、桃香の方を向いて、お酒を飲んでいた。桃香は、キッチンでオレンジジュースを飲んでいた。
「うかつだったな。危険分子を放り投げたままシャワー浴びちまった」
「あれ?陸君は俺と一緒にお風呂に入りたかったわけ」
「冗談言ってないで浴びて来いよ」
「はいはい。まったくモモちゃんが絡むと冗談も通じなくなるんだから。ねえ、お兄ちゃんは駄目だよね、モモちゃん」
キッチンのカウンタに身を乗り出して、桃香の顔を覗きこみながら保坂が言った。桃香は楽しそうに声をたてて笑っている。
「過保護なものですから」
「おお、よく知っているね、モモちゃん」
「ほら、早く入ってこいよ」
「モモちゃんも良かったらどう?俺は歓迎するよ」
「わたしはゆっくり入りたいのでご遠慮します」
小悪魔の笑みを意図的に作った桃香はとてもかわいらしかった。それは保坂も感じたようで、一瞬保坂の表情が固まったのが分かった。俺は保坂とすれ違う時「惚れるなよ」と囁いてやった。
保坂がリビングを出た後、桃香はクスクス笑いながらキッチンから出てきた。
「今日、モモの部屋で一緒に寝てもいい?」
「あれ?保坂さんと一緒に寝るんじゃないの?」
「モモまでそういうネタで遊ばないの」
モモは手をひらひらさせながら、自室へ入って行った。
保坂の事もあって、メールの事を気にする事もなく桃香と接することができた。保坂はそれを気にして道化を演じてくれていたのかもしれない。それならばいい奴だ。
ということで軽く事件です。この後保坂は会社の人間に命じてすぐに犯人判明。という感じ。ここはお話に出てこないので、ばらし放題です。まあ、あまり欲しい情報ではないですね。
保坂の本名の件は文章の通り。本当はばらすつもりはなかった……。それかもっと後半でちょろりと出すつもりだったのに、すごくいいタイミングでこんなシーンがあったものだから思わずここで投入。
そして、ありがとうございます。ユニーク数初30人越え!という低レベルな喜び。それでも書き始めの頃に比べたら多くの人に読んでもらえています。このまま減らないでいてほしい!と願いを込めて。
次回は次の日。陸君と連君の会話は続きます。どうしても二人が一緒のシーンが好きなので長くなってしまうのですね。引き続きお付き合いください。




